三国旅行体験談

中国の船…ゴミの話

 中国人は、公共心が欠如していると思うことがある。道端ではぺっぺとタンを吐きまくり、道端にゴミを捨て、食べ物を食いちらかしてももちろん平気だ。あるときが乗った船でも人民たちはその公衆道徳の低さを遺憾なく発揮し、方便面(カップラーメン)を買ってはその食べ残しをプラスチックの容器ごとポイポイと長江へと投げ込んでいた。「まったく、なんてやつらだ……!環境破壊もいいとこだ」この光景を見て怒りを覚えたは、これまたカップメンを食べ終えると、ちゃんとゴミ箱へすてて、「んふふふ、見たか。おれはおまえらと違って、ちゃんとゴミ箱へ捨てたぞ。」と満足感に浸っていた。し、か、し、……清掃員のおばちゃんがやってきて、ついいましがたが捨てたカップメンのはいったゴミ箱をやにわに持ち上げると「えいやっ!!!」とばかりに中身を河へと投げ込むではないか……!ボチャ、ボチャ、ボチャン。…こうして、の捨てたカップメンもまた、同じように環境破壊に一役買ったのでありました。


重慶名物“棒棒軍”

 三峡下りの船に乗るため、が重慶のホテルから船着場へ向かったときの出来事。重慶の街は坂が多いことで有名で、そのせいもあるのか街には“棒棒軍”と呼ばれる荷物運びがたくさんいる。このとき、は成都で短期留学したあとだったので、重いスーツケースを荷物として持っていた。船着場は最も近いバス停からもいささか距離があり、ごちゃごちゃした道には奴ら―――、“棒棒軍”がわんさかといた。「へい!旦那!!荷物、持ってやるよ!!」「先生!!おれが持ってやるよ!」「社長!!おれにまかしときなよ!!」でかい荷物が仇となっては奴らの激しい勧誘を振り払いながら歩かなければならず、なかなか厳しいものがあった。しかも船着場に近づけば近づくほどに“棒棒軍”の数が多くなっていくのだ。てめえら、他に仕事はないんか?さてもうじき船にたどりつくというあたりまで歩いてきたは眼下にものすごい長さの下りの石段があることに気づいた。このとき、よりも荷物が重かったは体力的にかなり消耗していたので石段の途中でスーツケースを置いて、一息つこうとした。そのときだ。

 がしいいっっ!!

 の両端にいた2人の“棒棒軍”が同時にのスーツケースをつかんだのだ!!そして、やつらは荷物の主人であるそっちのけで大喧嘩をはじめた!!!!!「これはおれが運ぶんだ!!」「いいや、おれが運ぶんだ!!」「おれだ!!」「いいや、おれだ!!!」

 や、やめろ、やめてくれ!おまえらのどっちにも運んでくれなんて頼んでねえっての!!しかし2人は止めようとするを完全に無視し、がっちりとスーツケースを掴んだままなおも口論を続ける。2人のボルテージは最高潮に達し、今にも殴り合いになりそうだ。こうなっては仕方がない。は不本意ながらも片方の“棒棒軍”を指さし、「あんたにお願いする」と指名した。指名されたほうは勝ち誇ったような顔をし

(これがかなりムカついた)、意気揚揚と荷物を抱えた。それでもう片方の奴も諦めたので、事態を何とか収拾することができた。交渉の結果、船まで3元の運び賃と決まった。そのあとの荷物と二つで5元となり、船までは楽に乗り込むことができた。

 さて、船室まで荷物を運んでもらったところで運び賃の5元を渡そうとすると、この野郎が、本性をむき出しにしてぼったくりモードに突入した!!「ああー、重かった。5元じゃ、足りない。」

 キレた。そして大口論になった。

5元で契約したんだから、おれは5元以上は絶対に出さんぞ!!!」

棒棒軍「重かったあー、肩痛てえー、もっとよこせー」

 すでに怒りが頂点に達していたはこの腐れ外道に怒りの鉄拳を食らわそうとしたが、に止められた。「落ち着くんだ、サル。平和に、平和に解決するんだ。」

 そんなこんなで騒いでいるところを、客船の船員が発見して仲裁に入った。船員も奴ら“棒棒軍”達の汚い手口に好意的ではなかったので、5元を代わりに渡してくれ、奴を船から追い出してくれた。

 こうしてようやく平和が訪れた。しかし、この船でもは無事では済まなかったのだ。それについては、次の話で。


遊覧船名物?ぼったくりマージャン

 が長江の三峡下りの遊覧船に乗っていたときのこと。このときは気合を入れて一等船室の切符を買い、船室でくつろいでいた。…と、いきなりあやしげな中国人が「まーじゃん!!まーじゃん!!」と言いながら船室へと乱入してくるではないか。ちょうど気分が高揚していたマージャン好きのはあっさり奴らの誘いに乗り、「OK!!」とばかりにくっついていった。しかし、卑怯なは一人じゃ不安だったので、マージャンまったく素人のをなかば無理やり一緒に連れていったのであった。

 さて、娯楽室のようなところに案内されたはまずルールについて説明を受けた。すごいルールだった。日本のマージャンはタンヤオ、ピンフから大三元までさまざまな役があるが、奴らのそれは単純明快、揃えれば“あがり”、ただそれだけ。点棒はなく、替わりにトランプのカードを使うとこが怪しげである。ツモであがると他の

3人からカード4枚ずつ、ロン(出あがり)だとその人から2枚だけもらえるという、ツモとロンのスコアバランスが異常に悪いところも心底怪しげである。じつは恐ろしくカモられまくるんじゃないの??といまさらながらに気づき始めたに奴らは「カード一枚につき50元」という超絶高レートを提示してきた!!「貧乏だから」「学生だから」と必死になって交渉し、何とか1枚5元までレートを下げることに成功。

  ……そして…、ゲームスタート!!奴らのすさまじい猛攻が始まった!!

 ものの20分で100元余りの負けが計上された。もともと勝てるわきゃないのだ。奴らと、人数的には22だが、は素人で全く戦力にならないところも厳しい。早いとこ逃げないとやばいが、はそのまえにどうしても1回だけあがってみたかった。ああ、この世に神様がいるのなら、運を、おれに運をくれええええええ!!!!必死で戦った結果、はついに牌をそろえ、ツモあがりに辿り着いたのであった!!ちょうどの点棒替わりのカードがなくなり、トンズラには絶好の状況。「いやあー負けちゃったあ」とかいいながら50元を卓におき、すかさず「再見!!」と笑顔を見せると、娯楽室を立ち去ったのでありました。

 こうして危機的な状態をなんとか最小限の被害で食い止めることができた。は今回の“事件“の責任をとらされ、負け分の

50元を全て負担する羽目になった。ちなみにがその後、中国にて二度とマージャンをしていないことは言うまでもない。

絶景も台無し!!泰山山頂のいかさま写真屋

 が週末旅行で泰山に行ったときのこと。初日に“泰山名物・心臓破りの階段地獄”をのりこえ、山頂近くに宿をとったは、翌日早朝に山頂へ登って日の出を見るという計画をたてていた。宿の主人に明日の日の出は

5時半という情報をもらい、冷えるというので人民解放軍コートを10元でレンタル。翌朝は4時起き4時半出で勇躍して山頂へと向かった。

 幸運なことに天気は良好。朝もやの薄明かりの中、眼下に広がる雲海、早くも絶景である!!日の出少し前に眺めが良いことで有名なポイントに到達した。周りには同じように日の出を見に来た人民たちもおり、なかなかいい感じである。そして

525分。

 でた、でた、でたあ!!!日の出だあ!!!周囲からは歓声がわき、正直これにはも心の底から酔いしれた。素晴らしい、本当に素晴らしいの一言だ。ふとはこの思い出を形にして残したいという思いにとらわれた。しかし、カメラを持っていない。そんな時、の目に「記念写真 10元」の看板が飛び込んできた。いっちょ、とってもらうとするか。

 と、いうわけで写真屋を呼び、日の出の前でポーズを取る。写真屋もなれたもので、手際良くひとごみをどかすと撮影を開始した。パシャ、パシャ、パシャ、とシャッターが切られる。さあ、いい思い出ができた…と写真屋に10元渡そうとすると、奴はニヤリと笑い、こう言い放った。「今、6枚とった。110元。6枚で、しめて60元!!」

 な、な、なんだとお―――――!!!!頭の中で何かがはじける音がし、は写真屋との戦いに突入した。

「ふざけんな!!

6枚もとれなんて頼んでねえぞ!!」

写真屋「でも6枚撮った。だから60元だ。」

「おれは絶対に10元しか払わんぞ!」

写真屋「絶対60元払わせる!!」

 なんとも憎らしいことに、こいつが1歩も引かない。もちろんだって1歩も引かない。激しい口論は平行線をたどり、時間だけが過ぎていった。このままでは埒があかないので、多少作戦を変更し、「たくさん撮影したんだから20元に割引しろ」と要求を出した。写真屋も「40元」といささかの歩み寄りを見せたものの、依然両者の主張には大きな開きがある。この状態でさらに膠着状態が続いた。戦闘開始より30分以上は経っており、すでに太陽が高く上がり始めている。堪忍袋の緒が切れたは、ついに最後の手段、金を払わないで帰るという行動に出た。しかし写真屋だっておめおめと逃がすわけにはいかない。追いすがり、またもや大喧嘩。は激昂して拳を岩にガンガンぶつけた。これは愚行だったようで、拳が破れて血がしたたりだした。いたい。はっきり言って痛い。最後に写真屋が30元を提示し、負傷してこれ以上の戦闘が難しいもその条件を飲み、激闘に幕が引かれた。拳は痛いし、気分は最悪。感動が台無しになってしまった。

 こうして、泰山での記念写真は違った意味合いでも非常に思い出深いものとなったのであった。


語言大学“塔楼”の罠

  は北京留学時、語言文化大学に在籍していた。ここにはツインタワー形式の

(と言ってもなんもカッコイイもんではないが)“塔楼“と呼ばれる留学生宿舎がある。もここに部屋を借りていたのだが、年代がいってるためオンボロで、男子寮なのに公然と女子が(同棲状態で)すんでたりと、かなり怪しい場所である。またエレベータは”綱が切れる“ことで有名で、エレベータの地下にはクッションがわりにワラとか敷いてあるという噂もあった。まあ文句を言えばきりがないが、それなりに居心地良く生活させてもらっていたことも事実だ。しかし……。そんなに甘くないのが”中国”の留学生宿舎なのであーる!!!!

  は帰国の1ヶ月前、新境地を開拓するためベトナムへと旅立つことにした。そのため、長らくお世話になった“塔楼”をチェックアウトすることにした。さて、この“塔楼”は寮費の支払方法が半年ごとに半年分一気に払込をするという方式で、のように早くチェックアウトする場合はそのときに差額を返還することになっている。そして差額の返還には“塔楼”管理人のサインが必要だ。

  ベトナムに旅立つ前日はチェックアウト手続きを着々と進めていた。最後に、「部屋の備品を確認する」ということになり、管理人が部屋にやってきた。もちろん問題なし・…・と思っていたのだが、驚くべきことに奴らは突然言いがかりをつけてきた。「魔法瓶が壊れてる。さらに、ベッドの敷布団とシーツがそれぞれ足りない。これらの品の弁償代として、90元を支払うように。」

 な、なんだって!?これには耳を疑った。みると1度たりとも使った事がない魔法瓶は確かに壊れている。どう考えても最初から不良品だったとしか思えない。まあ、いい。それはまだいい。弁償代も5元くらいだったのであきらめもつくというもんだ。けど……、敷布団とシーツってのはどういうことだ!!てめえら!!!!!

 チェックインしたときには敷布団、シーツともに一つづつしか配布されてない。ところが奴らは2つずつ配布したと言い張り、足りない分の金を請求しているのだ。こっちは80元ぐらいで、しょうがないと笑って済むほど安い金ではない。で、どうなるかというと、ケンカ。もはや中国のお約束ともいえる激烈口喧嘩に突入するというわけだ。お決まりのパターンで両者の主張は平行線、埒があかない。

 しかしこっちには決定的に不利なところがあった。前述した「差額の返還には“塔楼”管理人のサインが必要」ということである。なにしろ1ヶ月前にチェックアウトするわけで返還金の額はかなりでかい(1000元以上はあった)。しかもあすベトナムに旅立つためには時間的余裕が全くない。すでに時計は午後4時、あまりここで長時間けんかをしてしまうと、事務所が閉ってしまい返還金を受け取れなくなってしまうことになりかねない。仕方なかった。弁償金92元、支払った。そして、管理人のサインをもらうことができた。

 さて金を払ったとたん管理人は急に友好的になり、「急げ!早く行かないと事務所閉っちゃうぞ!」「ちゃんと話してお金受け取るんだぞ!」とか言い出すから怖い。事務所へはぎりぎりで間に合い、返還金を受け取ることができた。

 こうしてようやく手続きが完了したわけだが、“塔楼”のこのやり口はなんとも汚い。ちなみにもチェックアウト時に同じように言いがかりをつけられ弁償金払わされたことからも、このやり口がいかさまであることは証明されると思う。


奉節行きの48時間耐久船

 は以前三峡下りの遊覧船に乗ったことがあるが、このときの遊覧船はなっていなく、無情にもが一番楽しみにしていた白帝城を深夜に通過という暴挙をやらかしてくれていた。このままじゃ、済まさんぞ!いつか、白帝城に行ってみせる!と再起を誓ったに、機会が訪れたのは翌年の夏だった。下流の宜昌という街から長江をさかのぼって奉節(ここに白帝城がある)を目指すという計画である。さて今回は遊覧船でなく一般船の、それも5等船室の切符を取ったは、午後6時発の船を待って待合室で本を読んでいた。案内板には奉節まで13時間と書いてあり、おろかにもこの情報を鵜呑みにしたは、明日は遂に白帝城だ!!と意気を燃やしていたのであった。

 

さて、待っているうちに時刻は5時。そろそろアナウンスが入るかな…、と注意して待機する。ところが、5時半になっても、6時になっても一向に乗船のアナウンスがない。なぜだ?聞き逃したのか?いや、そんなはずはない。服務員に聞いてみると、「座って待ってろ」という。どうやら遅れているようだ。日が暮れて真っ暗になった午後7時半、ようやく乗船のアナウンスがあった。ふう……、ようやく乗れる…・、と思っていると、案内された場所にはどういうわけかバスが停まっている。え?これって……??何かの間違いでしょ???周囲の人からキャッチした情報によると、現在三峡ダム建設中のため普段使っている船着場が使えず、少し上流にある船着場までバスで移動するらしいとのことだった。

 このバスがまたどえらく雰囲気が悪く、はここで日本人だとバレたらひどい目に遭うんじゃないかと震えおののいていた。そして、「少し上流」のはずの船着場がやたらと遠く、たっぷり2時間もバスに揺られ、午後10時にやっと船着場に到着した。

 さてついたとたん乗客はわさわさと下車し思い思いの方向へと散っていく。も降りたがどちらへいったらいいかわからない。しかもどうやら駐車場のようなところのようで服務員らしき人も全然いない。は気がつくと暗い駐車場にたった一人取り残されていた……。

 やばい。このままじゃ、やばいことになる。とにかく根性で探すしかない。少し歩くと人がいるところに出たので切符を見せて聞き込みをする。ここの人達は親切で、知りもしないくせに自身満々にテキトー教えてくれるからたまらない。ニセ情報に踊らされ東奔西走、状況はどんどん悪くなっていく。

 最終的にどうやって目的の船の乗り場までたどり着いたか覚えていない。それほど必死だったのだろう。し、か、し。が乗船しようとすると、横にいた服務員がこう言ってを押し止めた。「おいあんた。この船は出航明日だよ。」

 ――――――――。これには、一瞬頭が真っ白になった。そして、案内された待合室がさらに追い討ちをかけた。人民達がぬぼーとした様子でそこかしこに座りこんでいる、危険な匂い満載の雑然とした空間。ここで一晩しのげるわけが、ない。これは、に死ねと言っているのか?しばらく椅子に座りこんで善後策を検討していると、汽笛の音が聞こえた。なんと、さっき明日出航と言っていた目的の船が船着場を離れ出したのだ!!!もう、わけわからん。は夢中で走り、最後は飛び込むようにして船に乗り込んだ!!いやあ、何とか間に合った。さあ、明日は白帝城だ……とようやく一息ついたが、この船、なんか様子が変である。10人部屋の5等船室に他の客が誰もいないし、しばらく進んだ後はなんだか走るのをやめて江上で停止いているようなのだ。そういえば出航は明日だというし、もしかして今晩はこのままか?

 予想はずばりと当たった。いや、ある意味予想以上だった。二日目、朝になっても船は微動だにしない。昼になってもそのままだ。おい、おい、おい!!いつになったら動き出すんだ!!船の中では腐り始めていた。

 夕方。どやどやと客が乗り込んできた。

5等船室も客で満杯だ。そして力強いエンジン音。ついに、白帝城に向けて始動を開始したようだ!快調に進むこと30分。船は、江上でまたも停止……。今日も、ここで一晩足止め食うようだ。もうやけくそだ。好きにしてくれ。

 3日目。ついに、ついにまじで動き出した。だが、動いてるのはいいもの、流れを逆流しているため動きが異常に遅い。この日じゅうに白帝城まで到達できるかというわずかな望みも、絶たれた。

 結局、奉節にたどり着いたのは3日目の午後6時。所要時間48時間。悠久の、余りに悠久過ぎる長江と中国の時間の流れ方に打ちのめされた経験であった。



目指せタク州!超絶級自転車旅行

 北京留学中のある日、は日常の移動に便利な自転車を買うことにした。それにちなんで、「自転車購入企画」を何かぶち上げようではないかということになったのだ。その、記念すべき企画が・・…、ずばり、「自転車で劉備の故郷・タク州を訪問」であった!!!タク州は、北京からおよそ75キロほど南にある。往復で150キロ、1日ががりならなんとか行ってこれそうだ。とある土曜日を決行日にし、前日の金曜日には街の自転車屋へ。新品の自転車を250元ほどで購入し、翌日に備えてその日は就寝。

 さて、土曜日。朝5時に集合、出発。タク州までたいした地図もないが、南へ向かう街道があるのでまずはその街道を目指す。士気が高いこともあって、まずは快調な滑り出しだ。北京の街外れ、もう少しで街道に出る辺りまで来たところで朝食。包子(肉饅頭)を食べる。その後、街道へでる。日中戦争勃発で有名な盧構橋の脇を通過。この辺は、この辺までは楽しかった。

 まずケチのつき始めは午前9時半ごろ、道を間違えたことに始まった。基本的に一本道の街道をなぜ、どこでそれたのかはよくわからないが、復帰に手間取り、わけのわからん市場などを通過したりして1時間あまりさまよった。ようやく道にもどっていくらもしないうちに、第2のトラブルがの自転車を襲う。の自転車のペダルに異常発生、がくん、がくんと漕ぐたびにいいだしたのだ。それと、中国製のこの自転車のシートがすごく尻に痛いのだ。これによってはペースが上がらなくなり、それに連れてスタミナを消耗が激しくなってきた。タク州は思った以上に遠く、午後1時半過ぎにようやくタク州の町に到着した。

 昼食をとるが、いまひとつ食欲が出ずであった。

 さて、がここで目指すのは三義廟とドラマ三国志のセットがある中央電視台村の2ヵ所。市内地図を探すが、発見できず。駅前まで行き情報を収集したところ、電視台村までのバスが出ていたのでそれに乗る。途中の道が超絶悪く、がたんがたんとめちゃくちゃシェイクされた。電視台村の近くでバスを降りたときには、シェイクの影響ではトイレに行きたくなっていた。しかも、大きいほう。自転車の痛いシートに尻がやられていて、もうほとんどもたない。トイレ…、トイレ…、ああ、もう、だ、め、だ。

 草むらへ、ダ――――――――ッシュ!!!!!

 こうして、は中国で初めての野グソの屈辱にまみれたのであった。(ちなみに、そのすぐ近くにトイレがあったことが後で判明。)

 さて、電視台村はかなり寂しい状況で、開店休業に近い感じであった。入場料は30元くらい取られたが、中には城や屋敷のセットがあるだけで、申し訳程度にドラマ三国志に使用された衣装が展示されていた。時間がもう4時頃のため、駅へと戻った。

 さて、駅に着いたところで夕方の5時近く。もう三義廟は無理なので北京に引き返すことになった。時間も遅く、が消耗しているため作戦を立て、が2人分の荷物を持ち自転車を交換して走ることになった。が先に行き、後ろを振り返らず出来る限りのスピードで突っ走るということで、もと来た道を引き返す。自転車が換わったことではすこし調子がよくなり、作戦どおり後ろを振り返らず走った。

 しばらく走って、ふといやな予感を感じ後ろを振り返ってみると、がついてきていない。あれ?これはどうしたことだ?しばらく不安な気持ちで待っていると…。

 来た!視界の遥か彼方に飛び込んできたは何故か自転車を引いて猛ダッシュ中ではないか???なんと、おかしかったペダルが遂にぶっ壊れて運転不能になったらしい。事態は限りなく深刻だ。幸い街道を少し行ったところにモーター用品店があったのでそこに駆け込み自転車の修理をお願いする。ここの主人がいい人で、この店では修理は出来ないものの、知り合いの所で修理してもらえるとのことで奥さんが自転車をひいて修理に向かってくださった。待っている間は主人と話したり、お茶をすすめられたりしてゆったりと過ごした。ほどなくして修理された自転車を持って奥さんが戻ってきた。修理代を払おうとするだったがこの夫婦は笑顔で固辞し、も感謝しつつ好意に甘えることにした。

 その後はひたすら走る、走る。すでに日はとっぷりと暮れ、街灯もない街道は真っ暗。通る車のヘッドランプの光だけが頼りだ。夕食は道沿いの寂しげな店でジャージャーメン。香草がたっぷりはいっていたせいか、全部食べれず。

 午後10時半ごろ、ようやく北京の町外れまで戻ってきた。このときはすごくほっとした。

 しかし、油断するのはまだ早く、円明園の近くで道に迷う。うう、もう少しだというのに。手持ちの市内地図と実際の道がどうも違くて、よくわからない。と、そんな時頼りになるのが公安のおまわりさんだ!しかもわさわさ5人くらいいる!と、いうわけで彼らに道を尋ねるが、こいつらが全然使えない。散々わけわからんこと言った挙句、「地下鉄に乗って帰れ!」とか言い出す始末。ふざけんな。もう終電の時間過ぎたよ。しかも自転車乗ってんのが見えねえのか。そんな腐った脳みそで治安が守れんの?

 結局自力で道を見つけ、進む。もう少しというところで、突然女性の叫び声が聞こえた。「救命?!!(Help meと同じ意味)」え?まさか?と思ったところでもう1度「救命?!!!」これは、ただ事じゃない。何かが起こっている。しかし、疲労がピークに達していたはこの声を見殺しにしてそのまま通過した。なにがあったのか。どうなったのか。後ろめたい気持ちが強い。

 こうして、このすさまじい自転車旅行が終わり、宿舎に戻ったときにはすでに午前1時。留学生活屈指の超絶級の1日であった。



太原発長距離バスの謎の少年

 長途汽車(長距離バス)―――、中国の中長距離交通をささえるバスは、国内でほぼ無数の路線数を誇る。ハイテク大型バス(輸入車)から、寝台バス、そして超絶級オンボロバスまで、さまざまな種類のバスが混在している。そして、バスの中では、時として奇妙な出来事が発生することもあるのだ。

 が太原から古城壁で有名な平遥へ向かう長距離バスに乗ったときのことであった。バスが発車してからしばらくして、乗員が1人1人の客に目的地をききながら代金を徴収していた。(中国のバスは、普通は事前に窓口で切符を買うのだが、場合によってはとりあえず乗りこんでしまって、発車してから目的地に応じて切符を買う(代金を払う)というやり方のバスも存在する。このバスもその形式であった)乗客はめいめい代金をはらっていたが、とある少年は金を持っていないのか代金を払おうとしなかった。

 乗員「どうした?おまえ、保護者は乗ってないのか?」

 少年「いない。」

 乗員「どこいくんだ?」

 少年「親戚のとこ。(このあと彼は地名を言っていたが聞き取れず)」

 乗員「金はちゃんと持ってるんだろうな?」

 少年「ない。」

 乗員「なきゃ、バスには乗れんぞ。家に帰りな。」

 少年「いやだ。帰りたくない。」

 乗員「なんで帰るのがいやなんだ?」

 少年「だって………、家出、したから…。」

 なんだなんだ、こいつは面白くなってきたぞ?……と同じく他の人民乗客たちも興味津々のようで、いつしか少年はバスに居合わせた全員の注目を集めていた。

 乗員「家出したのか?でもおまえ、1元ももってないんだろ?どうすんだ?」

 少年「金は、ある!!!!」

 乗員「さっきないっていってなかったか?」

 少年「外国の金だ。」

 乗員「どこの?」

 少年「知らない。」

 乗員「ちょっとおっちゃんにみしてみな。」

 少年のポケットから出てきた紙幣が……、あやしい!!あやしいことこの上ないピンク色、「100」の数字の脇には独裁者っぽい人物がいる。これを見た乗客の誰かが言った。「これは、アメリカドルだ!!!!」

 そんな訳、ね――だろ――――がっっ!!!!

 ――しかし、このバスの乗客は愚民の集まりであったようで、この超絶デマゴーグを真に受け、愚民どもは色めきたっている。奴らの考えていることは唯一つ。“少年をダマして米ドルをゲット!!!”である!

 ちなみにも当時この紙幣がどこの国のものか知らなかったのであるが、その後タイバーツであることが判明した。

1バーツの価値は33.5円ほどである。

 さて米ドルの偽情報に踊らされたとある愚民が少年に声をかけた。「おい!おれがその金を人民元に両替してあげよう!」愚民は少年に

200元渡すと100バーツを受け取った。

 それを見て他の愚民たちも動き出した!少年に「坊や、他にも持ってないかい?」とたずねると、あるわあるわ、少年は10枚以上の100バーツ紙幣をポケットから取り出してきた。愚民たちはそれを争うようにして200元と両替している。たちまち少年の手には2000元以上の大金が転がり込んだ。

 

 そうである。これは100バーツなのである。愚民どもは100ドル=800元を200元で手に入れたと(勘違いして)大喜びなのだが、実際は100バーツ=25元なので彼らは大損くらっているのだ!!アホだ、ドアホだ!!っていうか愚民!!奴らこそ、まことの愚民の称号を得るにふさわしい!!!しかし当の愚民どもはそうした事実にまったく気付かず、

 愚民A「うしゃしゃしゃしゃ。もうかったわい。」

 愚民B「やっぱり子供だなあ。金の価値を知らんようだ。」

などと口々にいいあってはしゃいでいた。

 少年によるとこのタイバーツは父親が持っていたものであるとの事だった。いったい何者なんだろう?

 さてしばらくしていっときの興奮が冷めると、愚民の中に「これは本当に米ドルなのか…?」と不安がる声が出始めた(最初からそう気づくだろ?普通)。愚民どもは相談のうえみんなで銀行へ行ってみる事にしたようであった。こんなとこばかり抜け目ない?彼らは、少年も一緒に連れて行くことにしたのであった。

 なかば連行されるような形で愚民らに囲まれバスを降りていった謎の少年。ほどなくして、少年の金はほとんど価値のないものであることが判明するであろう。彼のその後の運命は如何に……?これもまた、謎である。



服務最悪!陳麻婆豆腐

 が四川省は成都に滞在していたときのこと。四川といえば名物は四川料理、その中でも代表的なメニューである麻婆豆腐を食べに行こう!というわけでガイドブックにも載っている有名店、「陳麻婆豆腐」へいくことにしたのだった。

 店に到着すると中は大いに客でにぎわっている。さすが有名な店だ、と感心。どうやらこの店はカウンターで注文をしてから待つ形式らしいので、まずはカウンターへ。カウンターにはでっぷりと肥え、凶悪な顔つきのおばちゃんが陣取っている。、ちょっとひるんだ。「麻婆豆腐」と注文するが聞き取ってもらえない。成都は方言がすごいところなので、普通話(標準語)を話しても通じないことが多々あるのだ。中国人に中国語が通じない、こんなうそみたいなことが発生するのもある意味四川ならではなのである。さて、何度も「麻婆豆腐」を注文したが一向に通じず、とうとうでっぷりおばちゃんはを無視して違う客の注文を受け始めた!ちくしょう、ふざけんな!結局他の客が注文を終えた後でメニュー指差しにて注文完了。そんなこんなでたかが注文に10分ほど費やしてしまった。金を払い、食券をもらうとは席を探して何とか一息つくことができた。

 しばらく待つと注文した麻婆豆腐、卵ときくらげの炒め物、酸辣湯(スープ)がやってきた。が、しかし。食器が、ねえ!皿も、箸も、器もない。おいおい、これじゃ食べれないよ!服務員に持ってくるように頼む。だが態度が悪く、こっちのいうことをまるで聞いてないが如くだ。案の定いくらたっても食器を持ってくる気配がない。しかたがないので探しに行くが、見つからない。何度も何度も服務員が通るたびに「食器くれ!!」「箸もってこい!!」と訴えるがいつまでたっても持ってこない。ばかりか、しまいにはこちらが呼びかけてもわざとぷいっと横を向いて無視してくるのだ。ひどい。ひどいよ、あんたら。

 途方にくれていただったが、神はまだを見捨ててはいなかった。この光景を見かねたとなりの売店のおねえさんが箸と皿を持ってきてくれたのだ!感激感謝!!だが、彼女はスープを入れる器までは持ってくることができなかったようで、は結局スープを飲むことができず、スープの具だけを箸でつまんで食べるというみじめな経験をする羽目になったのであった。

 中国で幾度となく食事をしたが、この「陳麻婆豆腐」ほど客に対する態度がひどかったところは経験にない。え?麻婆豆腐の味がどうだったかって?・・・・・・んなもん、知るか!!




強烈!中国の下痢とその薬

 の2000年三国志旅行も湖南省シリーズを終えいよいよクライマックス、張家界から飛行機で成都へ移動する当日の昼、は当地では珍しい韓国風焼肉の店を発見したのでそこで昼食を取ることにした。辛いけど、なかなかうまい。牛肉と豚肉と一皿ずつ平らげ、店を出た。飛行機の出発は夕方。さて何をして時間をつぶそうか……といっていたときに、の体調が激変した。猛烈、大下痢である。どうやら胃腸がやられたようだ。直接の原因はもちろんさっきの焼肉であるが、四川省におとらず辛いことで有名な湖南料理を数日にわたり食べており、そもそもの守備力が低下していたことも要素として重要といえよう。

 さての下痢であるが、一度トイレに行ったくらいでは済まず、2時間のうちに4,5回もトイレ通いをするはめとなった。やばいということで正露丸を服用するが、効き目なし。超刺激的な臭いを誇る日本国内最強の胃腸薬も、今回はまったくにとって助けにはならなかった。

 そんなわけでこの日は行動を控え、ベンチに座って空港行きのバスを待つ。バスに乗っている最中はつらかった。なにしろトイレに行けないのだから。最後のほうはほとんどもだえながらも何とかもらさずに空港着。トイレ直行。

 飛行機搭乗までの1時間は待合室で待機となったが、はすでに息も絶え絶えとなっていた。しかも、このうら寂しい空港は隙間風が寒い!!この間も断続的にトイレ通いをし、脱水症状気味に追い込まれる。

 ようやく乗りこんだ飛行機内はわりあい暖かく、寝ることができたため成都につくころには幾ばくか体調の回復があったように思う。

 さて成都の空港に到着したのはすでに夜の10時頃。空港の鉄則?に違わず市内からは遠い。市内へのバスはないのか最終がでてしまったのかわからないが、とにかく存在しない。この日は市内の「交通飯店」に宿泊しようということになっており、市内までタクシーに乗ることにした。

 タクシー。中国において、この交通手段は信頼性が低い。深夜で空港ならばなおさらである。がこのとき乗りこんだタクシーも例に漏れず「いかさまタクシー」であったようで、こちらが「メーターで走れ」といってもどこ吹く風、「交通飯店までいくらだ」と聞いても生返事。どうやらわかりやすくぼったくり態勢に入っているらしい。信用ならないので「降りる」ということで車を止めるようにいうが、ドライバーはこれを無視。半病人のはずのだったがここで怒り爆発!!戦闘態勢に入った!!後部座席から運転席のシートカバーを猛打!“バコォン“とプラスチックカバーの音が響き渡った。これにぼったくりドライバーが激怒!!車を停車させ、両者共に下車してにらみ合う。まさに一触即発の状態。不思議なことに下痢の苦しみがうそのように体調が回復している。  と、そこでたちにわっと人だかりが群がってきた。この人々は……、付近に何故か?うじゃうじゃいたほかのタクシーのドライバーたちである!!10人以上いる。こいつらこんな所で何やってんだ?奴らはの荷物をつかむと、客として自分のタクシーに連れ込もうとする!!は荷物を守るので精一杯、そんなこんなで先ほどのぼったくりドライバーとの戦いはうやむやになり消滅した。ある意味救われたかも?

 タクシーなんかごめんだ!とは群集を振り切った。は何故か元気満点であり、「このまま市内まで歩くぞおー」と非現実的なことをうそぶいていた。

 しかしそれはいくらなんでも無謀である。とあるタクシーのドライバーと交渉し、40元で交通飯店まで行くことになった。20〜25元くらいが妥当かな?くらいに走ったところで交通飯店到着。あーあ、結局ぼられたよ。

 さてチェックインを済ませたあたりからは戦闘態勢中の回復振りがうそのように体調が逆戻り。どうやらあの超回復は「火事場の馬鹿力」、最後の力を振り絞ってのものだったらしい。夜半にかけて容態はさらに悪化、下痢、嘔吐のダブル攻撃に、撃沈。一晩中苦しみつづけた。

 翌日になっても、翌々日になってもの体調は回復しない。寝たきり生活が続く。正露丸はまったく効き目なし。それならば……、とに現地の下痢止めを買ってくるように頼んだ。はいかにも強烈そうな薬を買ってきてくれた。

 なんでもっと早く気付かなかったのだろう。と感嘆するくらい劇的に薬は、効いた。やはり中国の下痢には中国の薬だね!と喜んだが三国志旅行の成都シリーズはちょっと手遅れ気味。もう日にちが無い。

 と、その翌日であったか、こんどはが下痢にかかった。ここぞとばかりくだんの薬を薦めるに、悪気はなかった。これで治ったのだから。しかし…。

 「うおおお、腎臓がぁ…」なんと、この下痢止め、にとっては毒であった模様。なんと副作用で腎臓が痛み出したのである!!おそるべし!(ちなみにもすこし腎臓がぎゅっとするような感じはあった。)この副作用による腎臓痛でこんどはが轟沈。血尿まで出たというのだからすさまじい。これにより今度はが寝たきり状態となり、はこうして、旅の終盤を棒に振った…。





反則だらけの北京かち歩き大会

 が北京に留学していたときのこと。10月に、も当時会員になっていた「北京日本人会」と中国側の共同開催イベントで「北京かち歩き大会」(中国名は「北京長走大会」)が開催されることになった。北京郊外の21キロの道のりを無補給で歩ききってそのタイムを競うという、いわば「健脚大会」である。三国志遺跡を求めて中国の田舎道を歩きまくった経験が豊富なは、「この大会こそが、我らの日頃の経験と実力の見せどころだ!」と張り切って参加の申し込みをしたのであった。

 さて、大会当日。市内から送迎バスに乗って郊外のスタート地点へ。日中両国からの参加者で賑わっており、その数はおよそ500人。企業サラリーマンっぽい人が多い日本人と比べて、中国側は大学生だらけである。強制参加(?)の行事でいやいや来ているのか、やる気のなさそうな連中が目立つ。これを見て、は思った。「いける。この弱小メンバーなら余裕で上位入賞が可能だ。目標30位。最低でも50位くらいはいけるだろう。もし100位以内にはいれなかったら、罰ゲームで帰りは歩きだ!」

 そんな事を思っているうちに開会式が始まり、参加者は一堂に集まって主催者側のあいさつを聞く。…と、はふと近くにいる中国人の手にミネラルウォータのペットボトルがあることに気づいた!どういうことだ?いや、ひとりだけではない。よくよく周りを見渡せば人民側は水やお菓子、果物などをもっている奴がごろごろしているではないか!「無補給」って話はどうなった?

 開会式も終わり、いよいよ競技スタート。最初の5キロは先導車のペースで歩き、それ以降は自由に歩く、というルールがあったため参加者は一団となって歩いている。先導車と参加者の間にはロープを持った係員が道の左右に分かれて歩いており、ロープより前には行けないようになっている。道の脇には1キロごとに標識が出ており、現在どのくらいの距離かわかるような親切設計となっていた。先頭集団はこの段階から押し合うようにして先を争って歩いていたが、は「最初は中団に待機して5キロ以降で一気にぶち抜く!」という作戦を立てていた。 いよいよ5キロ地点。先導車が道をそれ、係員が脇へよけると……

「うおおおおおおおおお――――――――――――っ!!!!」 な、な、なんと前のほうにいた人民たちが堰を切ったように猛ダッシュを開始するではないか!!「かち歩き」じゃないのか??反則だ、いや、ルールなど奴らにとってはあってないようなものだったらしい。猛烈な怒りを覚えながらも、は「ルールは守りつつ、かつ貴様らをたたきつぶす!」と闘志を新たにして加速していったのであった。

 さて、しばらく進むと最初は勢いでダッシュしたもののバテた連中に追いついた。こういった「なんちゃってダッシュ」しちゃいました軍団を追い抜くのは非常に快感であり、も「この勢いで一気に巻き返しだ!」と大いに士気が上がった。

 しかし、ある程度追い抜いたあとはそうした人民の姿がほとんど見うけられなくなってきた。道脇にある1キロごとの標識を参考にラップタイムなど取ってみたが、タイムが異常にばらばらであった。どうやらちゃんと距離を測らずテキトーに立てたもののようだ。あほらしいのでタイムを計るのはやめにした。、ちょっと目標を見失いがちである。

 10キロほど行ったところで、前方に久しぶりで人民参加者の姿をとらえた。どうやらバテがきているようで、歩行の速度もさえない。はこの久しぶりの「獲物」に心躍らせながら、一歩一歩奴との距離を詰めていった。

 そして、ついに奴を背後まで迫りつめた。「もらった…!」と思った瞬間、なんと獲物は突然ダッシュを開始した。「何い??」唖然としたが、相手も一杯のようで、50メートルくらいしかダッシュがもたず、また歩きとなった。

今度は、逃さん。

 気を取り直して、もう一度徐々に「獲物」との差を詰める。「さあ、今度こそ……」という至近距離まで迫ったとき、またも「獲物」がダッシュ。しかも前回に続き50メートルほどだ。どうやら、「獲物」のほうでもに対抗意識を燃やしているらしい。

ぬうう、なんとちょこざいな!!

しかも中途半端なダッシュしやがって、超絶むかつくんだよてめえ!!絶対に貴様はぶち抜く!!

 こうして、追い詰めてはまたダッシュで離され…という意地の張りあいが延々5キロほど続いた。なにしろ向こうには「ダッシュ」という反則技がある。いくら一生懸命歩いても、さすがに走る速さにはかなわない。こうして、は15キロ地点あたりで「獲物」を捉えることをあきらめたのであった……。

 この敗北によって明らかに志気が低下したは、それに伴って歩く速度も振るわなくなってきた。このあたりが、正直一番つらい時間帯だった。屈辱的なことに、この16、17キロあたりではと同じように歩行している選手にも抜かれ始めたのだ。ああ、はこのまま朽ち果てていくのだろうか?

 そして、ついに齢70にも達しようか?というかくしゃくとした「健脚老人」にまで徒歩で抜き去られた!!老いてますます盛ん、賞賛に値する元気ぶりだが、「老人」に、「正攻法」で、敗れ去るわけにはいかん!!の闘志に再び火がついた!ここから最後の力を振り絞って加速し、「健脚老人」を抜き去り、ラストスパート。ああ、ゴールまでもうすぐだ。

 こうして、21キロ、タイム2時間59分にわたる激闘を終え、ゴールイン。が89位、が90位。無茶な歩き方をしたため足はぼろぼろで健康にも悪く、日中友好どころか、かえって反則人民への不信感が増した大会であった。



極寒の地・ハルピンでの週末ホームステイ体験

 中国最北部に位置する、黒龍江省の省都に、ハルピンという町がある。当地は、気候が寒いことで有名で、冬の最寒季には気温はマイナス40℃を下回る。

 が当地を訪れたのは98年の3月のこと。たまたま、友人(日本人)がハルピンの中国人宅にホームステイしており、北京に留学していた私は「遊びにこないか」と誘いを受けたのである。

ハルピンは、寒かった。
 最も寒さが厳しい1月からは若干ずれているものの、気温は−20度。モンゴル辺りから吹いてくる強烈な季節風が、体感温度をさらに低下させる。なにしろ道端に突っ立っているとダンボールとかが飛んでくるのだから、尋常ではない。よくこんな所に定住できるもんだ。

 さて、鉄道のハルピン駅の近くで友人と待ち合わせをし、合流。彼のホームステイ先、劉さん一家の家へと案内された。一瞬廃ビルかと思うような建物の一室が劉さん宅であった。

 「治安が悪くってねえ・・・」と言う劉さんの家の扉は鋼鉄製の2重扉。といっても、中国においてこういった厳重な扉はそう珍しくはない。部屋の窓は2重だ。これは防犯というより防寒のためらしい。たしかに、みると外側の窓は凍りついている。

 さて劉さん宅は、60くらいの「劉老人」と30くらいの「劉青年」の二人暮しである。外見とは裏腹に、部屋の中はそれなりに設備が整っており、テレビ、冷蔵庫といった家電もちゃんとあった。

 一服したあとで「虎を見に動物園へ行こう」と言われて、ハルピン動物園へ行くことになった。案内は「劉青年」である。中国東北地方「名物」の“東北虎”が動物園の呼び物である。 動物園は、閑散としていて、檻の中に動物が不在なところが多い。また、いたとしても状態が悪く、元気のないものばかりだ。そもそもここは動物を集めるには寒すぎる。

 さて、虎の檻まできたが、“東北虎”もまたげんなりとして元気がない。係員によるメンテナンスがあまりなされていないようだ。哀れ。

と、ここで劉青年が豹変した!
「おおーい!虎ぁ!!」突然吼え始め、虎を威嚇する。
「がう!がう!がうう!!」吼えているのは虎ではない、劉青年である。
トラを前に野性に返ったのだろうか?も友人も、ただ唖然とするばかりである。
吼えまくる劉青年、げんなりとした虎、中国の動物園はなんともシュールだ。 ほかにも、動物につばを吐きかけたり、石を投げつけたりして劉青年は動物園見学を満喫していた。彼が一番楽しそうだった。それにしても、30そこらのいい青年が……小学生か?あんたは。は寒くて動物どころではなかった。こう言ってはなんだが、日本の動物園のほうが動物の種類、状態がよくて楽しい。

 その後、「旧日本軍731舞台研究所跡」へ案内された。これは、日中戦争の時に日本軍の細菌部隊・731部隊が中国人を実験台にして細菌兵器かなんかを研究していた基地の跡地である。かなり残酷な人体実験もやったようで、非常に恨みを買っている。もちろん当地での日本人の評判は最悪。通行人から、「貴様日本人だな。俺は恨んでいる。恨んでいるぞ。」とかいわれたり、「賠償金よこせ」と吹っかけられたりで散々であった。なんでやってもいないが賠償金払わなきゃならんのだ?

 さて、その日の晩は劉老人特製の餃子でもてなされた。手作りである。皮を打ち、伸ばし、手作りの餡に包む。うーむ、なかなか職人芸である。

 試しに作らせてもらったが、のぎこちない手つきに、凝り性の劉老人の目つきが見る見る険しくなっていく。
「そんな包み方ではいかん!煮崩れする!」―えっ?
「そうじゃない!抱きかかえるように、つつみこむんだ!」――ええっ?
「……えーい、まだわからんのか!」うひ――っ。
 こうして、まだいくつも包まないうちに、は餃子を取り上げられてしまった。潔く食べる役に集中したほうがよさそうだ。 餃子はとてもおいしかったが、いかんせんメニューが餃子のみだったのでくどかったことも事実であった。そして、が包んだ数少ない餃子は、一目ですぐそれとわかり、悲しいことに風味が劣った。同じ材料なのに。皮の厚さ、バランス、包み方……。こういったひとつひとつを完璧にこなして、初めて餃子はその真価を発揮することができるものなのだ。

 翌日は“松花江”という地元で有名な河へと連れて行かれた。
寒かった。川幅が広いため、遮る物がなく、風をもろに受けるのだ。耳がちぎれそう。いや、このままではちぎれる。友人からスカーフのようなものを借りて、耳の上から巻く。
がこんなありさまであるにもかかわらず、地元民は元気いっぱいで凧揚げを楽しんでいた。劉氏いわく、「今日はあったかいからみんな外へ出てきているね」 あったかい??―――そんな、ばかな。こいつらの感覚、には理解不能だ。

 あんまり寒いので、2時間ほどで散歩は勘弁していただいた。 週末だけの来訪だったのでその日の夕方には北京に戻った。飛行機で戻ったのだが、劉老人が“顔“を利かせてくれ、2割引で航空券を買うことができた。さすがはコネクションの国、中国。 ハルピンは、また来たいとはあまり思えなかったが思い出深い町であった。



甘寧墓を探せ!

 ついにこの日がやってきた。 2000年12月31日、大晦日。20世紀最後のこの日、は夢にまで見た(?)最強無敵の名将・甘興覇の墓へアタックをかけるため、は前日の夜、武漢の高級4星級ホテル「晴川ホリデイイン」に宿泊をしていた。「もう学生じゃないからな。金もあるし、人民クラスの旅社はもう卒業だ!」すでに社会人となっている、金にものをいわせてすごい強気である。が、生まれの卑しさから(?)か、無料コーヒーサービスについて「ほんとに無料なんだな?」と何度も確認して、ホクホク顔で飲みに行ったり、「テレビのチャンネルがいっぱい見れるぞおー」とはしゃいだりと小市民ぶりを遺憾なく発揮していた。
 さて当日、朝7時ごろ出発。甘寧墓がある陽新県へいくため、長距離バスターミナルへ行くが、陽新直通が見当たらないため、とりあえず「黄石」という都市まで行く。ここまで行けばたぶん陽新へのバスが出ていることだろう。黄石までは2時間ほどかかった。到着したバスターミナルは市のはずれで、陽新行きは出ていなかった。市の中心にあるバスターミナルから出ているという情報を聞いたので中心部へと移動。陽新行きのバスは割とたくさん出ていて、大きなロスなく発車した。陽新までは2時間かかった。午後一時すぎに到着し、早速聞きこみを開始。地域のマイナー遺跡情報の聞きこみをする際に、頼りとなるのは通常は忌み嫌う「ぼったくり系」バイタク運転手の方々である。なんだかんだ言って地元地理には一番詳しい。逆にだめなのが若い女性。彼女らは地元民でも本当に知らない。老人はわりと詳しい人が多いが、言語能力に問題があり、コミュニケーションをとるのに一苦労となる。と、そんなわけでもまわりにうじゃうじゃいたバイタク運転手を何人かつかまえて聞いてみた。「おっちゃん、甘寧墓を知らないか?」「アア??没有!!」不思議と中国人は「知らない」という表現を使いたがらない。自分が知らないものは「没有!」で片付ける癖がある。こういう根拠のない自信によって、判断を狂わされたことは数知れない。他にも何人かバイタクをあたってみたが、誰も知らないようである。また、甘寧墓の資料に載っていた地名をいくつか聞いてみたが、全滅。「どうやら、市街地にはないな……。」発見は、ほぼ絶望的である。
 「どうする?」「行くだけ行ってみる?富池口。」―――富池鎮。陽新県のはずれの、長江沿いのいかにもしょぼそうな地。「三国志人名辞典」の甘寧の項に、”富池口には昔甘寧の廟があった”との記述されているため、あるとすればここという予感がする。どっちにせよこの場にこのままいてもしょうがない。近郊バスで、富池へと向かうことにした。バスは絵に描いたようなぼろバスで、道がまた悪夢のような貧弱な道で、バスは道中エンストを繰り返しつつ、わずか20数キロの距離をたっぷり2時間かけて富池へと到着したのであった。富地鎮は、予想通りの超絶田舎であった。バイタクの運転手が数人いたので聞きこみ。
「おっちゃん、甘寧墓を知らないか?」
「アア??有!!」
”有”――――――――!!!!!!のボルテージが一気に上昇する。「甘寧墓までいくらだ?」「一人2元。二人で4元だ。」すでに3時すぎ、時間も押しているし、この程度の金で争う必要はない。即乗車し、甘寧墓へ。バイタクは細い道を延々と走り(結構遠い)、半分壊れたよな工場を通り越したあたりで停車した。眼前には門があり、そこには「甘寧公園」の文字が大書されているではないか……! 約束の地は、これにあり!! バイタクのおっちゃんに4元渡すと、は甘寧墓へとなだれ込んだのであった。入り口に管理人がいたが、入場料は取られなかった。商売っ気は全く無いようである。敷地は広く、雑草が生い茂っており、きっちりと整備されているわけではないようだ。少し進むと池があるが、とくに甘寧とは関係なし。さらに奥へと進むと……あった、あった、夕日を背にたたずむ渋い男の像――――、まぎれもない、「甘寧提督」これにあり!!!  狂喜!!乱舞!!飛び跳ねて喜ぶであった!!その他、甘寧墓や甘寧寺など充実した内容にすっかり満足。結構長居して4時くらいに甘寧公園を後にした。
 バスターミナルまではバイタクで戻り、バスで陽新へ。今日は20世紀の最終日、黄石まで出て3星級ホテルで豪華に宴会だ!!とうきうきしていたが、いかんせんバスが遅い。時刻は5時を回り、そろそろ5時半というところだ。なんかいやな予感がする。
 5時半すぎ、バスが陽新に到着。シャッターが閉まり、閑散としているバスターミナル。いやな予感は確信に変わった。そう、すでに終バスが出ていった後だったのだ――。やむなくここで宿泊することになるが、当然のこととしてこんな片田舎、人民級の安宿しかない。豪華ホテルで祝宴の計画は、もろくも水の泡と散った。
 こうして、の20世紀最後の夜は、暗くて寒い人民級旅社にて更けていったのであった。



強欲!勉県ぼったくりバイタク戦記

 2001年夏のの三国志遺跡めぐりも、最終目的地の漢中入りを果たし、いよいよ大詰めを迎えていた。

 当初の予定よりも1日遅れだったため、本来2日間の日程があるところを1日しか取れなくなってしまった。そのため、漢中市内はあきらめて勉県のみをまわることにする。勉県は、ふたりとも過去に訪れたことがあるものの、すべての遺跡を網羅していないことと、写真をとりたいという目的もあって再度当地を訪れることにしたのであった。

 朝7時半ごろ起床。朝食を取る。すぐに出発したいところだが、まずは帰国の飛行機が出る西安までの交通手段を確保しなければいけない。まずは飛行機の切符を買おうとしたが、あいにく便がなく断念。

 列車の切符を買うことにし、駅へ。当日の夜行列車の切符を買う。相変わらずけっこう混雑している。並んで順番を待っていると、ふと窓口脇の黒板に「西安行き寝台残り3枚」と書いてあるのが目に入った。夜行列車においては、寝台と座席の差は非常に顕著であり、ゆったりくつろげ、「寝れる」ことによって一晩などあっという間の寝台に比べ、座席は混雑などしようものならば修羅場と化すこともあり、一晩が永遠に感じられるほどつらい。まさに天国と地獄、この寝台、逃すわけにはいかん!!と、緊張が走る。と、そのとき、となりの窓口で「西安行きの寝台席」を買い求める声が!むうう、一刻の猶予もならんぞ!と、思いきや、販売員の「没有!」の声が聞こえた!すでにないらしい!どうやら、黒板の情報は少しばかり古かったようだ。…と、販売員が黒板を片付け始めた。寝台席、sold out!―――無念だ。

 一応、硬座(座席指定有り)の切符は確保できたが、残念なことをしたものである。昨日、漢中駅到着時に即座に切符を買いに行っていれば確保できたのに…。まあ、仕方ない。これによって夜行列車嫌いのの士気が低下した。

 切符購入に手間取ったこともあり、出発が10時少し前になってしまう。いくら2度目とはいえ、この時間ではつらい。できるだけ効率よく、普段敬遠するバイクタクシーを多用するのもやむなし、ということになった。

 こうして、ボリタクドライバーとの戦いの1日がスタートを切ったのである。

 漢中バスターミナルから郊外バスに乗り、11:30に勉県到着。早速、近くにいた「バイタク1号」に声をかける。まずは、市街地のはずれの遠いところからということで「諸葛亮読書台」をリクエスト。「1号」が6元という価格を提示してきたのでOKして乗り込む。6元に見合うくらい走ったところで、読書台に到着。道から少しそれた丘の上にあったので、徒歩で行く。諸葛亮読書台、難なく到達。「今日は行けるんじゃないの?」という錯覚を覚える。

 さて、丘から降りて道に戻ってくると「1号」が待機している。読書台を攻略したことでうかつにも「1号」を信頼してしまっていたので、「陽平関って知ってるか?」といいかげんな郊外の地図を見せながら尋ねた。その地図によると馬超墓の裏手である。「1号」は「おお、知ってる知ってる、俺は何でも知ってるぞ!」と威勢のいい返事を返してきたため、陽平関と馬超墓の2箇所を10元で行ってもらうことになった。

 まずは陽平関へ。まっしぐらに馬超墓の裏手へと行くので、「おお、本当に地図どおりだったわけか」などと呑気なことを思いつつ乗っていると、ちょっとした山の中腹あたりでバイタクを下ろされた。「着いたぞ」
………!??
ただの、崖ぞいの道??
 言葉を失っているに対して、「1号」は「ここには数年前まで『陽平関』という石碑があったんだが、道路拡張に伴って破壊された」という解説をしたが、どうも信用ならない。三国志の町・勉県でそんな事はありえないはずだ。手持ちの資料によると、陽平関に石碑があるとは明記されてはいなかったが、やはり「1号」の話は不自然だ。
と、丁度その時、地元民がこの道を通りかかった。早速、尋ねてみる。「ここは、陽平関か?」「はァ?んな訳、ねーだろ。」

 やはり、そうかっ!騙された!!こいつはのいいかげんな地図どおりの場所に行ってでたらめをほざいているのだ!!怒りを覚えたものの、どうしようもない。相談の結果、さっさと馬超墓まで戻ったところで、こいつはクビにしようということになった。

 すぐに馬超墓へ。10元渡し、「さらば」と別れを告げる。しかし、事態を理解していない「1号」は、まだまだこれからだろうとばかりにしつこく付きまとってくる。閉口したが、信頼関係が崩れた以上、奴を利用するという選択肢は無い。うるさい売込みを拒否しつづけたが、思いがけず武侯祠まで無料で乗せてくれると言うのでそこだけちゃっかり利用した。

 さて、武侯祠で今後の作戦を練る。勉県東5キロくらいにある「劉備漢中王設壇処」(劉備が漢中王になったときに設けた壇・以下『設壇処』)をまず目指し、そこから「定軍山」、「武侯墓」と回って最後に「諸葛亮造木牛流馬処」(以下『木牛流馬』)へ行こう、という計画となる。現在いる武侯祠は町の西側である。外へ出ると「1号」の姿はなかった。ようやくあきらめたらしい。東へ向かって、歩く。

 歩く。歩く。……遠いっての。普段ならそれも良しかな、と思えるのだが、今日に限っては時間に余裕が全然ない。そんなに声をかけてきたのが、「バイタク2号」その人であった!
早速、交渉を開始。
:「設壇処に行きたいんだけど」
2号:「??そんなものはない。」
:「ない訳ねえだろ!写真を見ろ!」(旅行書の写真を見せる)
2号:「うーむ、これは知らんが、オレは黄忠が夏侯淵を斬った場所なら知ってるぞ。」
:「(この際だから、それでもいいか)よし、じゃあそこへ行ってくれ!」
と、いうことで7元で「黄忠が夏侯淵を斬ったところ」まで行くことになった。

 バイタクは勉県の北へと進んでいく。どうやら、進む先は漢中争奪戦では魏軍が陣を張っていた「天蕩山」のようである。(※実際、夏侯淵が斬られた場所とされるのは定軍山である。)途中道が通行止めになっていたため多少迂回しつつ、山道へと入っていった。舗装も怪しい土の道で、ぼろいバイタクではさっぱりペースがあがらない。歩いたほうが速いくらいだ。嫌になったのか、”7元分”走行した(?)のか、「2号」はバイタクを停め、「ここから先は自力で行ってくれ」と言ってきた。非常に中途半端な場所であり困ったが、どうせスピードも遅いし、追加料金よこせとか言われたらたまらないので、ここからは歩くことにした。山の中腹よりちょっと上あたりに寺があるのがわかり、資料によると「黄忠が夏侯淵を斬った後、下馬時に降り立った石」はこの「天灯寺」という寺の門の脇にあるとのことであった。寺を目指し、登山開始。寺までは20分ほどかかり、予想外に消耗した。

 さて、天灯寺の入り口まで来たが、そもそもまともな門らしきものがない。書物いわく、「門の脇に大きな石があり、この石にある”くぼみ”こそが夏侯淵を斬った後に黄忠の馬の蹄が刻まれた跡である!!」――――が、石など砂利みたいのしかない。こいつは、やらかしたよーな嫌な予感。寺に住職が一人だけいたので聞いてみるが、三国志だの黄忠だのといったことは微塵たりとも知らない様子であった。
天灯寺、ただの寺。
がっかりながらも「やっぱりな…」とどこかで納得しつつ、下山することにした。と、いくらも歩かないうちに、前方に見覚えのあるバイタクの姿が。なんとここで「バイタク2号」と、再会!っていうかこいつ、がこのルートで下山することをお見通しで待ち伏せしていたようだ!

 なんとなく嫌な感じではあるが、時間の都合もあり「2号」を再度利用することにして交渉開始。「木牛流馬」に行ってもらおうと話を進める。10キロ以上距離が離れていることもあって、それなりの値段を持ちかけられるが一応15元ということになった。
しかし、がバイタクの座席に座ったところで、「2号」が嫌らしくも「オプションで3元加えて18元」だとかなんとかぐちゃぐちゃ言い出し、バイタクを発車させない。
この、ごうつくばりがっ!!は激怒し、バイタクから下車。出発時にすでにごたごた言う奴が、支払い時におとなしく言い値で済ますはずがない!こいつはボリタクドライバーだ(今更言うまでもないけど…)!事態に面食らっているもバイタクを降り、こうしては徒歩で下山することになった。これまた事態に面食らっている「2号」がバイタクで追ってきたので、わざと車両の通行できないような細くて険しい山道を行く。これによって「2号」を巻くことに成功。舗装された道路ならともかく、こういった山道であれば徒歩のほうが早いくらいだ、と調子に乗りつつしばらく山道を下る。すると……。
”バッバッバッバッバッバッ………”
聞きなれたエンジン音がするではないか!そう、「2号」である!さすがは地元民、こっちが来そうな所に回り込んできたという訳だ!「2号」とばつの悪い挨拶を交わすが、今更こいつの車に乗ることはできない。幹線道路までは自力で歩いた。多少道を見失いかけた場面もあり、想像以上に時間を消費してしまった。

 ようやく「設壇処」の捜索に移るが、すでに時刻は4時過ぎ。かなり厳しい情勢だ。町の東5キロということで聞き込みをしつつ歩く。しかし、住民の反応はいまいちで、不安にかられる。まだ距離があるのだろうか?

 そんな折に、に声をかけてきたのが、「バイタク3号」であった。
3号:「いよう、乗るかい?」
・・・・・・・・、乗る。
 こうしては「3号」のバイタクに乗り込み一直線に「設壇処」へと向かったのであった。細い道に入り、しばらく進んだところで「設壇処」に無事到着。喜び勇んで見学しようとしたが、なんと門には無常にも錠前が下りている。塀の隙間から「設壇処」の碑石が垣間見れるものの、さんざ苦労して覗き見では報われない。管理人を探す事にすると、「3号」が「俺知ってるから連れてきてやる」と言って管理人を探しに言ってくれた。「3号」、頼もしいぞ。……と、迂闊にもここで彼に対して信頼の感情を抱いてしまったことが、この後の悲劇につながっていくのであるが、とにかくこの時は「3号」が管理人の老婆を捜し当ててきてくれたのであった。

 さて管理人の老婆は門の前に干してある収穫期のトウモロコシを豪快に足で蹴散らしつつ門をあけてくれ、中に入ることができた。しばし見学や写真撮影を楽しんでいると、老婆がやにわに台帳のようなものを出してきた。手渡されて、見てみると…、なんとびっくり、寄付金台帳である!!記帳しているのはなぜかすべて日本人で、記入されている金額は「100元」、「70元」、「150元」……等等、途方もない大金ばかりである。どうやら、管理人の老婆はとんでもない「強欲老婆」であったようだ!!それにしても、100元だとか(中国においては)大金をぽんぽんと寄付してしまう日本人たちの金銭感覚の麻痺ぶりには、驚き呆れるばかりである。ここで大金を寄付したところでどうせこんなの裏帳簿、金はすべて「強欲老婆」の懐の消えるという寸法だ。そして”日本人は金ヅルである”という認識をますます強化させ、次に来る観光客までとばっちりをくらうことになるのだ。

 しかし、状況的にはここで寄付をしないわけにもいかない。苦しい立場である。しかし、がここで根性見せずしてどうする!というわけで、は懐から10元取りだし、帳簿に2人の名前を記入すると「兩人10元」と記入。10元と帳簿を手渡す。”…たった、10元!?"「強欲老婆」は驚きで口も聞けない様子である。に向かって「おまえも寄付…!寄付…!」と詰め寄るがは「見てのとおり2人で10元だ。」とはねのけ外へ出たのであった。正直言って、2人で5元くらいが妥当なとこなので、これでも感謝してもらいたい。被害を最小限にとどめ「設壇処」をあとにした。

 さて、「3号」との契約はここまでだが、時間の都合と先ほど不覚にも覚えた彼への信頼感から、はこのあと「3号」に武侯墓もいってもらうことにした。武侯墓はとも2度目だが、前回写真も撮り逃しているしなんと言っても当地のメイン観光地である。いささか遠いため行き帰りで20元ということになった。3年ぶりで訪れた武侯墓の人民の心はすさみきっており、買おうとしたトランプはひとつ25元(適正価格7元)という破格の請求をされた。結局10元までしか値切れなかったが2種類購入した。

 武侯墓の見学を終え、「3号」のバイタクで幹線道路まで戻る。途中有料道路のようなところを通っていたようだが、別段気にもとめなかった。

 幹線道路まで戻ってきたのでバイタクを降り、「3号」に代金24元を払うと、「3号」は案の定「アア?少ねえぞ?」と言いがかりをつけてきた。は無視して立ち去ったのだが、がこいつの相手をしてしまい、いつしか訳のわからない交渉へと突入していた。
3号: 「有料道路を通行した際に通行料を払わされた。」
 : 「んなもん、知るかっ!頼みもしないのに勝手に有料道路なんか使ってんじゃねえ!」
3号: 「外国人料金で高いんだ。50元払え!」
 : 「ふざけんじゃねえ!いまどき何が外国人料金だ!」
3号: 「地元民をなめるなよ。俺のホームグラウンドで逆らうことの恐ろしさを教えてやるぜ!!」
「3号」に加勢があらわれた!!
そして、「3号」と”加勢”の2人はの両脇を捕まえて徐々に圧力を高めていく。おいおい、ほとんど恐喝だよ。それまでは遠くで(悠々と?)状況を見守っていただったが、やばそうなのでの加勢に戻ることにした。念のため、ポケットに小銭を忍ばせることにしたが、うまい具合になく、3元しかない。これじゃあいざという時に役に立たないので、仕方なく20元札も合わせてポケットへ。と「3号」らがもみ合っている現場へ行き、交渉開始。
 : 「てめーらふざけんな!」
3号: 「ふん、おまえのことは相手にはせん。金はからむしり取る!!」
 : 「貴様、公安(警察)呼ぶぞ!!」
3号: 「呼べるもんなら呼んでみな!!」
この強気が、非常にむかつくのだが、確かに公安は見当たらないし、探しに行くにもあてはない。しかも、このあと漢中に戻って西安までの列車に乗らなければいけない状況である。漢中行きの最終は6時半ごろで、あと約1時間、長期戦は明らかに不利だ。

 悔しいが、妥協せざるを得ない。「念のため」準備していた23元を「3号」に渡す。これでさらに要求してくるようであれば殴り合いしかない、と思っていたが、「3号」はそれ以上要求はしてこなかった。奴らから開放され、漢中行きのバスに乗り込む。こうしてのボリタクドライバーとの戦いは敗北に終わった。バスの中ではともに悔しさと怒りでいっぱいであった。

 結局、ぼられたー。何度中国へ行っても、どんなに注意しても、やられるときはやられる。大陸のボリタク、それは三国遺跡ファンにとってひとつの試練である……。



人民旅社は危険の香り

 中国で旅行者が宿をとる場合、宿泊施設のタイプにはいくつかの選択肢がある。一般に外国人であれば、入口ロビーにある世界時計が目印の「渉外賓館」に泊まることになる。有名な観光地であれば、費用を安く上げたい貧乏旅行者向けにドミトリールームを設置しているところがある。しかし、三国遺跡旅行者が好む「中原」や「長江沿い」の内陸あたりになってくると、外国人観光客がぐっと減り、ドミトリーのあるホテルはなくなる。そんな内陸で、宿泊代を浮かすには2つの手段がある。夜行の長距離バスや列車で「移動」するか、人民級の「旅社」「招待所」「旅館」に飛びこんでいくかである。 今回は、人民級宿泊施設での出来事をいくつか紹介したい。

その1.ばあさん追跡!黄山ふもとの旅社
 が世界に誇る名山・黄山へ行ったときのこと。朝、合肥から乗り込んだバスが黄山ふもとに到着したのが午後3時すぎ。山へ入るには遅すぎるので、一晩宿をとって翌日黄山を見学することにした。この日はとある人民宿に宿泊。30元で6人部屋だった。のほかに2人ほど客がいたが、特に何もなく夜があけた。
 翌朝、宿をチェックアウト。山登りで軽装にしたかったため、荷物をフロントに預けて出かけた。その日1日はたっぷりと黄山観光を楽しみ、夕方5時過ぎ頃にまたふもとへと降りてきた。合肥行きのバスはすでになかったので、もう一晩泊まろうと思っていたところ、他の人民旅社の客引きがに声をかけてきた!
客引き:「兄さん、一泊どうだい?20元にしとくよ!」
当時貧乏留学生だったは、10元安い価格提示にふたつ返事でOKし、宿泊先を変えることにした。客引きに案内されたところは、昨日よりもさらにぼろいところだったが、6人部屋に誰もいなく独占できるところがよかった。チェックインしようとパスポートを出すと、つき返され、「非公式にこっそり泊めるからこんな物は出すな。金だけ払ってくれればいい」と言われた。そのため料金の20元のみを支払った。
 さて、一息ついたところで昨日泊まった人民宿へ預けた荷物を回収に行く。フロントで荷物を受け取ろうとすると、フロントのばあさんが聞いてきた。
ばあさん:「もう一晩泊まるだろ?」
   :「いや、今日は泊まらない。」
ばあさん:「そんなばかな!今日のバスはもうないし、ここに泊まらないなんて考えられない!」
   :「他のとこに泊まるんだ」
ばあさん:「そんなばかな!うちが一番安いのに?25元、今日は25元でいいから!!」
   :「そこはもっと安いんだ」
ばあさん:「嘘をつくな。ここはおまえが泊まれる(外国人宿泊可能の?)宿で一番安い。どこに泊まるんだ、一体どこの旅社に泊まるんだ??」
   :「それは――」
と、はここで言葉に詰まった。宿泊先は外国人宿泊禁止の人民旅社である。下手に教えて、このばあさんが警察にタレ込むこともありうる。そうなると、「罰金」とかいって莫大な金を徴収されるかもしれない。言えない。宿泊先は断じて言えない。
   :「……んなもん、どこだっていいだろ!!」
は荷物を抱えるとこの人民宿をあとにした。ところが、何故かばあさんが叫びながら追いかけて来る!!しかもすごい剣幕だ!!
「待てぇぇぇ――、裏切り者ぉ、待てぇぇぇぇ―――!!」
裏切り者呼ばわりされる筋合いなど毛頭ないが、この剣幕に恐怖感を覚え全力ダッシュで逃げた。不幸なことに道が一本道で、荷物も重く、宿泊先を悟られるのも嫌だったこともあり、ばあさんを巻いて逃げ切るまでにおよそ20分を要した。汗だく、バテバテ。訳がわからない体験だったが、これは本当に怖かった。

その2.調味料工場のおっちゃんと宿泊
 が白帝城見学後、奉節から船に乗って宜昌まで移動した際に、同じ船室に乗り合わせたおっちゃんと仲良くなった。出会いの国・中国では向こうから気軽に声をかけてくる人も多いので、こうしたことはよくある。夕方過ぎ、船が目的地の宜昌に近づいたところで、おっちゃんがに持ちかけてきた。
おっちゃん:「今日の宿泊先は決まってるか?」
    :「いや、別にない。」
おっちゃん:「ならば、俺がいい宿を知っているから、そこに連れてってやるよ!」
今であればそんなことを言われても絶対断るはずだが、当時のは、「それも面白いかも」と思い、おっちゃんについていくことにした。かくしては宜昌で下船後、おっちゃんに案内されとある人民旅社へと連れていかれたのであった。ちなみに彼は調味料会社に勤めているとのことであった。
さて、宿泊手続きをするところで、旅社の旦那はをみて「一般人民とは違う」と気づいた。もちろんここは外国人宿泊禁止である。
旦那   :「おい、おまえは中国人民じゃないだろ?香港人か?うちは華僑は宿泊禁止だよ」
おっちゃん:「いやいや、大丈夫。は華僑ではないよ。日本人だよ!」
旦那   :「日本人ならなおさら宿泊禁止だってんだよ!!」
しかし百戦錬磨のおっちゃんはひるむ様子なく、悠々と交渉を続ける。さすがは人民。
おっちゃん:「まあまあ、そういうなよ。俺1人だったら10元の共同部屋だけど、2人なら1室50元のエアコン付きの部屋を借り切ってやるよ。頭割りでお得だからな。そのほうがおまえも儲かっていいだろ?」
旦那   :「しかし日本人を泊めるのはなあ……」
おっちゃん:「ばれやしねえよ。”俺様”、他1名ってことにしとけばいいだろ。こいつのことは俺が保証するから任せとけって。」
おいおい、「保証する」って、ついさっき知り合ったばかりなのに。すごすぎるぜ人民。
おっちゃんの強気の交渉が実ってか、旦那もついには折れて、宿泊できることになった。しかし、おっちゃんの出した身分証明書を見て旦那の顔色が変わった!
旦那   :「おい、なんだ、こりゃ?」
どうやら身分証にも種類があるらしく、おっちゃんの出してきたものではどうもよくなかったらしい。公的なものでなく、極端な例を出すと、「レンタルビデオ屋の会員券」ような物であったようだ。自分の身分証明もいいかげんで、よくのことを「保証する」とか言えたもんである。どうなってるんだ人民。
旦那   :「こんなんじゃ駄目だよ。泊められないよ。」
おっちゃん:「大丈夫だって。いつもこれでOKだったんだから」
旦那   :「うちはさあ、”優良”旅社だから、ちょくちょく公安とか調べに来るからまずいのよ。」
”優良”だあ?思いっきりマークされてんじゃねーか!この旦那もイカサマ系か?
おっちゃん:「大丈夫、大丈夫。ほら、金だってあるし。50元。さあ、部屋はどこだ?」
人民旦那も真っ青のごり押しによって、結局なしくずしで宿泊することができた。このあとおっちゃんは調味料について熱く語り、当時学生だったに日本帰国後は調味料会社に就職しろと強く勧めていた。は盗まれたり襲われたりしないかと内心びくびくしていたのだが、全く無事であり、どちらかというと彼の方が気を使ってくれていたようだった。
翌朝、はバスで次の目的地・荊州へ向かい、おっちゃんとはお別れとなった。中国人のたくましい生き様をを間近で感じた貴重な体験であった。

その3.太原のいかさま旅社
 が五台山を訪ねたときのこと。このときは、太原駅近くの旅社に宿泊した。周りを気にせずゆっくり休息したかったため、1人部屋50元をとって部屋で休んでいると……。
コンコン。扉をノックする音がする。服務員の女の子がポットのお湯とタオルを持ってきてくれたのだ。しかし、何故か2人組の彼女らはポットを置くと勝手に部屋のベットに座り込み始めた。
女服務員 :「ねえねえ、日本のこと聞かせて!」
何だ何だ?と思いつつ、追い出すのも悪いかな―とへんに気を使ってしまい、は彼女らと雑談。
女服務員 :「東京ってどんなとこ?」
女服務員 :「飛行機乗ってきたの?」
……と、最初のうちは無難な会話が続いたが、徐々に彼女らは調子に乗り始め図々しくなってきた。
女服務員 :「その服は日本で買った服なの?」
    :「え?そうだけど?」
女服務員 :「キャーキャー、触らせて―!!(勝手にの服に触る)ワァ、すべすべ!!」
女服務員B:「ほんとー??キャー、私も触るう!!…すごい!これが日本なのね!!」
なんなんだ、こいつらは!しかしこんなのはまだ序の口、彼女らは、とうとう本性むきだしで本題を持ちかけてきた。
女服務員 :「いい娘…、いるわよ。」
    :「ハア?なんのことだ?」
女服務員 :「しらばっくれてんじゃないわよ。女の子欲しいんでしょ?」
女服務員B:「そうよ。お見通しよ。だから1人部屋にしたんでしょ?」
女服務員 :「(勝手に勝ち誇り、)んふふ、図星ね?なんなら私が相手してあげるわよ!」

要、ら、ん、わ――――――っ!!!!

こんな人民宿で買春なんぞしたが最後、身ぐるみはがれるのがオチである。向こうが脱ぎ始めでもしたら極めて困るため、即刻2人組を部屋から叩き出した。厳重に戸締りをし(といっても安全とは言いきれんが)、ようやく一息。ゆっくりしたくて1人部屋にしたはずだったのに……。気づけばいやな冷や汗をべっとりとかいていたため、シャワーを浴びることにした。部屋に備え付けではないので、いやいやフロントまで行き服務員に尋ねる。
    :「シャワー浴びたいんだけど、どこ?」
服務員  :「左の扉を外に出た正面の建物だ!」
ってなわけで言われたとおりに行って見ると……。
違う旅社じゃ、ね――かよ!!!
引き返して再度服務員に尋ねてみると――。
服務員  :「うちの宿にはシャワーなんかねえ!バレやしねえから、こっそりシャワー浴びてこい!」
どうしてもシャワーが浴びたかったので、忍び込んでこっそり浴びた。バレなかった。だが、ここには二度と泊まるまい、とが心に誓ったことはいうまでもない……。



乾坤一擲!ギャンブルはいつもハイリスク〜香港・マカオ編〜

 会社に入って1年、いつしかストレス漬けのサラリーマンとなったは、リフレッシュのためゴールデンウィークに香港旅行に出かけた。
 何しろ今回は香港である。遺跡の捜索などで駆けずり回る必要はない。豪勢にパーッとやろうではないか!というコンセプトだが、いかんせん香港の物価は高い。ならば贅沢するための資金は現地調達だ!ということで、香港到着の翌日は、一攫千金を狙って早速「マカオでカジノ→香港で競馬」という予定を組んだのであった。

 香港到着初日の夜に競馬新聞を購入し、予想。夜更かしをした影響で起床は予定よりも遅い10時ごろとなった。フェリーに乗ってマカオへ。まずはカジノである!ちなみにはカジノは滅法得意で、ぼったくり天国のベトナムにおいてすら勝利を飾っているほどである。フェリー乗り場からマンダリンオリエンタルホテルまで歩き、第1ラウンド開始。

 1000香港ドル(約1万5千円)をものの10分で失った……!! なんということだ。滅法得意とか言っておいて、これではただの見かけ倒し。どうもここは、客もあまり多くなく、ディーラーが露骨に巻き上げにくるようなので、非常に勝ちづらい印象だ。くやしいが、いち早く撤退した方がよい。実際、カジノのディーラーはプロであり、サイコロでも、ルーレットでも、8割方は狙った目を出すことができるらしい。よって、ディーラーに「おまえには勝たせん!」と目をつけられてしまうと敗北は決定的である。マンダリンを後にし、リスボアホテルへ向かう。リスボアにはマカオ最大のカジノがあり、観光客にもっとも有名だ。ここなら、ディーラーの目に付くことなく、紛れて勝てる!……はず。というわけで、またも1000ドルを元手に戦闘開始!

 プレイするのは、「大小」というもので、サイコロを3個振った出目を予想するというシンプルなものである。出目の合計が4−10なら「小」、11−17なら「大」で、1から6までの各ゾロ目は親の総取りとなる。もちろんゾロ目に賭けることや、「8」とか「9」とか特定の出目のみに賭けることも可能で、その場合は配当も高くなる。だが、実際そうした夢のようなハイリターンなど信じないは、基本的にはオッズ2倍の「大」「小」のみで勝負することがほとんどである。

 苦しい戦いだった。何度かの破局の危機をしのぎながら、30分ほどかかってようやく1200ドルのプラスを確保した。これで差し引き+200ドル。一応勝利だ。スロットマシンで100ドルほど遊んだあと、+100ドルで引き上げ体制に入ったところで、はあることに気付いた。一緒に来ていた友人がさほど苦労もせず500ドル儲けていたのだ!!そしてあろうことかに自慢してくるではないか!

友人:「いやあ、儲かっちゃった。カジノってけっこー余裕じゃん?」

…なんか、むかつく!こんな素人に調子に乗られたんでは、の面目が立たんではないか(何の面目だよ)!!貴様には負けん!「引き分け」で終わって何がギャンブルじゃ!!の頭の中で「勝負の刻」を告げる軍太鼓が鳴り響いた!!

(軍太鼓)ドンドコドコドコ……

:「現在所持金2100ドル。まずは700ドルを投下だ!うりゃ!「小」!!」
サイコロが振られ、結果は「大」!!ハズレ!
:「ぐふうっ!!」

(軍太鼓)ドンドコドコドコ……

:「ハアハア、やばいよ、やばすぎるよ。ええい、こうなったら最後の勝負だ。全軍突撃だー!!「小」に全部!!!」 のこり1400ドルを全額投下!頼む、来てくれ。

サイコロが振られる。の頭の中の軍太鼓の響きは正にクライマックスだ!!

(軍太鼓)ドンドコドコドコ……ド−−−ン!!

出目は、「小」! 来た、見た、勝った!!! 崖っぷちから歓喜の勝利を勝ち取ったことによって、上機嫌でカジノを後にすることができたのであった。

 しかし、ギャンブルデーはまだ続く。今度は競馬だ!フェリーで香港に戻り、その足でハッピーバレー競馬場へ。今日の勝負はナイター競馬である。ちなみには競馬は滅法下手くそであり、生涯のマイナス金額は軽く「ミリオン級」である。

 1レース開始時間丁度くらいに競馬場到着。馬券を買おうと、マークシートに記入するが、なにしろ香港は「馬単」だの「3連単」だのと買い方の種類が多く、それもあって記入方法が難しい。、友人2人とも、1Rはマークシートの記入ミスによって馬券を買い逃した。

 さて、そうこうするうちに競争開始!友人の本命馬が激走!!見事、35倍を的中!……って、何で買い逃したときに限って当たるのさ??

 気を取りなおして、マークシートの記入方法をガイドブックで調べ、2Rを購入。「1Rにつき50ドルずつ賭けよう」と協定を取り交わすと友人。今度はちゃんと購入できたが、あえなくハズレ。 3R、4R……と進んでいくが、一向に当たらない。何故だ??「馬単」、「3連単」といった夢のようなハイリターンなど信じないは、本命ばかり買っているというのに?当たらない焦りとは裏腹に欲望旺盛なは、「1R50ドル」協定などすっかり忘れ100ドル、200ドルと賭け金を増やしていった。肝心のレースの方も、ゴチャゴチャしてわかりづらく、下手をすると自分の買った馬がどれだか解らぬうちにゴールしてしまったりする。ああ、なんかつまんない。でも、負けが込んできて、悔しくてやめるにやめられない。ひとつも当たらないうちにメインレースを迎え、気付くと累計800ドルの負けが計上されていた。

 なんてこったい。カジノでせっかく儲けた800ドルが水の泡だよ。差し引き+−ゼロになったところで終わりにしとくか?

 −−いいや、違う。今こそ、乾坤一擲の「勝負の刻」だ!!!

 メインレース、2番人気の「鑽石群英」(馬名・ダイヤモンドヒーローズ?)の単勝1点!オッズ4倍に500ドル!逃げ馬だから見失うこともない。往け!栄光のゴールまでトップで駆け抜けろ!!

 こうしての最後の望みを託したレースがスタート!案の定ハナを切る「鑽石群英」。そのまま快調な走りを見せ、トップのまま最後の直線へ。

 ……これは、いけるかも??

 しかし、短いようで長いラストの直線で、後続馬が一斉に襲いかかり、じりじりと「鑽石群英」との差を詰めていく。頼む!粘れ!!

 「そのまま、そのまま−−−!!」日本語で叫ぶはすでに単なる競馬オヤジと化していた。

 その応援が届いたのか、「鑽石群英」は半馬身差まで詰め寄られつつも1着で栄光のゴールまでたどり着いたのであった!!

 こうして逆転で収支もプラス700ドルとなった。間抜けなは確定する前に即刻窓口に払戻しにいってしまい、「まあ、慌てるな」と係員に苦笑された。ちなみに1Rで幻の35倍を買い逃した友人はその後ツキに見放され、ひとつも当たらずであった…。

 このようにして、は合計1500ドル(約22,000円)の利益を得ることに成功した。奇跡の勝利によってその後楽しく贅沢ができたであったが、もしあの時はずしていたらどうなっていたろうか…?やはりギャンブルはほどほどにしておくのが賢明であろう。



二墓を追うものは一墓も得ず −02年・山東省編−

2002年三国遺跡旅行の前半、山東省編は8月14日であと1日を残すのみとなっていた。

最初に捜索した孔融墓が失敗に終わったものの、前日の諸葛亮故里シリーズを成功に終わらせ、残り1日で荷澤の博物館にある李典墓と聊城郊外の曹植墓を残しているというのがここまでの状況。この日の成果いかんで、山東省シリーズの勝敗が決する。しかし、前半の山場を迎えて、情勢は必ずしもいいものではなかった。

それは、距離の問題である。13日の宿泊地は諸葛亮故里からすぐの臨沂市。ここから、荷澤までは300km強。荷澤から聊城までは120kmほどで、聊城から済南までは100km弱といったところである。遠距離の移動が3回ある上に、夜は済南から夜行列車で合肥まで行くことになっている。時間的にも余裕がなく、荷澤で手間取ると聊城に行けなくなる可能性大である。遺跡のランク的には聊城の曹植墓の方がはるかに上である。さて、どうする?

「李典はあきらめて、曹植にしぼろう。」 から現実的な意見がだされた。1個所に絞れば、楽勝である。遺跡初心者のチュウ太郎は喜んでこの妥協案に賛成した。

しかしー。

:「でもさあ、曹植だけに絞るとしても、ここから済南までの移動と、聊城への往復でどちらにせよ移動は3回だぞ。荷澤博物館は市内ですぐ行けそうだし、そういう意味では、かかる時間は大差ないんじゃないの?早起きして始発の長距離バスに乗れば、両方とも行けるって。」

:「なるほどー。よし、それじゃあ気合でカバーだ!」

こうして早起きして両方アタックすることに決定した。結論から言うと、これは致命的な超絶判断ミスであったのだが。

14日早朝6時。前日の発言とはうらはらに快適なベットでぐうぐうと眠っていたは、によってたたき起こされた。

:「起きろサル、出発だ。」

なんとは、が寝ている間に長距離バスターミナルへ行って6時半発・荷澤行きの切符を購入してきたのだ!

6時半って、ほとんど時間ないじゃん!寝ぼけながら、慌てて準備。昨日食べた羊肉串のせいか、胃腸の具合が怪しい。しかしトイレに行く時間はなく、ばたばたとホテルをチェックアウトすると時間ぎりぎりで荷澤へのバスに乗り込んだ。

:「我ながら、完璧…!」

意気あがるであったが、それに答える元気は腹痛のにはなかった。道中何度も下痢の波に襲われ、苦しみながらやっと荷澤へたどり着いた。12時15分。思ったよりも時間がかかった。ちょっと誤算。

トイレを済ませた後、タクシーで荷澤博物館へ。時間がないのでこの際やむをえまい。

タクシーの運転手に行き先を告げると、彼はなにかごちゃごちゃいっていたが(方言がきつくてあまりききとれず)、「とにかく博物館へ行け」と指示した。10分も走らないうちに博物館に到着。

タクシーを降りてみると…。し、閉まっている!!そう、怠慢・中国の博物館は昼休みに突入していたのだ!タクシー運転手はこの事を言っていたのだ、とようやく理解したがもう遅い。。午後の開館は2時からと書いてある。ぐああ、そんなに待ったら曹植墓がっ…!

と、入り口に警備室があり、警備員が2、3人ほどいる。ぬうう、こうなったら直接交渉正面突破じゃ!

:「すいませーん、なんか鍵、閉まってるんですけど、開けてくれませんか?」

警備員:「今は昼休みだ。っていうかおまえら何者だ?どっからきた?」

:「この博物館にある李典墓を見にはるばる日本からやってきました。時間がないので、今すぐ鍵を開けてください。」

警備員:「それは無理だ。わしらは警備員で、鍵は持っていない。持っている奴は昼休みだからいない。」

:「いつもどってくるんだ?」

警備員:「午後3時だ。」

ほ、ざ、く、な――――――っ!!!

:「ああ?午後は2時からだろ?」

警備員:「戻ってくるのは3時だ。」

現在時刻は12時40分。3時まで待ったら曹植墓は絶望的である。2時でも微妙だ。どうする?

:「曹植のほうがもともとメインだし、ここは移動するか?」

:「うう、しかしそれでは何のために荷澤まで来たのかわからんぞ。待てば李典墓は確実に見れるわけだし、2時に開けば曹植もぎりぎりでなんとかできるだろう。」

と、いうことでとりあえず食事を取ることに。しかし、物事裏目に出るときはとことん裏目が続くわけで、この判断が最終的には命取りとなった。

下痢で食欲が出ないなか餃子を食べ、2時少し前に博物館を再訪。……、開いて、ないよ?

警備員:「3時って、言ったろ?」

…………おっしゃる通りだったのね。

なすすべなく入り口にて座り込み待機。しばらくして、ようやく管理人らしき人がやってきた。遂に門が開かれたのである。しかし、門の中には入れたが、なぜか展示室の扉は閉ざされたままである。

:「あのう…、展示室の鍵は…?」

管理人:「俺は持ってない。別の奴が持っている。3時に来る。」

なんなんだ。一体どういう管理体制をしているんだ。がっくりして1階ロビーの階段ホールに座り込む。あれ…?そういえば、資料には李典墓は博物館の1階ロビーに展示って書いてあるけど、見当たらないような…。今更、この期におよんで恐ろしい予感がする。まさか…、いや、そんな、まさかね。

しばらく座っていると、館長のような人物が現れた。彼も展示室の鍵は持っていなかったが、待合室へと案内された。

館長:「まあ、茶でも飲んでくれい」

なぜかにだけ茶が出された。、チュウ太郎は一気に不快モードへ。以後、一言も館長と口を聞かなくなる(最もチュウ太郎は中国語話せないが)。

:「ここに李典の墓が展示されていると聞いて見に来たんですが。」

館長:「おお、李典とは、曹操の大将の李典のことだね。」

おお、遂にきたか??

館長:「ここには、ないよ。」

:「え……??(絶句)」

がショッキングモードに突入し、場の空気は冷え切った。それからしばらく経って、3時少し前に鍵を持った人が現れ、すべての展示をみることができたが、李典墓の姿はなかった。終わった…。時間的に、曹植墓はもう無理である。呆然とバスターミナルに戻り、成果ゼロですごすごと済南への長距離バスに乗り込んだ。

二墓を追うものは、一墓も得ずー。負け犬と化した3人は、寝台を取り逃していた済南→合肥の夜行硬座(椅子席)で悶えながら不幸な1日を締めくくったのであった。



富陽孫権故里のナイスな少年たち

わが心の英雄・孫権の故郷を訪ねて、は富陽市へと来ていた。 当地の郊外の、富春江のほとりに孫権故里があるという。富陽のバスターミナルにて地図を購入し、裏側の近郊図を見ると、しっかりと孫権故里が記されている。の期待はいやがうえにも高まる。また、「孫権後裔聚居地」を新たに発見した。ただし問題なのは、どちらも富陽のはずれのはずれに位置していることだった。とりあえず郊外バスで「場口鎮」へ。孫権故里は場口鎮の更に外れであり、バスでのアクセスはここが限界である。場口にてバスを下車。超絶ド田舎である!郊外地図を見た感触では、ここから約10キロくらいありそうで、さすがに歩いている時間はない。望みを託していた市内バスもまるで見当たらない。っていうか、市内バスが成り立つような開発レベルに達していないことは見るからに明らかである。”やばくない?”お互いに顔を合わせるであった。

聞き込みをしようにも人があまりいなく、バイタクのおっちゃんが暇そうにボーとしているくらい。彼に聞いてみたところ、「知っている」ということだったので故里と後裔聚居地セットで乗せてもらうことにした。値段は二人で20元。 バイタクは細い田舎道を突っ走る。回りは一面畑で、民家すらほとんど見当たらない。今一度言う、場口鎮、正真正銘「超絶」ド田舎である。

バイタクが疾走することおよそ20分、徐々に道の舗装が怪しくなっていき、完全に土に変わってしばらくしたあたりで孫権故里に到着した。村のはずれの民家の脇といったところに石碑があり、「孫権故里」と大書されている。石碑の周りには地元の少年たちが10人ほど遊んでいた。

が石碑を眺めて写真などを撮っていると、少年たちが興味津々で群がってきた。

少年A:「石碑見に来たの?なら、まだあるよ!」

:「本当か?」

少年A:「こっちだよ!」

そう言うと、少年はなぜか猛烈なダッシュを開始した!走って追いかけると、果たして、そこには「孫権植瓜処」という石碑があった。孫権がここに瓜を植えた、という由来が碑の裏に記されていた(そのまんまかい)。

さて、少年とその弟(弟分?)はがゆっくり「植瓜処」を見ている隙を与えず、またも「まだあるよ!まだあるよ!」と言いながら何処かへと猛ダッシュしていく。見失っては大変と必死に追いかける。今度はけっこう遠かった。それにしても、2月半ばで寒いというのに彼らの元気なことよ…。運動不足のおにいさんは、もうバテバテだぜ!息切れが激しくなりかけたころに次のポイントに到着。納屋のようなところで、以前は廟だったらしいが破壊されて現状は干草置き場となっていた。中に入って壁を見ると、石刻の跡がある。どんな文物があったのだろうか。惜しいなあ。

さらに少年たちに連れられ、田んぼの真ん中にある亭にたどりついた。そこにも、「孫権故里」と大書された石碑が建っていた。こちらのはけっこう質がよく、題字は中国が誇る大学者・費孝通先生によるものであり、感動。彼らに案内されなければ最初の石碑だけで満足して終了してたかもしれない訳で、非常に幸運であった。

孫権故里見学を無事終えた後は、バイタクでここに到着する少し前になにやら廟のような建物を発見していたため、そこに行くことにした。すると、少年たちも「一緒に行く!」と言い出すのでバイタクに同乗し、廟らしき建物のところまで(バイタクで2,3分)戻った。道すがら少年らに「他に何かないかい?」と聞いたところ、「うちの小学校にもあるよ!毛主席の像があるよ!行く?」と返事があった。…ごめん、毛沢東は興味ない。

廟に到着。入り口には「呉王廟」とある!やはり、これだ!……が、扉には鉄錠がかかっており、中に入れない。周りには人っ子ひとりいない。そ、そんな。ここまで来て、見ずには帰れないって!!しかし、この時のには強い見方がいた。

少年:「ボク、廟の管理人の家知ってるよ!」

おお、本当か!!でかしたぞ、少年! てなわけで少年に案内されて管理人の家へ。半開きの扉を開け、中に入ると…。

こ、これは―――!?

薄暗くがらんとした部屋に、ひとり老人が鎮座している。並大抵の年齢ではない、超絶ヨボヨボ級である。

:「あ、あのう、そこにある廟を見学したいので鍵を開けてほしいのですが…。」

が必死に話しかけても、老人はただじっと鎮座し、微動だにしない。起きているのか、寝てるのか、それとも呼吸すらしていないのでは…??だ、駄目だ。通じない。の力では、この”超絶ヨボヨボ級”御老体の牙城を崩すことは不可能だ…!!

しかし、この時のには超強力な味方がいた! 少年が、老人に話しかけたり、抱きついたり、揺さぶったりしているうちに難攻不落を誇った老人が動いた!!そして奥の部屋から鍵が登場した!すごい、すごいぞ少年!

老人は動けないのか、代わりの村人数人が廟まで行って鍵を開けてくれた。中はがらんとしていて、台座の奥に数体の武将人形が展示されていた。中心の人物がどうやら孫権のようである。左右にも台座があったが、そこは何もなかった。きっとかつては孫策、孫堅が祭られていたのであろう。どうやらここも(文革で?)破壊されて修建の途中といった感じだ。

こうして、二人のナイスな少年によって孫権故里を十分に満喫することができた。別れ際も彼らはダッシュで去っていった。何と元気なことか。

引き続きバイタクで「孫権後裔聚居地」へ。到着すると、すぐに同名の大きな碑が目に入る。広場で子供たちが遊んでおり、その奥には「孫氏家廟」なる廟があるではないか!しかし、扉は無情にも閉ざされている。

先ほどの成功体験に味をしめていたは、遊んでいた子供らに声をかけた。

:「君たち、ここの廟を見たいんだけど管理人誰だか知ってるかい?」

すると目論見どおり知っている子がいて案内してくれた。 連れて行かれたのは不気味な2階建ての建物である。中は村人たちでごった返していた。少年いわく、この2階に管理人がいるとのこと。案内してくれるように頼むと、少年は

「ぼくはここに入っちゃいけないんだ。自分で中に行ってよ。」

と尻込みする。仕方がないので案内なしで中へ踏み込む。1階は広い部屋になっており、すごい人数の人民がいる。いくつかの机に群がってワイワイ盛り上がっている。何だ?

……サイコロ、である!暇をもてあましている田舎人民は、真っ昼間からギャンブルに興じているというわけだ!それにしても原始的だなあ。 この光景を見てかなりびくついたものの、脇をとおりすぎ2階へ。2階は麻雀ルームだった…。別室があり、ここに廟の管理人がいた。賭博場の元締めをかねる、村の有力者に違いない。

:「あのう、廟の見学したいんですけど…。」

元締め:「アア??おめえ何者だ?」

うう、怖い。日本人とばれたら身ぐるみはがれたりして?――ってなわけでとっさに出たウソ八百。

:「広州からきた学生です。考古学研究で来ました。」

元締め:「ほう?で、廟を見たいってか?」

しばし沈黙。その後、元締めは机を開けてごそごそやっている。鍵が、出てきた。 というわけで緊張感あふれる直談判が成功し「孫氏家廟」を見学することができた。元締めはの様子に不自然さを感じたようで、見学中しきりに 「お前ほんとに広東人?」とか、「名刺持ってないか?」などと探りを入れてきたが、引っ込みもつかないのでしらばっくれて押し通した。

このようにして、地元の少年たちの力を借りてこの日の孫権故里探索は大成功に終わったのであった。ありがとう。彼らには心から感謝の言葉を述べたい。そして、孫権の故郷を立派に守っていってもらいたいと願っている。



油断大敵!列車駆け込み乗車のリミットは何分前?

2002年・暮れ−。気がつけば、また中国に来ている。12月29日、前日深夜に北京入りしたの予定は、北京散策および買い物と本日午後の便で北京にやってくるとの待ち合わせ。そして夕食を済ませた後は午後8時ちょうどのT61の列車で石家庄へ移動となっている。石家庄までの乗車券は前日に確保済みだ。 というわけではたっぷりと勝手知ったる北京市街の散策と買い物を楽しんだ後、待ち合わせ場所の建国門マクドナルドで待機を開始した。なんやかやで6時間も歩きまくってしまい、へとへとである。

午後5時20分ごろ、が到着。早速食事へ。「世界之窓」で高級広東料理を楽しむ。食事が終わったところで6時50分。列車はここから少し遠い北京西駅で8時発なので、すぐに駅に向かったほうがよかった。しかし、には気の緩みがあった。「楽しい列車生活を満喫するために、飲物と菓子を買いに行こう。」と、道の反対側のデパート「賽特」へ。別段急ぐわけでもなく買物し、

7時10分。

「なんか、時間けっこう余裕無くない?」異変に気づき始めたのがこの時であった。しかし、すっかりボルトの緩んでしまったは、急いでタクシーを拾うでもなく地下鉄建国門駅へ向かった。地下鉄ホーム到着、

7時18分。

「おい!間に合わなくないか?」気の緩みからようやく正常な感覚を取り戻したのがこの時であった。しかし、既に時間はデッドゾーンに入りつつある。そして、追い討ちをかけるようにが言った。
:「小便してえ…。」
:「んなこといってる場合か!トイレに行ってるうちに一本逃したら命取りになるぞ。我慢せい、我慢!」
地下鉄が来たのは

7時24分。

結果論だがトイレに行く時間は、あった。この失敗はあとで尾を引くことになる。
北京西駅まで地下鉄の最寄り駅は「軍事博物館」。そこから歩いて15分程度の道のりである。到着したら即タクシー拾うしかない。と思っていたら…。
:「到着したら、即、トイレだ!!」
な、何ということだろうか。既にこの時点での「貯水タンク」は限界に達していたのだ。かたくなにトイレを主張するも根負けせざるを得なかった。この1秒を争うときに…。そもそも、さっきレストランでトイレに行ってなかった?あれから30分しか経ってないんだけど?

地下鉄が「軍事博物館」に到着。

7時45分。

トイレ直行。

7時47分。

ダッシュで地上へ。7時48分。タクシー確保、

7時49分。

ものの3分で西駅のロータリー前に到着。車だとロータリーを大きく迂回しなければいけないということで、ここでタクシーを降りる。

7時52分。

ロータリーの真ん中を全力ダッシュ突っ切って駅入り口へ。

7時55分。

時刻を把握しているのは、ここまでである。このあとは、時計を見ている余裕すら、なかった……。

入り口の荷物検査で係員から呼び止められたが、振り切って待合室まで走る。待合室に着くと、乗車するT61次はすでに「停止検票」(乗車手続き終了)となっている。要するに間に合わなかったってこと。
しかし、まだ諦めるわけにはいかない。
「させるかぁ――!!」
検票の窓口を強行突破し、ホームまでの廊下に出るが、そこで係員に捕まる。絶体絶命。
係員:「何じゃ貴様は?どこ行きだ?」
:「石家庄だ!」
係員:「アア??」
西駅を出て石家庄を経由する列車などいくらでもある。それでは説明になっていない。
:「T61次だ!」
列車番号をいったところでようやく係員に理解してもらえたようで、通してもらえた。ホームへの階段を全速力で駆け降りる。列車は……、まだ発車していない。間に合った!緊張と絶望が安堵に変わる。

しかし、安心するのはまだ早かった。むしろ、真の地獄はここから始まったのである。

すぐそばの入り口に駆け寄り乗車しようとすると、入り口に立っている列車の係員(中国では車両ごとに係員が立っていて乗車券を確認している)に乗車を拒否された。
係員:「この切符は13号車だ。ここは3号車。車両番号が違うからだめだ。」
――――って、おい!?確かに中国の列車は決められた車両から乗車しないといけないが、このぎりぎり非常事態にそんな融通利かんこと言ってる場合じゃないだろ?しかし今のに係員の鉄壁ガードを突き崩す力は残っていない。半狂乱になりながら13号車を目指して走る。10車両分、たぶん200メートルくらいある。
6号車を通過した辺りで、の体力の限界がきた。そもそも昼間に6時間歩いているのだ。
:「もう、だ、め、だ…」
力尽きた。しかし、はまだ走り続けている。意識とは無関係に体が走ることをやめないのだ。もう何がなんだかわからないまま疾走する。
「ジリリリリリリリ…………」
9号車を過ぎた辺りで、列車の発車ベルが鳴り響いた。今度という今度はやばいっ!さすがに今度は拒否しないだろうと、10号車から乗ろうとする。が、しかし…。
係員:「車両の違う奴は絶対に乗せん!!」

てめぇらの血は、何色だぁ――――――――――――!!!!
反論する余力すら、残っていない。無我夢中で13号車まで走るしかない。ここまで、ここまで来て乗り逃す訳にはいかない。この煉獄の苦しみを、水の泡と散らせるわけにはいかない。走った。限界を超えてなお、人は走り続けることができるらしい。着いた。ついに13号車までたどり着いた。

このようにして、奇跡的に列車に乗車することができた。ぐらりと車両が揺れ、列車が動き出したのはが車両の端っこの座席にたどり着く前のことであった。座席にへたり込み、ふと思い出したように時計をみると、8時3分を示していた。

なんであれ、たかだか列車に乗るのにこんなに苦労するのはいただけない。賢明にして堅実なる旅行者の皆様には、発車30分前の到着を常識としていただければと思う。


い尽くせ!上海宿舎の大盛りごはん

が初めて中国大陸に行った時のことである。このとき、大学の中国語教師の紹介で、上海のとある大学に短期留学をした。、他3人のクラスメートの計5人で、特別に用意された郊外の宿舎に缶詰になりつつ、中国語のレッスンに励んだのである。
そんなわけで、週末などに観光地へ案内してもらう以外の大半は、食事は宿舎の食堂である。5人が円卓を囲み、専用の料理が出てくるのだが、残念なことに味はイマイチであった。特に、米がまずかった。あるときはべちゃべちゃであり、またあるときは生煮え、独特の臭いもあり、中国初体験の我々5人には非常になじみづらいものであったことは間違いない。そして辛いことには、料理や米飯は毎日大量にでてくるのだ。特筆すべきはやはり米飯で、大きなお櫃にたっぷりと盛られてくる。それを各人の茶碗に盛り分けて食べるのだが、はっきり言って食べきれない。折角のもてなしを受けながら、我々は毎日料理を残しまくり、順調に痩せこけていっていた…。

そんな、ある日のこと。
唐突に、一人の男が立ち上がった。
:「このままでは殺られる!今日こそは、このメシを食い尽くす!!」
他の4人:「何を言いだすんだこいつは…??」
当時大学1年生。と知り合ってわずか2ヶ月ほど。この発言がとっさに理解できる状況にはない。
:「貴様ら、このまま毎日残しまくりの負け犬人生を歩むつもりか?今日この時、一度だけでも食事を食べきろうではないか!!」
:「おお、要するに義勇軍を起こすということだな!ようし、やるぞ!!」

派閥が、できた。
義勇軍に参加したのはひとりで、他3人の同学(クラスメート)態度は冷ややかである。とりあえずふたりだけでは全料理制覇は不可能だ。そのため、ターゲットを絞って米飯だけは食いきる!と目標を設定し、戦闘開始!

:「うおおおぉぉらっらっらっらっぁ――――――!!!」
他のおかずを無視して、米のみをひたすら食う。食う!喰らう!!栄養バランスなどお構いなしである!しかし、今日もコメは大量だ!集中攻撃をかけてもなお半分くらい残っている。手ごわい。
途中、の雄姿に胸をうたれたのか(な訳ないけどさ)、女同学がひとり義勇軍に参加!大変嬉しいことだが、お嬢様育ちのためさしたる戦力アップには至らない。3人で必死の戦いを続けるが、料理になじめない生活で胃が小さくなっていることもあり、早々と満腹になりつつある。義勇兵だけでは、勝てない。

こうなったら、非常手段を使うしかない!……徴兵、である。
嫌がる残り2人の茶碗をひったくり、無理やり米飯を山盛りにする。
同学:「エエッ、ちょっと…、こんなに盛られても食べれな…」
:「いいから、食えっ!!頼むから今日だけは、食ってくれ…!」
:「そうだそうだ!俺たちだって辛いんだ。貴様らだけ食わんなんてワガママは許さん!!」
ひどい話だ。思えば、若かった。鬼畜とは、正にのことである。今思えばこの企画に乗ってしまった時点で、の運命は決定的だったのかもしれない。この後の術中にはまり、中国にのめり、「三劉」管理人への道を驀進していくのは歴史の必然といえるだろう。

こうして、5人で鬼のように飯を喰らいまくり、遂に全て食べつくすことに成功したのである!!勝利の満腹…、いや満足感につつまれながら、意気揚々と食卓をあとにした。

そして、翌日―――。

一同:「ぐはぁっ!!!」
なんとこの日の食卓には、前日の2倍近くの量の米飯が山のように盛り込まれていた……。前日に食いすぎたので、はっきり言って見るのもイヤである。恐るべし、中国の宿舎。
こうして、勝利の翌日の食卓には2倍盛りの米飯がほぼそのまま余るという惨状が繰り広げられたのであった……。

※後日、授業で「中国人はもてなし好きで、客が来ると食卓に大量に料理が出てくる。客人がそれを残さず平らげることは"量が少ない"という意味になり失礼である」と習い、このことを思い出し妙に納得したものである。


三劉暁を覚えず

※今回の体験談は、、特定の日の出来事ではありません。旅行中に必ず一度は起こる、いつもの朝の風景、そういったエピソードとして理解してください。

早起きは3文の得――。とはよく言うが、日々疲労している現代人、そうそう爽やかに目覚めるものでもない。それがたとえ楽しい(?)遺跡捜索の朝だとしても、もちろん例外ではない。

前日の夜。明日の計画を話し合う。戦いは、ここからすでに始まっている。

:「これより、明日の完璧な計画を発表します!6時起床、6時10分出発、即刻長距離バス停からアタック開始。速攻で遺跡を落としたあと、当日中に次の都市へと移動する!!」
:「反対!かったるいし、眠い!」
:「なんだと?このサルめが!」

いつものように同じ会話が繰り返されている。遺跡アタックを前に、異様に士気が上がる。一方のは、「休日=午後までうたた寝」を信条とする根っからの「惰眠派」である。意見が合うはずもない。
しばしもめた結果、ホテルの朝食が7時からなので朝食を食べたあと7時半に即出発、とかなんとかいうお約束の妥協ラインにたどり着く。だったら最初からそういう話にしとけって話だが、の間では「儀式」のようなものだから仕方がない。

さて、翌朝―。6時半頃に、目覚ましがなる。
「おぉおおぉ・・・・・・」
うめき声を上げ、どちらともなく目覚ましを止める。止めたあと、しばしの静寂。あれ?起きて身支度しないの?……しない。二人とも断じてしない。その理由はこうだ。

:身支度に30分も必要ない!5分で十分だ!だからぎりぎりまで、寝る!
:身支度には30分必要。でも眠いじゃん?頭も重いし、体もだるい。もまだ寝てるようだし、ひとりだけ起きることないよね。

この後は、の腕時計のアラームが鳴り出すのがいつものパターンだ。5分刻みくらいで、5回鳴る。しかし、起きない。いくらなんでも5回鳴らせば起きるだろう、なんてのは大きな間違いで、実際は5回鳴ることが油断や甘えを生み、かえって結果につながらないものなのだ。
そして6時55分。最後のアラーム終了。
:「おい、そろそろ朝食だけど、起きないの?」
:「ああ、眠いから朝食はいいや。ひとりで行ってきてくれ。その間少しでも寝たいから。戻ってきたら起こしてくれ。差し入れに包子もって帰ってきてよ。」
:「なんだよ、ふざけんな。じゃあいいや。オレも行かねー。」

そもそも、は普段朝食を食べない。いや、どころか遺跡捜索中は昼食も平気で抜くような奴である。快適な布団から出て、ひとりで食事に行くはずはない。わかってる。お互いそんなことはわかってる。食事とか何とかをネタにして、単にもっと寝たいから時間かせぎをしているだけなのだ。

そして7時20分。出発予定時刻まであと10分である。

:「おいサル。起きろよ。準備しろよ。こっちはいつでも出発できるぜ。」

声のする方を見ると、はまだベッドに横たわって寝ているではないか!セリフだけ準備万端で、実際まったく就寝中と変わらない姿で寝ている。反論したくも、なるのが人情。

:「おまえこそ起きてないじゃん。」
:「いや、オレはこの状態から1分で完璧に準備が整う。つまり予定時間どおりに出発できるって寸法だ。貴様は起き上がって早く支度しろ。」
:「こっちは30分くらいかかるっての。」
:「なにい?この、たわけもんがっ!しかたない、30分待ってやる。オレは5分で準備可能だからもう一度寝るが、おまえはすぐに起き上がって準備を開始するのだ。わかったな。では30分後に会おう。おやすみ。」

、就寝。
………ってさあ、この展開でがムクリと起き上がって支度始める、なんてありえないだろ??今まで、一度だってが自発的に起きたことあるか?ただでさえ眠いところを寝てる奴に「起きろ」なんて言われて、やる気が沸くわけないだろ?要するに、あんたもまだ寝たいんでしょ?30分後にがまだ起きていないことを期待してんだろ?確信犯だろ、どう考えても。要するに、お前は隠れ惰眠派ってことだ!

というわけでも就寝。すでに出発時刻なのに、この会話、この行動。お互いの言葉がお互いのやる気を削いでいるという、悪循環。、まさに人間のクズである。

そして約束の30分後。

部屋は、静寂につつまれたままだ。そう、二度寝の心地よさに、二人とも完全に意識を失い、沈溺しているのだ。この事態が想定外のため、もちろん目覚ましなどセットしていない。いや、いつものことなんだけどね実際。とにかく、もうの惰眠を止めるものは、何も無い。

そして、朝9時過ぎ……。

「ぐっわぁぁぁぁ―――!!」

二度寝から覚めたはパニック状態で目覚める。9時とか10時とか、それはさすがにやばい。こうなると、たちどころに目が覚めるのだから不思議だ。急いで支度を始める。しかしここでいくら機敏な行動をとっても、後の祭り。なぜ予定された時刻にこのパフォーマンスで動けないのか?そして、1分で準備完了とか豪語していたくせに、もキッチリ30分支度に費やしている。1分とか5分で準備できるわきゃない。わかってる。最初からわかっていることだ。

:「こんなに寝坊するとは…、貴様のせいだ!」
:「いいや、いざとなってから最終的に遅かったのは貴様のほうだ!よって貴様のせいだ!」

お互いに責任をなすりつけ合い、息せき切らしながら長距離バスターミナルへとダッシュ。これが、いつもの懲りない三劉の朝である…。


遺跡捜索登山行程録

三国遺跡は街中にあるとは限らない。むしろ、中級者以上が好むマニアック遺跡に関しては、圧倒的に人里から離れた、「閉ざされた」地にあることが多い。来る者を拒む、あるいは試すかのように。その代表格が、山である。
………という訳で、今回は、遺跡熱が昂じて山岳地帯へと迷い込んでいく旅人の話をいくつかお届けしたい。


1.猛犬注意!李典墓 〜合肥郊外・紫蓬山〜

02年夏の遺跡シリーズの中盤戦。前日の遺跡をことごとく逃したうえに夜行列車で締めくくった翌日ということで、士気が上がらない。メンバーはとチュウ太郎、山に入る前からかなり負け犬ムードが漂う。この日は、合肥郊外シリーズということで、まず周瑜故里を訪問。そのあと、「肥西紫蓬山」にあるという李典墓を半信半疑で目指していた。時刻はすでに午後2時半を回っている。なんとなくそれらしい方向行きのバスに乗りこみ、「李典墓」ではわからないだろうと、紫蓬山で乗務員に尋ねる。知っていたようで、最寄の場所でおろしてもらう。付近にいたバイタクの運転手に尋ねると、坂を下ったところにあるバスに乗っていけという。言われたとおりバスに乗り込み出発。「紫蓬山まで」というと、「途中で乗換えだ」との返事である。なんと面倒な…。予想よりも乗換え地点まで遠く、30分ほどバスに揺られてようやく到着した。時刻は4時半。ぎりぎり帰って来れるか?
乗換え地点でバイタクがつかまったため紫蓬山まではバイタクを利用。5元ほど。紫蓬山は風景区になっており、李典墓は頂上付近にあるらしいことがわかった。入口で入山料20元を払い、出発。購入したパンフレットには李典墓が載っている!俄然士気が上昇し、登山道をいく。意外にも舗装がしっかりしており(車も走れるくらい)、歩きにくさはなかった。
しかし、強敵がいる。犬である。道端のそこらに、放し飼いでわんさかいる。観光地のはずだが客なんてほとんどいないので、見知らぬ我々に対して犬どもはさかんに吠えてくる。閉口するのは数の多さ。1匹だってうるさくて嫌だと言うのに。しかも、下手に噛まれて狂犬病だったりしたら最悪だ。吠え声におびやかされつつ道を進む。中腹あたりで、旅館を通過。もし合肥まで戻れなかったらここに宿泊か…。更にしばらく進んだところで西ろ寺という寺に着いた。ここは三国時代からの古刹らしい。といってもなんだかわからんが。ここからもひたすら山道。道がぐっと細くなり、傾斜も増すばかり。いよいよやばそうな空気が漂いだしたところで、ようやく発見!煉瓦で固められた塚に埋めこまれた墓碑には、確かに李典の文字が!解説があり、間違いなく三国名将李曼成の墓であることが確認できた!!感動と歓喜の渦!!勝利の記念撮影をおこなうが、すでに時刻は5時半過ぎ、何しろ時間がない。すぐに撤収体制へと入る。15分ほどで先ほどの旅館まで戻ってきた。何とか帰れるか?
・・・と、そこで、恐ろしい光景が眼に入った。猛犬、軍団。さっきの倍くらいの数がいる!しかも、道に横一列に並んでいる!怖い!
「やべぇよ……?」臆病な、チュウ太郎は半泣き状態。犬を飼っているだけが冷静である。
―――と、猛犬たちが動いた!こちらに向けて、吼え声を上げながら、横一列の陣形を保ちつつ突撃してくるではないか!!これはまさに、味方のいない戦場で、鶴翼の陣からの一斉攻撃を浴びるようなもの。李典見たさに死地へと迷い込んだというわけか…、絶体絶命である。
:「あわっ…。、やばっ…。犬っ…。」
腰が抜けそうな、チュウ太郎であるが、はそれでも落ち着いている。
:「下手に騒ぐな。無視、無視。」
そうこうする間に犬に包囲される。こちらに吼えてくるものの、噛みついてはこない。何をするわけでもなく、走り去っていく。
怖かった……。けど、どうなの?正直、こんなびびる必要なかったんじゃない?犬をよく知るの応対が正解だったらしい、というのが結論だった。
さてその後は特に邪魔も入らず、順調に下山することができた。時刻は6時過ぎ。既にあたりは暗くなっている。しかし、救いの神・路線バス発見!しかもなんと、合肥行き!どうやら町の西はずれのロータリーから直行で出ていたらしい。行きはバス2本+バイタクと苦労したわけで、最初から知っていれば…、と思うが、仕方のないことである。
なんであれ、きつい登山を乗り越えての李典墓到達は、02年夏シリーズの最大の成果となったのであった。


2.遺跡か、友か?劉備山ダッシュ事件 〜陽泉郊外・劉備山〜


04年春節の山西省シリーズでのこと。北方であったことと寒波の影響で、ここまでも微妙に士気の上がらないまま捜索が続いていた。終盤戦を迎えていたこの日は、陽泉という都市にきており、目標としては市内の関帝廟、劉備山の劉備廟、張飛山の張飛廟という三兄弟それぞれの独立した廟を設定していた。
市内の関帝廟は有名で、捜索難易度も低いため、とりあえず後回しとし、郊外へのバスに乗り込んだ。位置関係から、まずは張飛廟を目指すが、アクセスの交通手段が見つからず、手詰まりに。バスで近くまで行ける劉備廟へと転進することとした(このへん迷走気味)。そんなこんなで時間を取られ、廟のある劉備山の麓にたどり着いたのは午後2時少し前であった。
「劉備山風景区はこちら」という泣きそうな位しょぼい立札を発見。「よっしゃ!」と志気あがる、「これ進むの…?」と気が重くなる。それぞれの情熱に若干の温度差が生じつつ、登山開始。
道は日本の登山道と同じように、土道であるが一応整備されている。しばらく進んだところで人民がいたので(こんな田舎にいるのがすごい)、訊ねる。
:「劉備廟ってありますか?」
人民:「おお、あるとも。山頂だよ。ここから見えるよ。」
指差された方角を見ると―――。
遥か、遠くではないか。
:「うおお!燃えてきたぜ!!ダッシュで登山だ!」
:「アア?こんなん登ってらんねーっての。あることは“確認”できたし、もういいんじゃない?」
劉備廟があることよりも、むしろエグそうな登山を喜んでいる。志気が下がる一方の。情熱の温度差は、もはや隠し切れない。
とりあえず、前進。体力もあり、やる気満々のはペースが速い。逆にはスタミナも不安で、撤収の落とし処を内心探っている状態。ペースも上がらない。道は、数日前の雪が積もって残っており、地面が見えないくらい。条件も悪い。
だんだん、歩く二人の間に距離ができてきた。
2時半過ぎ、冗談抜きで本格的にばててきたを呼び、待たせて追いつく。作戦会議。
:「もうバテた。いつまで歩いてもたどり着けそうもないし、撤収しないか?」
:「ほざくな!完璧超人として敵に背を向けることは死に値する!(注:昔キン肉マンという漫画であったネタ)」
:「知るかよ。完璧返上するから、もう引き返そうよ。」
:「といっても、もう2時半で、いまさらひき返しても市内に着くのは夕方頃だ。関帝廟も厳しいだろう。このままじゃ納得がいかん。もう少し頑張ってくれないか?」
:「…わかった。3時まで。3時までは進もう。それと、もうバテているから君の歩行ペースに追いつけない。雪山で離れ離れで歩くのはまずいから、一緒に歩こう。ペースを落としてくれ。」
:「わかった。」
という訳で、条件付きながら登山続行。しばらくは同じくらいのペースで進む。くねくねした道で、視界が開けず、今どのくらいなのか、あとどのくらいなのかよくわからない。不安な状態が続く。・・・そして、2時40分過ぎくらい。急に目の前の視界が開け、山頂まで見通せるようになった。
3時までに、…なんとか行けるか、どうか??という微妙な位置にいるようだ。

異変は、このとき起こった。

ペースを落として一緒に歩いてくれていたはずの、「親友」のはずのが、猛烈に加速し始めたのである!!ふと気づいたときには、視界から消えそうなくらいのぶっちぎられ状態。こちらはバテているので、追いかけようにもペースが上がらない。
:「ま、待ってくれ――!」
:「おーい、――――――!!」
声は、届かなかった。ピクリとも反応はなく、は視界のかなたを突き進む。2時50分過ぎ、先行のはいよいよ廟間近まで到達。最後におあつらえ向きに用意されていた(?)心臓破り系の急斜面にアタックを開始!一方、肉体的疲労と、精神的な失望感に包まれたは呆然と見上げながらノロノロと歩いていた。
……もう、一人で引き返すか?話が違う、いや、どう考えてもおかしいよ。なんでバテてる同行者を平気で置去りなんだよ?まずいだろ、ここでダッシュ炸裂は。こんなんやってらんないよ。ある意味これが完璧超人たる証ってか?
とかなんとかウダウダ考えているうちに、心臓破りの急斜面の真下に到達。さすがにここまで来たら、もう行くしかない。心臓をバクバクに破られつつ、登る。はすでに廟に到達して、勝利の舞。
そして、ようやく頂上に到達。声をかけてくる
:「いやあ、なかなかすばらしいですなぁ。」
の怒りが爆発したのは言うまでもない。劉備山登頂の激闘(いろんな意味で)は、生涯忘れられない思い出となったのであった…。
―――――っで、劉備廟はどうだったかって?なかなか素晴らしかったよ、ホントに。


3.初詣は孫堅釣魚台 〜宜興郊外・??山〜

これだけ毎回ひどい目に遭いながらも、なぜ三劉山登りはエスカレートしていく一方なのか?05年元旦、年明け一発目からまたも遺跡登山をしている。しかも今回は超絶ド田舎の名も無き山である。
この日は宜興から、まずは西南郊外の国山碑を見学。貴重な呉末期の遺跡である。難なく到達できたため、次はどこへ行こうか?と珍しくいい感じになっていた。
「孫堅、行ってみるか?」
じつは今回のシリーズ、3日目に最大の成果である孫堅墓・孝陵に到達、大感激しており、この日購入した地図の郊外図にたまたま記載されていた、「孫堅釣台」なるポイントは大変タイムリーであったのだ。いい加減な地図を見ても、幹線道路から程遠い場所に記載されており、かな〜り難易度高め、である。
しかし、行った!ためらいもなく、突撃開始。20kmくらい明らかに離れているのに、なぜか徒歩。最短距離の、明らかに裏道っぽいコースを選択したため、バスが一切通らない。2時間ぶっとおしで歩き続け、鯨塘鎮という場所まで到達した。この集落の郊外がめざす「孫堅釣台」である。地図上の直線距離であと7,8キロあり、バイタク運転手によると山の山頂だという。「山かよ…」いやな予感を感じつつも、山の登山口までバイタクを利用。10数分で山の麓に到着、戦闘開始!
さて、宜興というのは上海・南京付近であり、江南の地なので本来冬でもそれなりに暖かいはず、なのだが、折からの寒波の影響(こんなんばっかり…)により積雪があり、土の道は残雪とアイスバーンが入混じったコンディションとなっている。戦意を挫かれ気味だが、孫堅への情熱&2時間の徒歩+バイタクを無駄にしたくない、という事情によりずんずん突き進む。
10分登ったところで、道が無くなった。
なんじゃ?こりゃ?どうなってんの?…ってことで作戦会議。
:「どうする?道がなくなったぞ。」
:「なんとかなるだろ。要するに頂上行けばいいわけだし。」
:「しかしなあ…」
:「まだ時間あるだろ?とりあえず時間ギリギリまでは登ってみよう。」
続行。獣道みたいなコースを進む。
進むうちに、獣すら通れなさそうな状況になってくる。草木を踏み倒し、ヤブこぎ状態でなおも進む。深雪で、傾斜のきついところに差し掛かる。
「ぐっわぁぁ――――!!」
が滑った!転んだ!何を隠そう、は一足しか靴をもっておらず、しかもそれは長年はき続けたため靴底がフラットに擦り切れ、この上ない滑りやすさになっているのだ。この熾烈な登山に似つかわしくないこと極まりない。しかし、なおも進軍。ここまで来ると意地である。風が強くなってきた。みると、進むには右側が断崖絶壁になっている傾斜を横切る必要がある。
:「このままでは、死んでしまう…。」
撤収を決意。下山する。完敗である。敗北か死か、究極の2択状態に追込まれては、仕方が無い。
麓まで降りたところで、地元民発見。この期に及んで聞き込みをする。この根性、もはや天晴れというべきか。
結局、聞き込みの結果、以下のことが分かった。
・途中から道がなくなるため、地元民でも経験と勘で登っている。
・夏ならまだしも、冬に登るのは無茶。
・「孫堅釣台」は地元では単に「釣魚台」と呼ばれている。この人民は孫堅を知らない。
・とりあえず、どでかい石がある。碑や説明などは、一切なし。

来たこと自体が、間違いだったらしい……。
こうして初詣登山に失敗しただったが、懲りずに翌日蘇州郊外の「小王山」なる山に顧雍墓を探しに行き、敗北する運命が待っているのであった…。


湖南省「無」づくし旅行

2005年・冬ー。新婚のが初めて過ごす、クリスマス。
誰と、どこで?
…そんなことは、聞くまでもないことだ。
と、湖南省遺跡捜索!!新婚の妻を放置し、しかも内陸部で遺跡捜索。ま……、まともじゃない、いや、ありえない。しかし、これこそが三劉会長・完璧超人の遺跡魂なのである。「ここしか休暇が取れない」と主張したのせいじゃないからな!…と、いうわけで、まずは12月22日に青島にて合流、上海経由で長沙へ。

「無」その1 遺跡が無い
明けて23日の目的地は益陽。ここは、かの有名な「関羽単刀赴会」の舞台である。215年、呉・蜀の荊州争奪戦では、当地を舞台に両軍のにらみ合いがおこったため、関連遺跡も多い、との触れ込みである。また、ここには「甘寧岡」なる名所もあり、にとっては垂涎の場所であった。今回のシリーズ、ここがメインといっても過言ではない。
長距離バスで市のはずれに着くと、まずは古文化街へ。このあたりに、三国武将像を20体ほど並べたストリートを計画中、という情報があったのでそこはかとなく期待しつつ捜索。あっさり無し。その代わり、「諸葛井」なる孔明関連の井戸発見!もともとは、市内の別の場所にあったようであるが、移設されたとこのこと。予想外の発見に士気上昇、次は川辺にあるという「魯粛堤」をめざす。
地図にも位置は明記されているのだが、碑などがなく、なんだかよくわからず。手当たり次第に写真撮影をおこない、記録上は「到達」「確認」として処理した。…が、何だこの空虚な感触は?
そのまま川べりの土手を歩き、いよいよメインである「関羽単刀赴会処」「甘寧岡」を目指す。川の対岸、橋を渡ったところに、ふたつ隣接してあるはずだ。地図にも場所が明記されている。また、手持ちの資料には「単刀赴会処」の草庵の写真もある。この勝負もらった!
30分ほど徒歩。対岸からとりあえず写真を撮る。対岸の様子は、工事をしていたり、砂利の山があったりと、あまりピンと来ないが、まあ、大丈夫でしょ。が「NUNOさん情報によると、無いらしい」「あまり期待できない」とか言っているが、馬鹿な話だ。地図に書いてある、写真もあるのだから没問題!黙って俺について来い!!
そうこうする間に、橋を渡り、現場へ到着。砂の山と、「斗魁塔」なる塔がある。以上。現場は…工事現場、だった。
なんだこりゃ?手元の資料の写真によると、林のようなところに、風情のある草庵があるはずだ。…って、林なんかどこにもねぇよ!!工事用の砂山ばっかりだ!
:「君は、騙されたんだよ。その資料の写真は、ガセネタだ。中国ではよくある事さ。」
記録上は、「現場到達」。収穫は、なにも無い。
体に重いものを感じつつ、「甘寧岡」へと転進。
:「NUNOさん情報によると、ここにも何も…」
皆まで言うな!黙って歩け!……とはいえ、ここまでの感触から、今後の展開は想像に難くない。事前情報によると、「甘寧岡」は現在中学校になっているとのこと。明らかに、望み薄であるが、行く事に意義がある!せめて岡になっていれば、それで充分。往時に思いを巡らせる何かが見出せれば、それで満足だ…。
そんなこんなで、到着。学校確認。記録上、「到達」にて処理。まっさらな平地…ジャージ姿の人民中学生がわさわさと下校…雰囲気を味わおうなんて、到底不可能だ。いや、心に夢見た「聖地」のイメージを守りたいのなら、むしろここへ来るべきではなかった。

帰り道、「遺跡捜索なんてこんなものさ」「事前情報どおりだ」と妙に饒舌に語る。慰めているというよりは、いたぶって楽しんでるだろ貴様!!

本日の結果を発表します。記録上は、「完全勝利」! 遺跡「無し」!!
ここは、甘寧ファンの約束の地ではなかった…。心に吹きすさぶ隙間風…。

「無」その2 補給が無い
湖南料理といえば、中国通の間では「激辛」で有名。実はグルメの、「めくるめく湖南料理ワールド」を満喫すべく、事前にめぼしい料理名や特徴について完璧に調査をおこなっていた。
本日24日は、クリスマスイブ。女性ゲストの「ろしゅっく」氏(以下、「魯」と表記します)も参戦するし、華やかに湖南料理を満喫だ!
―――あえて、結論から言わせてもらう。私は、間違っていた。
さて、宿泊先のホテルのロビーにて魯さんと合流。長沙の鉄道駅へ。
目的地・耒陽へのおよそ3時間、切符は「無座」。
今回、この列車が無座になったいきさつを、事前のメールでのやり取りにてご紹介しよう。

魯:「長沙から耒陽の列車は、9時過ぎ出発でいかがでしょうか?長沙始発なので、席が確保できます。」
:「その列車では、現地到着が昼過ぎになってしまいます。このタイムロスは如何なものかと?無座覚悟でも、早い時間の列車でお願いできないでしょうか?」
:「丁度、8時頃にお薦め無座があります。これで、どうかお願いします。私は遺跡捜索に命を懸けているのです。」
魯:「……。よいぞ。よいぞ(ってホントはよくねーよ…)」

ゲストがいようとまったく容赦しない。これが、遺跡超人(狂人?)・三劉コンピの大和魂である。

しかし、は全く計画性無しに無座を選択したわけではない。確たる”勝算”があってのことなのだ。
列車の経路や、ランクなどから、の頭脳は「この無座は、座れる!」と確信していたのである。この辺の判断基準は次エピソードにて細かく触れたいと思う。
ところが、他の二人は悲観的であり、

魯:「無座って、基本的に座れないと思う」
:「席などあるわけねえ!むしろ空気イスで気合を人民に見せつけろ!!」

始発列車を希望した魯さんが悲観的なのはわかるが、、おまえ座れない前提で「無座」を推薦してたのかよ?
結局、こともなげに席を確保し、快適に耒陽へ。電車の中で、遺跡談義にひたる。魯さんの遺跡への情熱・情報収集力は感服ものであり、見習わなければと思った。
ちなみに、三劉コンビの遺跡データ収集傾向は…。
:直感的・衝動的。呉偏重。基本的に現地主義のため、詳細まで詰めて調査はしないことが多い。呉関連は現地人民の関心が薄いため、いつも苦戦する。衝動的なため、今回の「湖南料理徹底調査」のように、気まぐれで本題と関係ないものを必死に調べたりする。
:マイナー遺跡・前人未踏系偏重。高難易度ばかり狙う上、到達情報がないため、アプローチに苦戦し、成功率が低下する。そもそも、遺跡を見つけることよりも、遺跡捜索で苦しむことが目的?という噂あり。

さて、耒陽到着後、魯さん宿泊のホテルにチェックインを済ませ、出撃。今回は魯さんの希望に応え、タクシー中心で移動をおこなう。
谷朗碑、張飛像、古県廷、張飛馬槽…と、割合順調に遺跡を落としていく3人。しかし、何か満ち足りないものを感じる。呉の領土なのに、ホウ統・張飛メインの遺跡ばかりだし、楽しみにしていた谷朗(呉の超マイナー武将)碑は、工事中で敷地内に入れなかったし…。時刻は午後2時過ぎ、とりあえず空腹ぐらい満たしたいもの。

…なんだけど、アレレッ??
まったく、食事や休憩の気配がない!魯さん、もしかしてを遺跡超人と誤認して気を使っているのか?と思い、「軽く餃子でもいかがですか?」と持ちかけると…。

魯:「行きたい遺跡はいくらでもあります!食事などしている暇はありません。日没まで、いけるだけすべて行きつくしましょう!!」

―――――驚愕!魯さん、実は「無」補給派だったことが発覚!!

:「わかりました。それでは、魯さんの意志を尊重して、無補給にしましょう」

表面上は平静を装っているが、心中会心の笑みをうかべていることが見え見えの。こうなっては道はただひとつ。本日のメインにして、最高難易度を誇る「谷朗墓」を目指して突撃あるのみ!!…タクシーで。

市郊外30km北というかなり遠い位置である。出発前に、魯さんが飲み物を購入。どうやら水分補給すら忘れて遺跡に没頭していた模様、購入するや控えめにしつつもガブ飲み。

そうだったのか。彼女だって、生身の人間だ。飢えて、渇いて、疲れている。…でも、本当に遺跡が好きなんだ。これが、本物のプロの「遺跡アタッカー」の生き様というものなのか…!!驚きが感動、そして尊敬へと変わっていく。

さて、「谷朗墓」、冗談抜きですごい場所だった。タクシー運転手は道中聞き込みをしつつ進む。知名度は高いようで、大体の人民は存在を知っていた。近づいていく手応えがはっきりと感じられるようになった頃、道がなくなった。
「ここからは、登山だ。」
タクシーを降りて、わけの分からない薮に埋め尽くされた名も無き山を登る。道案内は運転手がスカウトした地元のおばちゃん。子守の途中だったようで、赤ん坊を背負っている。もちろん、道案内をするからといって、役目を放棄するわけではない。赤子を背負ったまま薮漕ぎ登山突入!しばらく登ったところで、登山道が消滅したが、いつものことである。薮を掻き分け進む。
捜索なのか、遭難なのか、騙されてるのか、区別がつかなくなってきたところで、到着したことを告げられる。…??ってか、どれ?
ぐちゃぐちゃの薮のところどころに穴が開いており、よく見ると穴の中に石の柱がある。
谷朗墓“跡地”、到達!!……跡地かよ!!
記念碑?文物保護単位?何を甘っちょろいことを言っているんだい?これぞ、遺跡の中の遺跡!これぞ、超絶マイナー級呉武将・谷朗墓!!

:「すばらしい…」
魯:「感動した…」
:「これぞ、三国遺跡の醍醐味」

口先だけは、感激を口にするメンバーたちだが、明らかに、皆、とまどい、互いの表情を探り合っている。信じ切れてない。ここが谷朗墓だと、確信出来てない。微妙すぎるっ!の本心はこうだ。「やべぇ。なんだこりゃ。どうしても行きたって無理言ってたどり着いたのにこれかよ?呉ファンのオレでもイマイチはじけられん…。そもそも、谷朗?タニ・アキラさんじゃねえか。何者だよ?」

他の二人の本心は推して知るべしってか……?

なんであれ、到達できただけでも相当幸運だったといえるだろう。

この登山捜索により、すっかり時間がなくなったため遺跡捜索終了。あとは宴だ大宴会だ!ついに「完璧湖南料理情報」が役に立つ!
と思いきや、耒陽には研究を生かせるような優良レストランはなく、調べた料理が一品たりともメニューになかった…。

「無」その3 席が無い

さて、耒陽シリーズを終え、魯さんに別れを告げたは、長沙行きの列車に乗り込んだ。今回も、「無座」。朝と同じく、余裕で席とれんじゃないの?…って、甘い。今回の無座はモノが違うのだ。ご紹介しよう。危険な無座の条件はこれだ!

@列車のランクが低い
A停車駅に大都市が少ない、または無い
B乗車する時期が悪い

<解説編>
@人民は基本的に金がない。貧富の差も激しいので、「貧民率」の高さは日本の比ではない。よって、列車番号に「K」(快の頭文字)、「Y」(遊の頭文字)が付くような高級列車や、「新空調」と呼ばれるエアコンつきの列車よりも、安くて遅い低ランクの列車には貧民が圧倒的に群がり危険である。具体的に言うと、「硬座普快」の空調なしはレッドシグナル!
A大都市とか、メジャー路線の場合、比較的安全に利用できる。乗客の人民の生活水準も高いし、大都市が途中駅にあれば、降車する客が多く席を確保しやすいというものだ。弱小駅の場合、止まる列車が一日に数本、目的地への列車であれば一日一本だ。他に選択肢が無いので、人民が集中して乗車してくるという訳だ。
B混む時期は、春節前後の帰省ラッシュや、黄金週(5月1日前後)、国慶節(10月1日前後)など大型連休。逆に、春節期間中はみんな家で正月を楽しんでいるため、列車はガラガラに空いている。

今回、@Aには完全に該当。Bについては、可もなく不可もなくであるが、条件を複数満たしていれば、正直希望は持てない。ホームに入線して来た列車は、案の定人民たちであふれかえっていた。
決定。この無座はリアル無座である。
やっぱり、か………。
予想通り。想定内。わかってた。…でもさ、「覚悟ができている」ことと「辛くない」ことは同じじゃないから!!助けてくれ!何とかしてくれ!
と、暗い気分を味わっている暇は無い。他の無座人民と縄張り争いをして比較的落ち着く場所を確保する、これがさしあたって重要だ。車両連結部の角に場所をキープ。

と、そこへ、「イス売り」登場!なんと列車の乗務員が、プラスチック製のイスを売りにきたのである。ちくしょうめ、なんという足元を見た商売であることかっ!
…。負けた!買った!!
5元と6元の2種類があったが、5元のイスを二人とも購入。1元の差でも、安いほうがいいじゃない?
というわけで、イスGETにより、無座じゃなくなりました。めでたしめでたし。

―――なんて、甘くはありません。中国ですから、ここは。
おもちゃみたいなイスなので、ちょっと座るともう腰が痛い。足が痺れる。気休め程度の効果しかない感じである。しかも、のイスは不良品で、わずか30分で破壊された。体重50キロそこそこのが座っているのに、だ。
やはり、5元のイスはだめか。6元のにすればもう少しマシだったな。…なんで、1元とかケチったの?月収の1万分の1以下だぞ。アホか、俺らは??
クリスマスイブの晩、人民まみれで地べたにしゃがみこんで過ごす無座の夜。人民サンタからのプレゼントは壊れかけのイス…。
3時間半、それは、決して長い時間ではないはずだ。冷静に、落ち着いてカウントダウンしていこうではないか。…1時間経過、残り2時間半。2時間経過、残り1時間半。列車が遅れていることに気がついた。残り時間、2時間からやり直し。
どうして時間が後ろに戻るんだぁ―――――!!!!
無座ってる時間なんか延長したくねぇ―――――――!!

そんなこんなで、気力体力の衰えを痛感した、今回の無座でありました。ちなみに魯さんは「今回の耒陽行きで、今までの否定的だった無座観が変わった」とのことで、その後調子に乗ってもう一回無座使ったら案の定「リアル無座」をくらって醍醐味を泣くほど味わう破目になったようです…。合掌。

三劉泰山ダッシュ祭り

谷朗の人物紹介で、宦官と官宦(官吏)を間違えた。横造(でっちあげ)の罪は重い。三劉管理人の官職を剥奪され、李厳のように庶民に落ち、横造先生として暗いネット生活を過ごしていた。
も事件に連座し、本来のハンドルネームを自粛。「わた横造」「サル横造」と化した二人・・・。そんなに、訪れた汚名挽回のチャンス。それこそが、「泰山2時間ダッシュ登り」計画である。
通常、道沿いの見所を観覧しながら4〜5時間かかる行程を2時間で登り切る。この荒業を成し遂げれば、十分に恥辱を雪ぎ、管理人として復帰することができる、そう、そのはずだ。
こうしては9月16日を決行日に設定し、それぞれ鍛錬に励んだ・・・はず、だった。

当日、3:10スタート。選手は、および友人のチュウ太郎の3名。チュウ太郎とは何者か?彼は、特に理由は無いけど強制参加させられた、オプション選手である。彼の役割は、の猛ダッシュにより置き去りにされる一般人。ようするにのダッシュぶりのすごさを見せつける為の引立役であり、「のダッシュは神懸かりだった・・・」と伝説を語り継がせる生き証人である。

そんな人物まで仕込んでいるのだから、勿論目標達成の自信度は120%というわけだ。

スタート早々、初の泰山、中国語のできないチュウ太郎を置去りにして、快調なペースで登っていく。始めのうちは、傾斜もゆるく、階段もきつくない。今のうちにハイペースで飛ばして、後半・特に最後の通称「心臓破りの石段」・十八盤までにマージンを稼いでおきたいところだ。
5分経過。余裕。
10分経過。順調。
15分経過。ちょっと、息が切れてきた。
20分経過。激しく息切れ。やばい。もうバテた?
並走しているをみると、息ひとつ乱れていない。どころか、にあわせてペースを落としている、といった気配を感じる。体力に相当開きがありそうだ・・・。と不安になりだす。
25分経過。激しい発汗、目がくらむ。から「水を飲め」とアドバイスを受ける。マラソンランナーみたいに、歩きながら水分補給。このあたりから道の傾斜が険しくなってくる。
30分経過。ペースダウンしていることが自覚できる。誤魔化しようが無い。バテてる。こうなったら気合だ!気力で登れ!
35分経過。気力すら、尽きてきた。・・・いや、尽きるの早すぎ。よ、お前はこの程度か?
40分経過。唐突に、足が動かなくなった。その場に、崩れ落ちた。すぐ前を歩いていたが視界から遠ざかり、消えた。

俺の泰山は、終わった。

へたり込んでいることしばし、チュウ太郎に追いつかれる。彼は、マイペースで歩行していたため、余力十分だ。一緒に登ろうとしたが、ついて行けない。

すこし登ると、異変に気がついたが待っていた。中間地点である、「中天門」まで一緒に登る。というより、ペースについていけないので、思いっきり待たせながらの登りである。完全な「足手まとい」、「お荷物」と化している。恥ずかしいこと極まりない。

1時間15分経過、中天門到着。10分で行けるところを、35分消費した。リタイアを宣言、ここからロープウェイにて目的地の南天門に行くことにする。、チュウ太郎は試合続行との事で、ここで解散。

脱落者。落伍者。背信行為・・・。大風呂敷、ハッタリ、口先だけのクズ人間・・・。独り黄昏れ、乗るロープウェイの寒いことといったら・・・。

というわけで、結果発表。

  : 前半 1:15 後半 0:53 合計 2:08 敗北
     後半の猛烈な追い上げ届かず。前半、を見捨てていれば楽勝だったはず。
チュウ: 前半 1:15 後半 1:05 合計 2:20 完走
     最後までマイペースで完走を果たした。天晴れ。
  : 前半 1:15 リタイア
     前半のオーバーペースで玉砕。人生に消えない汚点を残した。

吹牛(中国語でハッタリをかますという意味)。横造吹牛。私の名前は、サル横造吹牛・・・・・・。三劉管理人が、とんでもない雑魚だったことは、生き証人であるチュウ太郎氏によって伝説として語り継がれることであろう。


目指せ総管廟!丁奉遺跡捜索強行軍

泰山での敗北のため、サル横造の汚名を返上できなかった。ショックと疲労で士気は今ひとつであるが、まだここで終わるわけにはいかない。まだ、果たすべき使命がある。それこそが、「江表の総管」丁奉関連遺跡へのアタックである。
曹植墓見学後の日曜日夕方、済南にてと解散。この後はチュウ太郎と二人でのアタックである。チュウ太郎は中国語が話せないため、成果はの力量次第である。落込んでいる場合ではない!
まずは、長距離バスでの移動である。
現在位置: 山東省済南  → 目的地: 安徽省宣城市

…遠いんですよ、これが。
正直、丁奉のために無理やり行くことにしているわけで、普通こんな移動はしない。
バスのほうも、済南→合肥(安徽省省都)→宣城 と、乗り継ぎが必要である。最初のバスは18時に済南発で、合肥経由、南昌行きの高速寝台バス。「経由」に一抹の不安を覚える。
乗車後、車掌に聞いてみたら…。
車掌:「合肥では、高速道路沿いで下車してもらうから。」
要するにそれは、「訳わからん所で深夜にバスから放り出される」ってことですね?死に…ますね??
そんなこんなでバス発車。バスは海外車種の大型高級車両で、寝台もなかなか快適である。しかし、出発一時間そこらで異常発生!“ピー、ピー、ピー…”と警告音が車内に響きわたる。ライトがぶっ壊れたとのこと。高速道路脇にバスがビバーク、修理開始。やっぱり壊れたか…悲しいかな、これこそが人民クオリティ。幸い軽症だったようで、1時間ほどで復旧した。
その後はお約束で不味いレストランに連行され、夕食。真夜中の2時半ごろ、「合肥に着いた」とのことで、バスを降りる。高速道路の料金所付近である。あとでわかったのだが、飛行場付近で、かなり市内から遠い場所であった。
こんなところに長居は無用と、早速市内までの交通手段を探す。といっても、タクシー以外に方法はない。タクシーは…と捜すまでもなく、運転手が売込みをかけてきた。ぼったくりを避けるための鉄則は、「客引きは無視せよ」であるが、状況が状況だけに、贅沢は言えない。売込みを受入れ、市内まで120元で妥結。しかし、日本人ということが発覚すると、途端にぼったくりモードに変化するかもしれない。チュウ太郎に「一言もしゃべるな」と指示を出し、青島から来た人民旅行者として振舞うことにした。出発前にトイレに行って帰ってくると、運転手から「安くしてやるからほかの客を相乗りさせたい」と持ちかけられる。料金が120元→110元になった。こちらとしても、ほかの客がいた方がぼったくりの危険性が減るので歓迎である。よかったよかった。と喜んでいるうちに、相乗り客登場。4人いる。
…って多くないですか?人数。普通のタクシーなので、客は4人までが普通なのだが…。
運転手「…てなわけで。ちょっと詰めておくれよ」
助手席に、とチュウ太郎2名無理やり乗り込むことになった!!むぎゅー!せ、狭いよさすがに!足がギアに触れそうなため、少し浮かせ気味にしておかなくてはならなくなった。…これではまるで、体育会系シゴキ「空気イス」状態ではないかっ!しかもチュウと密着ギュウ詰め状態。後部座席は相乗り組4名が占拠したが、こちらも狭そうである。まあとにかく、無事市内に着いてくれと祈りながら、タクシー発車。深夜4時ごろ、合肥市内の長距離バスターミナルに到着した。
結局、料金的にはぼったくり回避できたものの、乗り心地的にはかなり最悪であった。得をしたのは客を詰め込んでたっぷり料金稼いだ運転手、見事な一人勝ちである。したたかなり、人民。
さて、到着した長距離バスターミナルだが、時間が早すぎるためまだ開門していない。仕方がないので、他の人民とともに入口に座り込み、夜がふけるのを待つ。難民気分である。
5時半ごろ、ようやく開門。宣城行きの切符を購入。7時発。思ったよりも快調に走り、9時15分頃に宣城に到着。当日中に上海に移動したいため、上海行きのバスを確認する。ネット上での時刻表では、14:40のバスがあるはずだ。
ところが、窓口へ行くと「10時、12時、13時のバスしかない」と言われる。最終13時?…ってことはあと3時間半しか時間がないということだ。13時の切符を購入。
さて、丁奉関連遺跡・「総管廟」他は、市郊外の水陽鎮というところにある。距離はおよそ40キロ。郊外バスを使って行ったのでは間合わない。ここは、迷わずタクシーである。うー、今回タクシー多いなあ…。
バスターミナル付近にたむろしている運転手たちに声をかけ、「水陽鎮」の「総管廟」に行きたい、と説明する。誰も知らないようで、きょとんとしている。やはりマイナーな存在だったか…。とりあえず「水陽鎮」まで行ってもらい、現地で聞き込みすることにした。料金は片道で80元、現地で苦戦した場合は割増という話になった。
そんなわけで、いざスタート!
さて、中国のタクシーは、運転手が日本以上によく話しかけてくる。そして、かならず聞かれるのが「出身地」。合肥では日本人であることを隠したが、今回はじっくり遺跡捜索もする長丁場が予想される。チュウ太郎もいるし、中国人のふりをしとおすことは難しいだろう。素直に「出身は日本」であると回答した。
「……ま、まじかよ??」運転手にとってビックサプライズだった模様。もちろん、ここから話題は日本一色になる。発展の状況や、経済関連の話をひとしきりしたあと、お約束の「政治の時間」に突入。小泉首相(当時)の終戦記念日靖国参拝について。相手を怒らせないように誠実に回答していくしかない。今回は、うまくいったようで、運転手がに好意的になってきた感触がある。
ところで、水陽鎮までの道のりであるが、郊外の郷鎮の宿命で非常に道が悪い。舗装工事中であり、土道やら砂利道やら片側通行やら…で、40キロの道のりを1時間半かかって水陽鎮到着。これは完全に予想外で、時刻は10時50分。これだと、13時の上海行きのバスに乗るためには11時半前には撤収を開始しなければならない計算になる。とてつもなく苦しい。
さて、目的地のうち、「丁奉像」は街中にあり、苦もなく発見。最低限の収穫を得ることができて安堵。時間がないため手早く写真撮影など済ませ、メインである「総管廟」を探す。タクシー運転手もようやくやる気が出てきた模様で、親身になって聞き込みを手伝ってくれた。
手がかりとなる「双豊村」の場所もわかり、知っている人も見つかったが、問題はそこまでの道が工事中で閉鎖されているとのこと。そのため、いったん市外へ出て、反対側の道から大回りをする必要があることがわかった。時刻は11時。「大回り」をすれば、13時の上海行きバスに間に合わなくなることは必至である。どうする?

―――――遺跡超人の辞書に、「退却」の文字など存在しない!!

チュウ太郎に、「バスを逃すことを覚悟で捜索続行」を告げる。さしあたり南京まで移動して、何とか上海へのアプローチを探す、という作戦である。キビシスギル作戦デス…。グチグチ文句を言うかと思いきや、案外あっさり「仕方ないな」と了承が得られた。この潔よさ、諦めに由来するものか?

ずごごごご………。舗装されていない田舎の泥砂利道を突き進む。運転手はポイントポイントで地元人民を捕まえて聞き込みをしていく。今や彼は完全に「チームサル甘寧」のエースドライバーとして驀進している。味方につけられればとことん頼もしい、これこそが中国人民の真骨頂である。このまま一気に栄光のゴールへ!
…というわけで、到着しました。道端に「総管廟」とさりげない案内看板があり、その奥の民家にしか見えない場所の裏手こそが、丁奉遺跡の総本山「総管廟・丁奉記念館」である!!総管廟=丁奉記念館であるが、建物の中は実質完全な廟であった。内部の、緑色の装束に身を包んだ丁奉のご神体に祈りをささげる。嬉しかったのが、廟の脇につい最近建てられた「承淵塔」ができていたこと。細々ではあるが、今も丁奉のために住民たちが寄付を続けているということである。周辺の、のどかな水郷地帯の風景に、日ごろ時間にせかせかと追われている魂が洗われていくような爽快感を感じる。
当地は、三国時代は沼や湿地が広がる不毛の地であったが、丁奉がこの地で屯田をおこない、兵民と苦労ともにして荒地を切り開き、豊穣な穀倉地帯に開発をしたとのこと。視察に訪れた呉帝・孫権は、感激し「君こそは江表の総管である!」と丁奉を激賞した。のちに大将軍・大司馬と立身出世をした丁奉の若き日のエピソードであり、丁奉は当地の「開祖」である。丁奉が信仰されていることからも、これが単なる伝承ではなく、事実であろうことが推測される。

充分に満喫した後、帰途につく。感動ばかりもしてられない。何しろ上海への足がないのだから。とりあえず駄目もとで、長距離バスがないか探してみるか…。タクシーがバスターミナルに到着したのは13時半。わずか半時間。道がよければ…大回りがなければ…。ほんのちょっとした差で逃したと思うと悲しい…。さて、タクシー代金はしめて260元。適正価格である。硬い握手を交わし、別れを告げる。運転手は、上海行きのバスを探すのを手伝ってくれるという。
……あっさりゲット!!
さすが人民!豪腕!!…それにしても、13時が最終って話は何だったの??意味不明。

結局、13時40分のバスで、無事夜の19時には上海に到着することができたのであった。

大・成・功―――!自信回復。名誉回復。我こそは、サル横造吹牛→サル甘寧である!!江表之総管・丁奉承淵に感激感謝!!


呉マニアの執念!行かずには帰れない魯公台

2007-2008年の遺跡捜索も後半戦。前日の元旦に赤壁古戦場・陸遜営をおとずれた一行4名は、翌1月2日は長江対岸の烏林へと降り立っていた。
今回のメンバーはの妻・麗麗、友人・チュウ太郎の4名。前日までのハードな歩き&バスでの強行軍と、イマイチなレベルのホテルでそろそろ疲労が目立ち始めている…。そんな状況である。
赤壁市から洪湖行きのバスにのり、長江を渡ったあたりでバスを下車。時刻は10時少し前。ここから歩きで最初の目的地で、本日の起点となる「烏林塞」を目指す。幹線道路を歩くこと40分ほどで、前情報どおり「ようこそ烏林へ!」といった感じの標識を確認。ここで道をまがり、さらに進む。20分ほどでなんなく「烏林塞」到達。烏林塞とすぐとなりの「曹操廟」を見学。曹操廟には、曹操を中心に魏の名将たちの塑像が飾られている。手元の資料によると「曹仁・張コウ・許チョ・ジュンイク・李典・張遼」とのことだが、地元民によると「徐庶」や「申ナントカ(人民訛りで聞取れず)」の像だという。いったいどっちが正しいの?まあ魏ファンじゃないから何でもいいや。
この後は、外交部長・麗麗のコミュニケーション力が遺憾なく発揮され、烏林地域の人民を見方に付けていく。人民たちの案内を受けて「曹操湾」「万人坑」「紅血巷」「白骨ta」などの遺跡は順調に到達することができた。このあたりの遺跡は、東西南北1キロくらいの距離で散在しているため、あっちこっちへと歩き回りながらの捜索である。そうこうするうちに、時刻は12時過ぎ。本来なら昼食の時間である。
皆:「もう昼だけど、どうするの?」
:「アア?いつもどおりだ。」
皆:「・・・。わかってはいたけどね。」
そこらの空き地にしゃがみこみ、荷物から携帯食を出す。そう、今回は三劉名物・”無補給ダッシュ”旅行なのである。楽しいランチなどない。パン、チートス、OREO…食べているお菓子も毎日ほとんど同じで、飽き飽きうんざり。食べ物に関して全く工夫・情熱が見られないのもならでは。
楽しくない補給(※食事ではないことを強調しておく)行為の後、遺跡捜索を再開。本日アタック予定の遺跡はのこり2箇所、孫権の「呉王廟」&魯粛の「魯公台」である。いままでは魏の遺跡でなんとなく盛り上がらなかったが、お楽しみはこれからだ!…と意気あがるであったが、周りを見渡してみると麗麗は体力切れ、チュウ太郎はもともとやる気無し、頼みのはずのまで「俺の役割は終わった」みたいな表情で、なんか微妙な空気が漂う。こいつはどういうこと?
まずは距離的に近いとされる「魯公台」を探して聞き込み。これは、他の日本人遺跡アタッカー到達情報がなく、難易度が高そうである。数人の人民に聞いてみたが、誰も知らない。結局、到達情報のある呉王廟へ先に行くことになった。距離は5キロくらいという情報だったが、麗麗の体力が限界に達していたためタクシー。「料金所をまたぐ」とかで代金を吹っかけられ、交渉したが結局20元とかなりの高額になった。ズビュンと飛ばして呉王廟にあっさり到達。

見学を済ませ、時刻は午後1時半。一同に流れる“終戦”の空気。あれ?まだ「魯公台」が残ってますけど?
:「魯公台は到達情報もないし、あるか微妙だな。どうする?」
麗麗:「誰一人として知らなかったということは・・・。」
チュウ太郎:「武漢いってマック行きてぇ!100%ジュース飲みてぇ!」

撤収やむなし、の声続出。・・・大勢には抗えないか?

:「皆疲れてるし、残念だけど今日はひきあげようか?」
麗麗:「本当?やったー!!」
チュウ太郎:「賛成!高級ホテル直行希望!」

メンバーからこの日一番の笑顔があふれ出す。オイオイ、笑顔に相応しい場面はここじゃないだろ?
なんとなく煮え切らない思いで、最後にもう一度だけ資料を眺めてみた。すると…。
“「曹操湾」「万人坑」「紅血巷」「白骨ta」「魯公台」等はすべて、1.5m高、80cm幅の石碑がある。”
中国語の資料の片隅に、いままで見逃していた決定的記述があるではないかっ!!資料に書いてある「魯公台」以外の石碑はすべて確認した。―――「魯公台」も間違いなくある。あるんだ。
:「おっおおお――――っ!」
くすぶっていた、超絶呉マニアの“遺跡魂”に着火!!
:「呉ファンとして、行かずに帰れるか!捜索、続行するぞ!!」
まさかの180度方針転換案発動!
麗麗&チュウ太郎:「えぇっ…そんな殺生な…。」
悲痛な声が漏れる。助けを求めるようにに視線を向ける二人。ここでが続行に反対すれば多数決で撤退決定だ。どうする?
:「じゃあ行きますか、どうせ帰り道だし。」
やはり、完璧遺跡超人の辞書に、撤退の文字などなかった。かくして、捜索続行となった。しかも…
:「さっきのタクシー20元は高い。聞き込みしながら捜索したほうがいいし、歩くぞ。」
麗麗&チュウ太郎:「…。」(絶望でもう声にもならない)

まずは料金所付近まで歩いて戻る。麗麗&チュウ太郎が後ろで愚痴っている。
「遺跡興味ないけど無理やり連れて来られた」
「拉致されたようなもの」
被害者の会、設立!…っては“北”の工作員かっ??
料金所まではきっちり5キロ1時間。ここから聞き込み開始。相変わらず、誰も知らない。情報なし。被害者の会からの“さっさと諦めろ”的な怨念のオーラを無視し、あてずっぽうで幹線道路から集落のほうへ入り込む。
手ががりがつかめないまま、分かれ道に出た。直進か、曲がるか。
「曲がってみるか?」
念のため付近でたむろしている人民に聞き込み。
:「魯公台はどこでしょうか?」
人民A:「魯公台?誰か知ってるか?」
人民B:「魯公台なら知ってるぞ!」
……ついに情報を持っている人民にめぐり合った!
人民たちの中で唯一情報を知っているというじっちゃんは親切なことに、地名・道のり・すぐ近くにある「安子廟」なる目印などを網羅した地図を描いてくれた。これで何とかなりそうだ!ということで道を直進。1.5キロくらい直進後、黄逢という地名まできたら大きな橋の前で道を曲がるという話である。
もう十分なくらい進むと、地名が黄逢になる。そろそろか?どこの曲がり角をまがるか、がポイントとなるが、これがよくわからない。進みつつ聞き込みするが、「魯公台」を知っている人民が何故か全くいない。通常、順調に接近している場合は知っている人民がどんどん増えていくはずなのだが…。手ごたえが全く感じられず、不安がよぎる。とりあえず目印の「安子廟」は人民も知っているので、こちらを目指して進んでいく。
橋のすぐ手前くらいにある曲がり角を曲がり、しばらく奥へ進むと田園地帯に入り、道がなくなる。しばらく畦道を突き進むと「安子廟」に到着した。
管理人の人民ばあちゃんに「魯公台」を尋ねる。
ばあちゃん:「没有!」
えっ?そんなはずないだろ?
ばあちゃん:「没有没有没有没有没有!」
そんな馬鹿な!すぐ近くのはずなのに!“この廟の近く”という以外に手がかりないんだぞ!どうすんだ?

:「おい、どう…」
:「させるかぁ――――――――――――!!!」

遂に炸裂・完璧遺跡超人の猛ダッシュ!問答無用、すごい勢いで周辺の田畑を走り回り、しらみつぶしにそこいらの石碑を探しまくっている。そうだ、もはや理屈じゃないんだ。気合なんだ。ダッシュなんだ。そうに違いない。
一帯は田畑の脇に人民の墓碑が点在し、非常に紛らわしい。ひとつ確認してはまたダッシュを繰り返す。すでには遥かに先行しており視界の外だ。こっちはもう息が上がってきた。チュウ太郎は後方をトボトボ歩いているし、麗麗にいたっては立ち尽くしてついてすらこない。クライマックスなのにこの4人組、チームとしてのまとまりは皆無である。

:「発見!!!!!」

唐突にの叫び声が響き渡った。あった!あったんだ!!最後の力を振り絞って渾身のダッシュ。もう見つかったんだから、あわてること無いのにダッシュ。
:「魯粛――!魯粛―――!!!」
気が狂ってる。この光景を見た人民がいたら、そう思ったかどうだかよく分からんが、とにかく、そして遂に我々は「魯公台」に辿り着いたのだ!!

視界に飛び込んだ「魯公台」遺跡は、見事なまでに石碑ただ一つ!!!

石ころ一つかよ!でも…そんなの関係ねぇ!これが遺跡捜索の醍醐味そのものなのだっ!!!!


三国志学会七転八倒記 〜遥かなり、学問の道〜

かんぺきんぐ遺跡超人…。無補給ダッシュ…。超絶呉マニア…。気合と狂気で活動してきた三劉コンビに欠けていたもの、それは「知性」である。
そんな我々に、唐突に訪れた「インテリ」へ変身する機会。それが、「三国志学会での研究発表」であった。

三国志学会の諸葛丞相こと、渡邉義浩先生に、HP三劉が目に留まったようで、学会での発表を依頼されたのである。

:「発表って、何はなすんだよ。」
:「遺跡!遺跡に決まってんだろ、まかしとけ!」

言葉の意味はよくわからんが、とにかくOKしとくよ!ってくらいの軽い気持ちで依頼を承諾。

:「発表まではかなり期間があるし、まあいいか。特に問題ないだろう。」

ということで、承諾したものの、しばらく学会のことは意識から消えたのであった。

6月。先生より、おおまかな公演の内容について照会を受けた。
それじゃ、少し考えて見ますか。ということで、6月8日にざっと打合せを実施。おおまかなガイドラインを確定させた。
次回打合せまでに、各自執筆活動に入ること。で、近づいて来たらネタ合わせしよう。…という話になる。
このあたりまでは、特段、準備として問題はなかったと思う。問題はこのあとである。

:「が執筆してくれるだろうから、ゆっくり北京オリンピック観戦に興じるとするか。加油!」
:「まさか俺が執筆するなんて期待はしていないだろう。ってことはが執筆を進めてくれているってことだ。責任者はあいつだし。果報は寝て待て。剋目して寝て待つとするか。」
:「哈哈大笑!哈哈大笑!」

夏は過ぎ去り、9月。

東海道踏破を目論むは、計画が名古屋地区にさしかかっていたため、名古屋の宅に宿泊することにした。「ついで」に、学会の相談もしておこう、位の気持ちである。
6月から、特になにもしていなかったため、手ぶらで出発。費用節約のため青春18切符を利用、9時間にわたる鈍行の旅を経て夕方に名古屋で合流。世界の山ちゃんで手羽先を食らう。
…って、まるっきり学生じゃん。「知性」の強化はどうなった?

宅へ到着し、ネタ合わせ開始。孔明と周ユであれば、お互いの手の内に「火」の文字が記され、快哉をあげるところである。
お互いの手の内は…?
「!」―――なんと、まったく同じである。手の内には何も記されていない。要するに、二人ともな―――んも準備なんかしとらんかったということである。

さすがに、やばいだろ。

東海道旅行が、合宿に変わった。
ハンドルネームならともかく、「実名」で発表するのだ。知性を見せ付ける計画のはずが、このままでは社会的信頼を失ってしまう。

写真を多用したプレゼンテーション資料を作ることにしたが、MS PPT(パワーポイント)をもっていない。まあ、一般的にWordやExcelは個人で使ってもPPTはないだろうってことだ。もちろん、「購入する」なんて選択肢は無い。
そこでOPEN OFFICEなるフリーソフトをインストール。一応、拡張子.PPTでファイル作成と保存ができる。
ようやく作業環境が整ったので、集中して資料作りに励む。
「さ、先が見えん…。」
夜中1時過ぎに、力尽きたので就寝。
翌朝も徹底的に資料作成。一歩も外へ出ることすらない、缶詰状態。締切の厳しさを実感。唯一外へ出たのは夜、回転すし屋へ行った時のみ。
「終わらん…。」
完成度80%くらいで、力尽きて就寝。合宿での追込みでは不足。のこり1週間。
追加・調整・仕上げは。レジュメはの分担にて、解散。

崖っぷちで目覚めた二人は、会社で疲れた体に鞭打って必死に資料をまとめた。
前日の土曜日、宿題を持ち寄りリハーサル実施。何度も練習しながら、スライドの順番、話し方、話し手など微調整を重ねていく。真面目である。本気である。…やれば、できるんだ。何故、「計画的」にやらないのか。とっぷりと日も暮れた18:30。ついに、完成した。

フリーソフトで作った、PPTファイルは本家のMS PPTでは著しく表示がずれることがわかったため、のパソコンを持込で、現地のプロジェクタにつないで発表をおこなうことにした。

当日、9時半ごろ会場である大東文化大学に到着。ブルって逃げ出すかと思いきや、二人ともちゃんと待ち合わせにやってきた。その表情には、昨日までの修羅場をくぐり抜けたという自信が漲っている。

会場に到着。セッティング確認をする。
動作は良好で、モニタースクリーンに我々の力作が踊る。完璧…、“かんぺきんぐ”だよ、君!
まだ発表まで2時間ほどあるため、いったん電源を落とす
:「つけっ放しの方がいいんじゃないの?始まるときに急にパソコン起動するとばたばたするし」
:「おお、そうか。じゃあもう一回電源入れてっと…。」

事件は、ここで起こった。

しーん。

:「あれ?電源が?」カチカチッ。

しーん。

:「れれ?つかないよ?電源。さっき大丈夫だったのに?」

しー――――ん。

:「何が…起きたんだ??」

パソコンの電源が入らない。何故だ、どうしてだ??
とともにパソコンを調べる。電源ということで、バッテリーが怪しい。何度か抜いたりさしたりを試みるが、駄目。パソコンが…背信?まさかの…敵前逃亡?機械は裏切らないはずじゃないのか??頼む、頼むから、動いてくれ。

カチャカチャ、ユサユサ。 ・・・し―――ん。

だめだ、動かん!わからん!こうなったら叩け!叩けば治る!

ガン、ガン、ガツン。

…こりゃ、違うな。物理的に破壊したら、電源どころか、中のデータが死んでしまう。このパソコンはあきらめて、別のマシンを使うしかない。
:「よ、1号機は駄目だ。君の2号機をスタンバイしてくれ。」
:「2号機?んなもん、もってきてねーよ。」
:「ー――なんだとぉ?」
のやつ、昨日使用したノートパソコンを現場へ持ってきていなかったのだ。普通“念のため”持ってくるだろ?なんという危機管理能力の欠如。
いよいよもって大ピンチ。

データだけは、持参したメモリスティックに入っていたので、パソコンさえ確保すればなんとかなるはず。援軍を求めることとした。
:「丞相!危急存亡の秋を迎えました!パソコン貸してください!」
渡邉:「そうですか。それでは、私のを使ってください(この忙しいのに何なんだこいつら…)」

渡邉先生からノートパソコンを借用。しかし、プレゼン用PPTファイルをフリーソフトOpenofficeで作成したことが仇となり、ソフトがないとファイルがまともに使えない。インターネット経由で、ダウンロードを敢行。借りたパソコンを土足で踏み荒らす行為であるが、背に腹は替えられない。
だが…、遅い!会場のネット環境が貧弱のため、いつまでたってもダウンロードが終わる見込みがない。
そうこうする間に、ついに学会開始の時間が来た。
トップバッターの公演が始まる。
我々は2番目、残された時間は1時間。
渡邉:「私の研究室へ移動しましょう。そこなら高速のネットワーク環境が整っています」

3人で、研究室へ急行。
:「いやあ、なかなかのサプライズ展開ですなぁ。盛り上がってきた?」
:「たわけが!こういう盛り上げ方ははいらねえんだよ!」
いえた分際か!お前がパソコン持って来ていれば問題なかったんだろ。

渡邉先生の研究室は、三国志のポスターやグッズ満載のすばらしい空間であった。
慌しくソフトをダウンロード、インストールを行う。
なんとか間に合った…。無事プレゼン用PPTファイルが使用できるようになった。

発表までのこり20分ほどあるが、会場へ移動。詩に関連する内容であったが、質問コーナーでは、尖った質問や批評?に近いものが飛び出し、会場は緊迫した空気となっている。中には、質問じゃなくて明らかに「反対意見」だろ?という内容のものもあり、学会慣れしていないは心底震えだしていた・・・。
「学会って意外と殺伐としてんだな…」
「真剣勝負ってことだろ。落着け!自信を持て!この会場で一番遺跡に詳しいのは自分たちだと!」

そんなこんで発表開始。
あまり公式の舞台で発表した経験のなかったであるが、これまでに様々な苦難を乗り越えてきたため開き直っており、発表時は緊張することもなくスムーズに話をすることができた。問題は質問コーナーである。
「サクラ仕込んでおけばよかったな・・・。」
身構えるも、意外と厳しい質問はなく、和やかに質問タイムも進んだ。

発表は、無事に終わった……。

安堵と共に、猛烈な疲労感がを襲う。燃え尽きた。
本来はその後の発表も聞いていこうと思っていたのだが、精根尽き果てたため、そのまま撤収。
帰りがけに動かなくなったパソコンをヨドバシカメラへ持込む。修理を依頼すると最低2万円かかることがわかり、取りあえず、自宅へ持ち帰り復旧を試みる。

カチャカチャ、ユサユサ。 ・・・ピコ――ン!!

ものの2分でパソコン復活!!貴様…死んだフリだったのか…

何はともあれ、これにて一件落着。ただし、が「知性」を示すことができたかについては大いに疑問である…。


TVで輝け!遺跡超人vs人形迷人(NHK BS2・熱中夜話出演報告)

ついこの間「三国志学会」で研究者界?デビューを果たしたに、今度はTV番組出演の依頼が飛び込んだ。NHKBSで放送のテーマごとにファンを集めて語り合う「熱中夜話」という番組で、「三国志」を話題にした収録があるという。
基本的に、「頼まれたら断らない」(※期待に応えられるかは別問題)がモットーである、深く考えることなく承諾した。

<準備編>
:「TV出て、何はなすんだよ。」
:「遺跡!遺跡に決まってんだろ、まかしとけ!」
と、言いつつ“遺跡より甘寧”を語るつもり満々であったの携帯に電話が。なんと「熱中夜話」製作スタッフのM氏からである。「事前に取材をしたい」とのことであったので承諾。会社帰り、の最寄り駅にて待ち合わせし、しばし話をする。
:「甘寧ファンです!甘寧語ります!!」
M:「いや今回、蜀ナイト・魏ナイトはありますけど呉はないですから」
:「ぐふっ!…それなら、遺跡語ります!大陸最高!石碑一つに無補給ダッシュ!!」
M:「すみませんが、遺跡紹介は“三国志男”さくら剛さんに依頼済みです。」
(・・・あぁ?どうしろっていうんだ?これじゃ全然出る幕ないじゃん?)

M:「サルさんには“武将人形”を持参して番組内で紹介していただきたいのですが」
:「それは素晴らしい!是非お願いいたします!」
M:「数が多いほうが見栄えがしますので、出来るだけたくさん持ってきてください」
:「合点承知!!」

という訳で、武将人形達を出陣させることになった。改めて、部屋の各所に転がる人形達をかき集めてチェックをしてみた。
:「な、なんてこったい…」
あまりにも適当でぞんざいな扱いをしていたため、人形たちはどれも埃をかぶり、武器やら鎧やら冠やら破損が著しい。劉備→破損。曹操→半壊。孫権→行方不明・・・。どいつもこいつも駄目だっ!!こんなむごたらしい姿の人形達をお茶の間に届けるなど、とんでもないの一言である。

―――やるしか、ない。この“灰かぶり”人形達に魔法をかけて、シンデレラに仕立て上げるしかない。

筆・絵の具・粘土・水・ちり紙・雑巾・妻楊枝。魔法の七つ道具を駆使し、埃を払い、欠けた部品を補修し、きれいに拭いて、輝きを取り戻させていく。行方不明の孫権・魯粛人形は新作を作った。甘寧、丁奉人形も破損を直した(呉のファンとは思えない惨状)。魔法なんてない。地道に、一つづつ、一週間ぶっ通しでがむしゃらに修復した。
結果、110体の人形が蘇った。なんとかなりそう。

当日、人形を箱につめ、名古屋から長距離バスで上京したと合流し、タクシーでNHKへ。(今回、基本的に交通費は支給されないのだが、人形持参のため特別にタクシー代を負担してもらえることになっている。)

昼1時くらいから、収録スタート。

※収録は、国別・武将別に語りたい内容をあらかじめテロップに書き、これをベースにトークが進んでいくという形であった。

<収録編>
まずは、1本目、蜀・劉備ナイトの収録である。
劉備から。・・・早速遺跡超人・が指名された!
:「劉備タダ飯黄金伝説」
※解説……民間伝承で、貧乏な劉備が袋につめた土が義兄弟パワーで黄金に変化するというぶっ飛んだ話(詳しくはこちら
(…攻めすぎだろ、超人。)
その後は、とも指名されることがなく、第1回収録完了。
テロップを出してもなかなか指名してもらえず、意外と競争率が高いという印象。もっと語れるのかと思っていたが。
時間は優に3時間経過。これが3本なので、けっこうスタミナ勝負の気配である。

30分の休憩の後、2本目、魏・曹操ナイト収録開始。
しばらくは淡々と進む。依然として、テロップを出しても全く指名されない。退屈になってきた。

張遼のところで指名。久しぶりの登場機会到来!いやもとい、遼来来!
:「スワンボートで行く張遼衣冠塚」
※解説……合肥にある張遼衣冠塚は湖の中にある小島にあり、到達にはスワンボートのレンタルが必要というぶっ飛んだ話。
(…またしても、攻めすぎだろ、超人。)

それにしても、撮影開始からはや5時間以上、さすがに座ったまま沈黙では退屈極まりない。
そろそろ出番が欲しいところだ。

郭嘉のところで、挙手。初指名を獲得!
:「曹操と袁紹の比較論」
※解説……官渡の戦いでの曹操と袁紹の10項目の比較分析。郭嘉はすべてにおいて曹操が勝ると分析し勇気付けた。
:(サルのやつ、優等生を装いおって…。)

第2回収録完了。時間は午後6時を回り、疲れが見えてきた。
番組から支給された弁当で腹ごしらえをし、最後の3本目に挑む。
ここでは、”迷人”の武将人形が紹介される予定であるので、張り切って挑みたいところだ。

うっ…。ね、眠いんですけど?
2本収録完了&食事。そりゃあ睡魔の一匹や二匹襲ってきても不思議はなかろう。
さて3本目、周瑜のところで、「音楽に詳しい」という話題になる。
の書いたテロップは「音楽を間違えると周郎が振り向く」。発言のチャンス到来。挙手だ、挙手せよ!
…だが、眠い!!ぼーっとしていてスルー。そのまま話題が変わった。呉ファンとして、許されざる失態。でもさあ、もう夜7時過ぎだよ。会社なら残業時間だよ。しょうがないよ。夜話とはよくいったもんだ。

さて収録の最終盤、いよいよ”迷人”渾身の武将人形の出番である。

意外と、緊張するもんだ。
番組スタッフから繰り出されていた「カンニングペーパー」のテロップ無視!(気づかなかった…)それでもなんとか収録は進行していく。

質問「今後作りたい人形は?」
:「士燮!ベトナムに出撃して墓行く予定です!」
:(…攻めすぎだろ、迷人。優等生の化けの皮がはがれて素にもどってんじゃねーか。)

っと、ここでアクシデント発生!太史慈騎馬人形の足が折れた!
「あっ…壊れちゃいましたね?」気まずそうなスタッフ。
…心配ご無用。もともと壊れてたのを、突貫工事で修理したわけだし。一人だけ、魔法が解けちゃったシンデレラがいた程度のこと、世間じゃよくある話だ。
もちろんこんな事は絶妙なカメラワークと編集により「なかった事」になっている。

3本目の収録が終わったのは夜9時過ぎ。
:「うおお、新幹線まにあわねぇ!ダッシュで撤収!」
慌しく帰っていく。この後、10時の名古屋への最終ひかり号にぎりぎり間に合ったものの無座をくらったとのこと。
一方のはゆっくり人形を片付けると、タクシーでスイッと帰宅。

番組の放送は10月16日、23日、30日の3回。楽しみにしつつテレビの前に陣取る。

<放送編>
<10月16日 劉備ナイト>
一番、わくわくした。が…。
なんか収録の時にはほとんどなかった「人形劇三国志」の映像が全編に渡って使用されている。
そして、ファンたちの発言はカットの嵐!馬超・黄忠・ホウ統オールカット!
とある参加者の集計によると、発言のオンエア率4割未満だったらしい。
:「劉備タダ飯黄金伝説」 → カット。
――まあ、しょうがないわな。…やはり攻めすぎだったな、超人。
収録に参加した立場からは、物足りなさを感じた放送であった。

<10月23日 曹操ナイト>
前回の劉備ナイトで初心者向けの背景説明を済ませていたせいか、けっこういい感じになっている。
し、か、し。
:「スワンボートで行く張遼衣冠塚」 → カット。
…またしても、カット。…やはり攻めすぎだったな、超人。
その一方で。
:「曹操とエンショウの比較論」  → OA。
見事オンエアされました!やりました、ホームページ三劉が足跡刻みました!「優等生」装って正解。

<10月30日 マイフェイバリットナイト>
一番、ドキドキした。会社の皆様には大々的にメールで告知済。

冒頭、人形たちが颯爽と登場。なんと、いい感じじゃないか人形たち。
放送は順調に進んでいく。
「董卓討つべし!董卓討つべし!」
「Mr.ロショク イズ ノット ギルティ!」
ぶっちゃけ、第3回が一番面白い。蜀とか魏とか抜きにして、第1回から延々とこのノリでもよかったのでは?とすら感じるくらいだ。
それであれば、「遺跡超人」のキャラクターも居場所があったかも。

そして、放送35分過ぎ、登場。
:「甘寧人形を作るために武将人形作り始めました!甘寧甘寧!!」
…はずかしくて、見てらんないよ。
生き生きと人形を語る姿が映し出される「迷人」だが…。

質問「今後作りたい人形は?」:「士ショウ!ベトナムに出撃して墓行く予定です!」  → カット。
…やっちまったな、迷人。やはり素で喋ると駄目ってことかい。ってか今回遺跡ネタは鬼門だったか…。

なんであれ、これまでひっそりと作り続けていた武将人形たちに、陽の目を見せる機会をいただけたこと、公共の電波を前にして、「甘寧」への熱い思いを語る機会をいただけたことは感激感謝の一言である。誰だって、例え武将人形だって、たった一度、シンデレラになれてもいいじゃないか。夢のような時間を、ありがとう。

その一方で――――。
:遺跡は語れず、発言は編集で全カット。帰りの新幹線は自腹で無座。なんのために参加したのかわからん。何故こんな悪夢のようなな目に遭わなけりゃならんのだっ!てめーらふざけんな!

遺跡超人vs人形迷人、今回は人形迷人の“一人勝ち”に終わった。しかし二人の戦いはまだまだ続く……。


仙人修行は命懸け!霧の天柱山・左慈煉丹房

08年末〜09年の遺跡捜索旅行も中盤に差し掛かり、は安徽省・潜山県を訪れていた。
当地は、孫策・周ユの妻である江東の二喬の故郷である。本日の目標は、市内の喬公墓、エン脂井、郊外の天柱山風景区にある左慈煉丹房の3箇所。潜山のバスターミナルに9時半ごろ到着し、捜索を開始。
まずは、直線距離が一番近い「エン脂井」を目指す。ここは、二喬姉妹が化粧をした井戸という言い伝えが残っている。購入した地図にばっちりと場所が記されている。まあ、もらったも同然だな。探すこと20分ほど、気がつけば田んぼのど真ん中だったが、農家の脇に発見。見事な枯れ井戸。華やかさの片鱗も、なかったがまあいいさ。幸先よく1箇所到達!
次は、喬公墓にアタック。今回の旅行で初の武将墓であり、の士気が上昇していく。場所は町はずれだが歩ける範囲内である。購入した地図にばっちりと場所が記されているし、これまたもらったも同然だな。
ところが。
??ないぞ?
聞き込みをしても・・・。「知ってる人民がいないぞ?」
地図上のそれらしきゾーンにローカル人民墓地があるが、よくわからない。
市内地図にも載ってるのに無いとか、そんなことって…?昼12時まで聞き込みをしつつ延々と捜索するが、手がかりのひとつも得られず。
まさかの、捜索失敗となった。士気がず―――――――んと低下。

まあ、仕方ない。気を取り直して、本日最後の目的地・天柱山風景区の左慈煉丹房へ目標を切り替えることにする。
観光地化された風景区内だし、写真も確認しているし、これは大丈夫だろう。風景区は郊外7kmくらいの距離ということで、この時点では甘く見ていた。天柱山を、そして、左慈元放を。

まずはバイクタクシーで町外れまで移動。この一角から、天柱山までの車が出ているとの事。バスは無く、ミニバンタクシーに乗る。ひとり25元、ちょっと高くないか?という感じ。
ミニタクは天柱山を目指して快走していく。しばらくすると道が曲りくねった山道となる。気温も心なしか低くなってきた感じで、気付くとあたりには霧が出始めてきており視界が不良である。
「なんか…、とんでもない所に来ちゃったような気がするんですけど?」浅はかさに気付き始めた、しかし、いまさら引っ込みも突かない。疾走することおよそ45分、ミニタクは風景区の入口に到着。
風景区の入場料はなんと90元、高すぎる!しかし、突入するほか道はない。
呑気者のをして、さすがにこの時点ではっきりと悟っていた。天柱山風景区が予想より遥かに広大な「霧の魔界」であることを…。
時刻は13時、登山開始!……登山かよ!風景区は石段が整備され、道ははっきりしているので登山としては安心な部類だろうか。黄山・泰山と似たような整備のしかたか。しかし、大きく違うのがこの霧である。たまたまなのか、それともいつも霧なのかはわからないが、ほとんど視界がない。5メートル先も見えないくらいだ。途中、「左慈が九玄天女から天書をさずかった場所が付近にある」といった、案内板が見られたが、霧で周囲の視界が無いため、把握ができない。わけがわらない。
「さっさとすませて早く帰ろうよ…」が切なる願いである。
階段道は予想以上に険しいが、ハイペースで進んでいく。通常(?)は宿泊して2〜3日滞在するようなのだが、まっぴら御免だ。途中の「一般人向けの見所」は容赦なくスルーし(結局霧で何だかわからんし)、突き進む。1時間以上経過し、ようやく目的の「煉丹湖」の湖畔までたどり着いた。…しかし、すごいネーミングだな、この湖。
湖畔の道はダムのようになっており、左は湖、右は絶壁という豪快なシチュエーションだ。柵や手すりなど、一切ない。もしも突風が吹いたら、一巻の終わり。…いやだ、こんな所で死ぬのはいやだ。こんな所で消息を絶っても誰も捜しに来てくれなそうだし…。息を止めて一気に進む。絶壁を抜けてからは道もまともになり、程なくして左慈煉丹房と煉丹台に到着。なんというのか、これは、三国遺跡といっていいのだろうか。かなり際どい所を突いているためか、ますます濃い霧のためか、ともリアクションに戸惑いがある状況。
しかし、ここでテンションを上げなければ、もう盛り上がりどころはない。無理矢理気持ちを奮い立たせ渾身の”左慈踊り”を披露する。10分程度写真撮影などをおこなった後、撤収開始。

帰り道をどうするか?に与えられた選択肢は以下の3通り。
@上策: 引き返す
A中策: 最短ルートで下山、ケーブルカー利用
B下策: 東回りの新規ルートを経て下山
もちろん、上策・中策・下策は今だから言える事後評価である。この時の決断は如何に?
:「引き返すのは芸がないよな。かといって、ケーブルカーって、入場料90元でも痛いのに、これ以上金銭をむしりとられるのも遺憾だよな。新しい遺跡が偶然見つかるかもしれないし、Bの策でいくか」
…下策ですよ、それ。的確にハズレを引くセンス、これがの「天賦の非才」ってやつだよチクショー!!
というわけで、体験談的には盛り上がる(?)、“地獄の東回廊彷徨編”のはじまり、はじまり…。

:「階段の傾斜角が、どんどんきつくなってきてるなあ…」
:「道の舗装が目に見えて悪くなってきてるぞ?」
:「なんか、他の旅行者とまったくすれ違わなくなったような…」
否応無しに感じる、数々の異変。引き返せ!今ならまだ間に合う、元来た道に帰れ!
濃い霧、断崖絶壁を直滑降している階段、案内図と地名の微妙なズレ…の不安感と疲労をあおる要素ばかりである。これぞ、左慈の世界・天柱山。仙人でなければ生きていけない厳しい環境。
途中、名所・千尋の谷を通過。――どんな所かって?名前どおりの絶壁だよ、絶壁。階段を垂直に下りていく、いや落ちていくような感覚、遊園地だったらエキサイティングだよね。それにしても遊園地はさあ、安全が保障されている前提だから、スリルを楽しむことができるんだよね。左慈の仙人界においては、ひらすら恐怖だね。
とかなんとか頭が空転しているなか、大変なことが起こった。
階段が、登りに変わったのだ。しかもスゴイ強烈な登りに。
:「そんな、馬鹿な…」左慈煉丹台についた時点で、「あとは下り」との前提で歩いてきた。もう、耐えうる体力は残っていない。飲み物もない。かといって、千尋の谷を登って引き返す、というのは完全にありえない。前門の虎・後門の狼・・・。我が進退・此処に詰んだり。
この山、来なかったことにできないの?
嫌だ、助けてくれ!夢なら醒めてくれ!
などと、現実逃避をしても仕方がない。進むしか、ないんだ。苦しいが、それしかない。
ひたすら、登る。上る。ノボル。
:「ゼー、ハー、ゼー、ハー、ゴフッ…」
限界。もう駄目。でも、立ち止まったら、もう歩けない。歩けなければ、生きてここを抜け出せない。絶望の淵から起死回生を得る、唯一の道。それは歩くことだ。
しばらく登ると、案内板が。「三台のひとつ」とかいう岩舞台のようである。あと二つ分登れってか…。
:「ゲホッ!!グフッ!!」
限界。もう駄目。――――――どうして、こんなことに、なって、しまったのか。
「限界」が頭を支配しつつも、登りつづける、これはまさに拷問だ。
二つ目の岩舞台に到達。小休止をとる。
最後?の岩舞台を目指して、また登り始める。これが最後じゃなかったら…。もう、無理・・・。
3つの岩舞台を登りきったところで、道が下りになった。命拾い・・・か?それとも??
今度は急激な下りになった。蜀の桟道を彷彿させるような、危険度の高い岩場で、すこしでも足を滑らせると奈落の底へ真っ逆さま。膝はブルブル、足はガタガタ、いつ落ちても不思議はない。手すりや鎖が一応あるが、大丈夫だろうか?とはいえ、使わないわけにもいかない。手抜き工事で死の鎖だとしても。生きて・・・帰りたい。祈る気持ちだ。
時刻も3時半を過ぎた。日没まであと1時間くらいか。真冬である。このまま日が暮れたら・・・。
ブロロロ・・・。
:「!!!」
仙人界に、久々に聞こえる文明の音。車だ!エンジン音だ!もうちょっとで助かるぞ!視覚的には、全く変化はないが、音に勇気付けられ、士気が急上昇!最後の力を振り絞る。…ってか、幻聴、ってことはないよね?
「建物だ!」眼下に施設が現れる。聴覚を刺激する「期待」が、視覚による「確信」に変わった。体は限界だが、精神面では非常に楽になった。
:「バス発見!」舗装された公道へ出た直後、偶然バスが通りかかった。逃してはならない。ダッシュ。そう、今回も、結局締くくりはダッシュだったのだ。
バスに乗込んだのは4時。夢か・幻か…。仙人界での3時間は、霧よりも濃い印象をの胸に刻み込んだのであった…。


遺跡捜索番外編・ベトナム士燮墓紀行

来てしまった。2度目の、10年ぶりのベトナム。猛烈な暑さとぼったくりに苦しんだ3週間の滞在の末、最終日に“シクロ”(ベトナムの輪タク)ドライバーと喧嘩になり、思いっきりグーパンチを見舞ったベトナム。あれ以来、生身の人間を本気で殴ったことはない(社会人になったし…)。もうこりごり。酸っぱい思い出ばかりのこの国に、またしても来てしまった理由…、それは、一人の偉大な人物に会いたいが為である。

その人物とは、士燮。三国正史でおなじみ、南交学祖と呼ばれる、ハノイ周辺に半独立国家を築き上げ、類まれなる外交能力で呉の孫権を手玉に取った老獪な英雄である。そして、ハノイ郊外のバクニンというところに、彼の墓と廟があるという。
半独立とはいえ、大枠では呉。遺跡超人の端くれとして、そして超絶呉マニアとして、何としてでも行かねばなるまい!

そんなわけで、、麗麗の3人は、三国遺跡捜索番外編・IN・ベトナムに旅立ったのである。

今回、日程は限界まで切詰め、2泊4日の弾丸ツアー。初日の士燮墓&廟はタクシーチャーター、2日目の世界遺産・ハロン湾観光(麗麗たっての希望による)はホテルでツアーを手配してもらう「ブルジョワ仕様」である。
:「安いものを高く売りつけられたらぼったくりだ。高いものを高く買うのは、贅沢だ。ぼられてない、ぼられてないんだ」
酸っぱいぼったくりがトラウマとなり、訳の分からん理屈で自分を納得させようとする。…本当にこんなことでいいのか?は大いに疑問だが、今回は正味たったの2日間なので、効率重視は当然だよ、ねっ!よしとする!…よしとするんだ!

朝、ホテルの前にチャータータクシー到着。
ホテル係員:「ブンチャ――!」(タクシーが来ましたよ)
(注:はベトナム語が全くわかりません。会話の表記が日本語だけでは現地の雰囲気がでないので、ベトナム語は便宜上すべて「ブンチャー」と表記します。)

朝食中だったため、少ししたあとに外へ出ると、ドライバーがいない。(結局どこいってたんだ?)戻ってくるまで20分ほど待たされた。さすがはベトナム、マイペースだな。
運転手:「ブンチャ――ッス!」(おはようございます。本日はよろしくお願いいたします)

というわけで、早速「士燮墓」へ出発。ちなみに、運転手の手配は麗麗の友人(中国語を話せるベトナム人)に頼んでいるので、士燮墓についても、事前にしっかりと依頼しており、ちゃんと調査済のはずだ。大丈夫。まず問題ない。
そんなわけで乗車しておよそ一時間後。

運転手:「ブンチャ――ク!」(到着いたしました)
大きな寺の入口、なかなか風情のある古刹ではないか。さて、廟と墓は敷地のどこにあるのかな?
・・・・・・。
・・・・・・。
:「ここ、違うんじゃない?」

大体の地名でアバウトに走行し、たまたま見つかった寺だったようだ!テキトーじゃねぇかよ!・・・酸っぱい、10年たっても相変わらず、贅沢が無意味に感じるくらい酸っぱいぞ、ベトナム!!

念のため用意しておいたインターネット経由で入手した墓の写真や住所を見せる。運転手の携帯電話を麗麗が借り、友人へ電話。中国語の通訳をまじえながらコミュニケーションをやり直す。

運転手:「ブンチャ――!」(ご心配、ご迷惑をおかけいたしました。目的地を理解いたしましたので再度ご案内申し上げます)

:「今度は頼むよー。」

再度タクシーに乗り、移動。しばらくすると、あった!視界の彼方に、資料とおなじ、ゲートのような建造物が見えるではないか!

麗麗 :「ブンチャ――!」(運転手さん、見てください!あそこです。)
運転手:「ブンチャ――!」(ああ、あそこですか、えーと、道は・・・)
麗麗 :「ブンチャ――!」(あっ、こっちにそれらしき道が続いています。)
運転手:「ブンチャ――!」(ここから行けそうですね。それでは、直ちに現地まで向かいます。)

おお、言葉の意味は良く分からんが、とにかくすごい自信だ!麗麗と運転手の会話が成立しているような気がするぞ!

運転手:「ブンチャ――ク!」(到着いたしました)
今度こそは間違いない、これが、約束の地・士燮墓・・・と、感動に浸ろうとした瞬間――。

ドカッ!・・・えっ?
ボコッ!バキッ! ・・・な、な、何だ??

タクシーが、地元民の少年少女たち20名くらいに包囲されている!!そして、包囲している子供たちが鬼の形相でタクシーに攻撃を加えているではないか!追い剥ぎか、外国人狩りか?ちょっと待ってくれ!私はアメリカ兵ではない!資本主義の犬でもない!善良な遺跡マニアだ!命ばかりはおたすけをー!!

子供達:「ブンチャ―!」(サッカーの邪魔すんじゃねぇ!!)
 :「はぁ??」
どうやら、子供たちは士燮墓の入口の駐車場広場でサッカーをやっていたが、タクシーが来たため、サッカーが中断されたことを怒っているらしい。
 :「何だ・・・、活きがやたらいいだけの、ただの、子供だったのか」
タクシーを隅っこのほうに駐車すると、子供たちは何事もなかったように試合再開。

それでは、こちらも気を取り直して感動に浸ろうか。これが、約束の地・士燮墓・・・、とりあえず、写真撮影を始めようと、カメラを構えた瞬間――。

子供達:「ブンチャ―!」(カメラだ!写真だ!)

ま、またしても包囲されたっ!!

デジカメが珍しいのか、単なるノリなのか、群がる、群がる。撮影するたびに、会心の笑顔で割りこんでピース!まともな写真が撮れねぇ!騒がしくて遺跡に浸れねぇ!ってか、サッカーしろよ!

奥にある廟を先に見学することにして、撤退。士燮廟は、東南アジアの雰囲気と中国文化が融合したような独特のきらびやかさのなかに重厚な威厳がある・・・といった感じの個性あふれる場所であった。来てよかった。
廟の裏手が、いよいよメインの士燮墓本体である!こちらは中華色がつよく、傍らにはおなじみの石羊がある。塚は石で覆われており、士燮の名前が漢字で刻まれている。すばらしい・・・浸れる、じっくりと遺跡の素晴らしさに浸れるよ・・・来てよかった。

堪能したあと、入口に戻ると子供たちがいなくなっていたので、改めて写真撮影。この入口の「南交学祖」と刻まれたゲートは非常にいい出来である。一見の価値あり!

このあとは三国時代からの古刹といわれる「ザウ寺」によって、本日の遺跡捜索は終了。市内へ戻る。

運転手:「ブンチャ―ッシタ――!」(どうもありがとうございました。またのご利用をお待ちしております)

タクシーチャーターで飛ばしたため、まだ時間は昼頃。

:「さて、お昼ご飯はどうする?」
:「ブンチャ――!!」

というわけで、が今回唯一覚えたベトナム語、”ブンチャ―”(ベトナム風つけめん)を美味しくいただいたのでありました。このあとは市内観光と名物「水上人形劇」を観覧し、かなり充実した一日を過ごすことができたのであった。


北京―瀋陽の理想的な移動法

2011年GW。三劉としては17ヶ月ぶりの遺跡捜索出撃である。今回のテーマは「中国東北部」。従来、あまり遺跡捜索の舞台として認知されていなかった北京よりも北東の地域にアタックしようというものだ。この計画の地理的中心となるのは、遼寧省省都・瀋陽である。ここを基点に、遼陽・集安といった都市の遺跡を狙う計画である。

今回、日本からの飛行機は北京往復で手配している。このため、北京から瀋陽までの移動を円滑におこなうことが、遺跡捜索旅行成功のカギとなる。北京から瀋陽までの距離は700キロ、これをどう移動するべきであろうか?

:「飛行機で移動するのは高い。しかも、空港から市内への移動ロスもある。列車は便利だが、高速鉄道でおよそ4時間かかり、移動日に遺跡に行きづらい。かといって、夜行列車は体力の消耗が大きい・・・。」

様々な移動法を調査・考慮した結果、の脳裏に完璧な計画が閃いた!

:「・・・そうだ、サンドイッチ作戦!!だっ!」

説明しよう!「サンドイッチ作戦」とは、北京と瀋陽との間に、遺跡を挟む・・・つまり、移動・遺跡・移動とサンドイッチのごとくはさむことによって、個々の移動が分割され移動負荷が軽減し、なおかつ遺跡にまで行けてしまうという、一石二鳥のハイパフォーマンスな作戦である!これこそ、豊富な遺跡捜索経験をもつベテランのにふさわしい完璧な計画だ。

今回は往復であるため、サンドイッチの「具」=「遺跡」についても、複数必要だ。それを踏まえて、下記のような移動計画とした。
@往路  北京 → 秦皇島(昌黎)→瀋陽 遺跡:曹操“観滄海”碣石 
A復路  瀋陽 → 建昌     →北京 遺跡:白狼山

それでは早速、作戦の結果をお知らせします。

<@往路編>
前日夜に日本から北京国際空港へ。空港近くのホテルに宿泊。
空港から秦皇島までバスに乗る予定なので、8時ごろホテルを出て、無料送迎バスにて空港へ。9:30のバスまで時間があるので、とりあえず朝食。9:00頃、バスが来たので乗り込もうとすると、切符売り場で切符を買うように言われた。切符売り場なんてあったけ?・・・とさがすと、ちょっと離れた目立たないコーナーにあった。切符を購入しようとすると、ショッキングなことに「売り切れ」というではないか!
何だって?秦皇島って意外と人気あるのか?やむなく次の11:00発の切符を購入。
:「早くも、計画にほころびが出始めているぞ?」
いやな予感を秘めつつ、バスが発車。秦皇島までは4時間くらいとのこと。まあここは、大中華の首都・北京だし快速バスの快進撃に期待しよう!
:「しかし、この時期は中国でもGWだ。渋滞来るかもよ?」
1時間後。高速道路は吐き気を催さんばかりの大渋滞にはまりこんだ。原因はGWというよりも、道路工事と交通事故のダブルパンチのようであった。渋滞の影響で4時間でいけるはずが5時間半かかり、秦皇島に到着したのは16:30だった。ここから当日中に郊外40キロの昌黎に移動し、その更に郊外にある“碣石山風景区”に行くのは、現実的に不可能な状況だ。
昌黎まで行って宿泊することを考え、バスを探すと、到着したターミナルからのバスがなくなっており、市のはずれの別のターミナルから発着しているとのこと。しかし、このターミナルは遠いし、時間も17:00過ぎで、これから行って最終バスが出てしまっているかもしれない。
旅行のメインは遼陽・集安であることもあり、昌黎にこだわるのは得策でないという判断になり、列車で瀋陽へ向かうこととした。
秦皇島駅が工事中で列車運行がストップしており、隣の「龍駅」というところに移動する。運よく、18:00発の硬座を確保。列車内では悶々と過ごし、24:30くらいに瀋陽に着いた。

作戦結果:北京から瀋陽まで移動しただけ。バス5時間半+列車6時間半消費(高速鉄道なら4時間)。遺跡アタック中止。
     「具」のないサンドイッチを食べたうえにくたくたに疲れた――――大失敗じゃないですか。

<A復路編>
もともとは、瀋陽→建昌(遺跡:白狼山)→北京 という計画であったが、
このままでは済まさん!という気持ちもあり、当初予定を変更することになった。
変更後:瀋陽 →(夜行列車)昌黎 → 北京
そう。あくまで昌黎にこだわったのである。このため、忌避していた夜行列車を使うことを決断。かなり執念入ってます。この戦い、落とせません。
幸運なことに、寝台が確保できた。これは大きい。瀋陽を22:00頃発車し、翌朝6:30頃に昌黎到着。碣石山風景区へはタクシーで向かう。7:30頃、風景区の入り口へ。期待が高まる。
・・・が、様子がおかしい。入り口が、封鎖されている。
:「どういうことだ?」
人民:「アア?そこの立て札にあるとおりだよ。共産党から発布された、『環境保護令』により、当面ここは立ち入り禁止になったんだよ」
:「ぐはぁっ!!!」
なんてことだよぉ〜!そんなの、ないよ。あんまりだよ。ふと見れば、風景区の案内図には「曹操“観滄海”碣石」も明記されている。頂上の手前くらいのようだ。あるんだ。遺跡は、あるんだ。往路含め二日がかりで、夜行列車まで使ってこのざまか。共産党は何を考えてんだ?環境保護って・・・冗談だろ?お前ら環境なんかふだんこれっぽっちだって気にしてないじゃん。遺跡を封鎖する前にゴミ拾えよ。タン吐くなよ。

しょんぼりと昌黎へ戻る。丁度いいバスもなく、11時の列車で北京へ。15時半頃到着。帰国前日だったので、土産買って食事して終了。

作戦結果:瀋陽から北京まで移動しただけ。夜行列車8時間+列車4時間半消費(高速鉄道なら4時間)。遺跡アタックを共産党に阻まれる。
     まるで、おいしそうなカツサンドを食べようとした瞬間にカツだけ奪われたような、この感じはすなわち――――大失敗じゃないですか。

というわけで、今回は「完璧」なはずのサンドイッチ作戦がまったくの空振りにおわった。
「中国において、完璧な計画ほど有害なものはない」
計画は現地事情を考慮し、余裕を持って策定するのが基本である。欲張って、サンドイッチのような隙間なくぎっしり詰まった作戦など、最初から実行不可能だったのだ。しかし、無駄に渡航回数を重ねた自称「ベテラン・上級者」は基本を忘れまんまと落とし穴にはまるのである・・・。


検証・IPADは遺跡捜索に革新をもたらすか?

apple社のタブレット端末「iPad」が世界を席巻している。
機動性・携帯性・使いやすさはもちろん、そのデザインと革新性は、人々の生活スタイルに衝撃を与えた。
そんな、iPadは、遺跡捜索にも革新をもたらすのではないか。
…と、言うわけで…。2011年に買ったipad2を、遺跡捜索に初投入する機会がやってきた。2012年GW、遺跡捜索旅行in福建省。過去20数回中国を訪れるも、福建省は未訪問でだったが企画し、一見なさそうな三国志遺跡を徹底リサーチして無理矢理発掘。10箇所程度の遺跡をターゲットとして抽出、出撃計画を練ったのだ。8日間の日程を計画したが、もちろん、三国志だけで埋まるほどの遺跡量はないので、アモイのコロンス島や世界遺産の「客家土楼」などといった、一般向けの観光旅行地も行き先にエントリーされている。

今までであれば、荷物の制約があるので、インターネットなどで漁った遺跡情報は、地名レベルのアクセス情報だけに絞って紙に印刷し、それを頼りに人民に聞き込み・・・というスタイルであった。

だが、今回は違う。
@遺跡情報が載っているWEBページをまるごとpdfに変換し、ipadに格納できる。
 →アクセス情報だけでなく、遺跡の写真や由来などの情報も携帯でき、遺跡をより楽しめる!
A遺跡の所在地をgoogleや百度の地図であらかじめ確認し、そのデータを格納できる。
 →場合によっては現地で購入する市内地図よりも詳しい情報を持ち込める!方向音痴のには心強い!

調子に乗ってこんな情報も…
Bホテル情報
Cレストラン情報
D観光情報

とにかく、荷物重量を増やすことなく、大量な資料を搭載できる!これはすばらしい!これによって、グルメなど「楽しい」情報の収集にウエイトを置くことができる。
私は実施しなかったが、中日/日中辞典をアプリで購入するのは便利ではないかと思う。

というわけで、旅行スタート!
初日の宿泊は大都市・アモイの4星級ホテル。客室で無料wifiが接続できます!これは嬉しい。これを利用して、日程後半での宿泊ホテルをリサーチ。接続環境としては、中国のサイトは普通につながるが、日本のWebサイトへいくと非常にレスポンスが重い。動画サイトなどを閲覧するのは現実的とはいえないだろう。「三劉」掲示板にも書き込みができた。今後はWifiがつながる限り、到達遺跡情報を即日お届けできるぞ!乞うご期待!!

・・・って、そんな都合よくはいかず、その後は都市の規模が小さかったり、ホテルのランクが低かったりで、Wifiに接続できない日々が続き、最終日前の泉州のカフェでようやくWifi接続ができたくらい。しかも、我慢できないレベルのレスポンスであった。
地域にもよるだろうが、通信面での「革新」は今回はなかった。残念。

一方で、情報携帯ツールとしては、すばらしい威力を発揮した。特に、あらかじめgoogleマップ等で、遺跡の目安位置を調査し、その地図情報を画像ファイルとして持ち込んだところ、捜索効率が非常に良くなった。また、レストラン情報をたくさん持参したことで、食事の質は確実に向上した。
もう、遺跡捜索は苦行じゃない。気合と根性の無補給地獄から、先端技術によって救われたのだ。

さらに今回、IPADは「暇つぶしツール」としてもその威力を発揮した。そう、アプリ「三国志」である。
・・・結局、ゲームかよ。
とか、言ってはいけない!遺跡捜索旅行は、移動時間が長くなりがちで、けっこう隙間の時間が多いのだ。疲労で放心状態のときも多いが、ゲームがあればついついやりこんでしまうのだ。
最初は、が主に三国志をプレーしていた。
は、静観の構えである。
数日後、チュウ太郎が関心を示しだし、プレーするようになってきた。
は、それを横目で眺めている。
そして、遺跡旅行終盤。三国志系の捜索が終わり、あとは「客家土楼」など普通の観光を残すのみとなった。が、ポツリと言った。
:「もう、これ以上遠慮はしない。」

猛攻が始まった。

空き時間すべてを三国志に投入して、猛烈にプレーしまくっている。酷使により、IPADが常に発熱していて壊れそうだ!電源残量も10%以下に急減した。充電しなくては。驚いたのは、市内バスで人民にまみれてプレーしていること。いくらなんでも、やりすぎだろ。
:「バス酔いした・・・」
そりゃそうだ。体に悪いだろ。
は、戦った。帰りの飛行機、成田からの京成スカイライナーまで、戦い抜いた。結果、操る「劉備軍」は天下の3分の2を制圧するまでになった。が、そこであえなく時間切れとなった。

惜しい!、後半激しく追い上げるも、今一歩天下に届かなかった・・・!!
だが、民衆は信じている。次回こそは、が中国大陸に統一と平和をもたらしてくれることを・・・。
―――って、これ何のレポートだったっけ?

帰国から2ヵ月後、名古屋の宅へ遊びに行った。居間の真ん中には・・・、ピカピカの最新世代のIPADが鎮座していた――。
・・・・・・買ってしまったの、ね。

そういうわけで、現状、通信環境に課題があるものの、IPADは遺跡捜索にたいへん有用である、いや、今後の遺跡捜索はIPAD抜きでは成り立たない!


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