元・遺跡超人の1日限定「江陰・凌統墓」ツアー

2013年12月ー。サル甘寧は一人、蘇州に来ていた。そして、本日は元・遺跡超人サルにとって1日限りの休日。
ならば、行こうではないかリバイバル遺跡捜索へ。目指すは東呉名将・凌統の墓。

<プロローグ 2つの謎>
本編に入る前に、以下の謎について、少々説明が必要である。
謎1:何故、サルは元・遺跡超人になったのか?
謎2:何故、サルは一人で蘇州にいて1日だけ自由時間があるのか?
→要するに、前回(2012年5月福建省シリーズ)以降、サルの身に何が起こったのか…?

謎1に対するアンサーは…。非常に、簡単な話だ。
サルはこともあろうに結婚し、腑抜けと化したのだっ!!
2012年5月、福建省遺跡捜索の2週間後の出会いから、8月には手作り人形でプロポーズ(人形迷人、奇跡の大成功!)。11月に入籍・挙式と、わずか半年でゴールイン。嫁の実家の2世帯住宅でぬくぬくと過ごす、お気楽サラリーマン。それが、最近のサルのリアルな現実なのである。
地元とオペラをこよなく愛する嫁は、三国志には興味なし。どころか、アジア全体ひっくるめて全く受け付けない。
俺の遺跡捜索ライフは終わった…。サル甘寧から甘寧(三国志)を抜いたら、ただのサル。元・遺跡超人。
そんなわけで、2012年11月以降、三劉の更新もストップ。

だが、不思議ではないか。それならサルは何で蘇州に一人でいて遺跡アタックをしようとしているのか?二つ目の謎に対するアンサーは…。

こっちは、少々複雑だ。
2013年4月から、海外部門に異動になり、上海の子会社の支援担当となったのだ。しばらくは、経理の勉強がてら上海の現地法人を2泊3日で訪問したりしてのうのうと過ごす、お気楽サラリーマンだったが、2013年11月終盤から年末まで、とあるトラブルを抱えた蘇州郊外の現場に応援要員として送り込まれたのだ。
蘇州のホテルから、送迎のワゴン車にどやどや乗込み、出勤。日中は現場の書類まとめを粛々とこなす。食事は現場の賄いメシ。夜もワゴン車でホテルまで戻る。たまに日本料理屋で宴会、まれに上海蟹。忙しいため休日は無い。サル甘寧から運動を抜いたら、ただのブタ。そんな日々が3週間。
気力・体力の限界を感じていたころで、1日の休暇を取れることになった。

蘇州で1日休暇―――。爆睡か?日本料理か?いやいや違う。ここは当然「遺跡アタック」しかないでしょう!!

<本編>
凌統墓は、2009年にわたわたが訪問しているが、このときサルは風邪でダウンして行けなかった。当時は、墓の跡の石柱しかのこっていなかったようだが、最近になって整備されたとのこと。蘇州からも近いし、つかの間の休日を満喫するには相応しい。
さっそく三劉でアクセスをチェックすると…。
わたわた:「無錫からバス。近くで降りて、3キロ程ダッシュすべし!」
…おい、ダッシュかよ。遠いよ。合理的じゃないよ。今、このあたりは、大気汚染がひどいんだよ。PM2.5ってやつだよ。老人・子供は外での活動を自粛し、屋外での激しい運動もNGなんだよ。ダッシュなんかしたら、それこそ発病するよ。別のアクセス手段はないのか?
というわけで、別の遺跡紹介サイトを確認したところ、江陰からバスですぐ近くまで行けるとのこと。いいねえ。こういう情報がほしかったんだよ。というわけで、三劉副会長なのに三劉掲載のアクセス情報を使わず、蘇州のバスターミナルから江陰へのバスへと乗り込むこととした。(三劉の存在意義って何?)

…ってことで、早速ホテルを出発!
AM08:30 蘇州南バスターミナル到着
AM08:50 江陰行き、発車(料金33元)
AM10:25 江陰着
AM10:50 江陰汽車客運より、K501の郊外バス発車(3元)
AM10:30 悟空寺バス停着、ここから徒歩
AM10:35 凌統墓到達

順調すぎる・・・。順調すぎて、書くことが無い・・・。バスターミナルも整備されていて高速使ってスイッて行くし、遺跡情報もはっきりしているし、墓には人民っ子一人いないのでぼったくりも無い。いつもトラブル発生するのに、何故だ?いつもと何が違う?
―――わかった!あいつがいない!久しぶりにわたわたと一緒でないのだ!つまり、いままでことごとくトラブルに見舞われるのは、サルの無計画が原因でなく、わたわたの暴走が原因だ、それが今回立証された!
まあ、それはともかく、凌統墓は素晴らしかった。入口には「三国東呉将軍凌統墓」と刻まれたゲートができており、それをくぐると元々あった石柱2本が健在。奥には、文物碑、功徳碑と墓が控える。これで凌統塑像まで作ってくれれば完璧だったが、それは贅沢というもの。十分に、三国遺跡を満喫することができた。凌統、
そして再建してくれた子孫の皆様、本当にありがとう。

中国で仕事をして、休日には、三国遺跡にふらっと行ったりして。入社以来の、長年の夢だった。それが、今日だけだけど、遂に叶った。三国遺跡ファンとしての幸せをかみしめる、そんな、至福の1日でした。

修建された凌統墓 凌統・凌操親子の人形(記念製作)


2014夏・出張アタッカー江東を彷徨う(丹陽・南京編)

2014年8月。2週間の上海出張となった。
間の土日は休暇であり、昨年12月に続く貴重な遺跡アタックのチャンス到来である。
張り切って近隣の遺跡情報をリサーチし、今回は土日それぞれ上海からの日帰りで遺跡アタックに挑む計画とした。

<土曜日 丹陽編>
月曜から金曜まで粛々と業務をこなし、ついにやってきた週末だ!金曜の晩に、ホテルから近い上海虹橋駅からの新幹線チケットを確保し、準備は万端。

土曜日の計画は以下のとおり。
@新幹線移動 上海虹橋7:12→丹陽8:30
A丹陽の西南郊外「延陵」へ移動
B呉の歴史家・韋昭の墓といわれる「九女トン」と、そこに作られた「昭公亭」へ。
 およそこれで午前中一杯の予想。
Cこれだけだと時間が余るので、隣町「鎮江」で、最近できた孫策関連の「桓王亭」へ。
D帰路、新幹線 鎮江16:45→上海虹橋18:25

「昭公亭」、「桓王亭」とも、ネット上に確実な情報があるので大丈夫だろうということで、地図情報をきちんと準備せずに出発。
・・・これが、致命傷になるとは露知らず、「まあ近場だし楽勝でしょ。今日はあまり歩かないし」と極楽モードであった。

さて朝6時にホテルを出発し、6時半ごろに上海虹橋駅到着。ほぼ新幹線専用の駅のようで、とにかくでかい。朝食はコンビニで買ったおにぎり2個とジュース。丹陽には順調に到着。
延陵までのバスだが、ネット情報だと駅から1路のバスに乗り、「中国人寿」でおりると延陵行きに接続しているとのこと。それを信じて「中国人寿」で下車。バス停の表示を確認する。延陵行きは・・・、ないぞ。近くに公安があるので道をたずねると、バスは少し離れた「客運駅」から出ているとのこと。
そこまでは、本来は徒歩15分もあればいけたのだが、地図のない私にスムーズに行けというのは無理な要求で、30分ほど迷いまくってようやく到着。215路の郊外バスにのって延陵へ。10時ごろ着。ここまでは、まあ順調。

延陵駅から、張り切って「昭公亭」へアタック開始!だいたい北東3キロくらいの距離感である。えーと、北東はどっちだ?
「んん、まあこっちだろ」
思えば、ここはもっと慎重に進路を選ぶべきであった。人はあまりいなかったが、聞き込みをしてもよかった。地図を持たない状態で、私が正しい方向にいける訳が、ない。あたりまえすぎることだ。だが、久しぶりの遺跡捜索で極楽モードだったのか、まったく深く考えずに道を突き進んだ。
歩くこと30分、目標とする「彪塘村」に到着する気配がない。なんか、変だな。逆に、どうやら、地元ではちょっと有名な名所・「季子廟」(春秋時代の賢者・季札の廟)に近づいているようだ。
「せっかくだし、季札行っときますか。いい機会だし、時間もあるし。」
方角もよくわかってないのに、改める気配もない。この際だから先に説明しておくが、季子廟は延陵駅から真西の方角である。角度にして、150度ずれている。ほぼ、間逆だ。賢者の廟に行く資格などないほどの愚かぶりである。
1時間ほど歩いて、季子廟に着いた。地名は九里鎮というところで、季札はかつてここを統治していたようだ。風景区としてかなり力の入った投資をしているようで、一体にはゆかりの文物がいろいろあるようである。ってことは・・・。

「いらっしゃいませー!!」
そうだよね・・・。有料だよね・・・。20元徴収された。メインの「季子廟」はかなりの規模で、本殿には巨大な季札像が安置されている。管理人もいて像の写真が取れなかったが残念である。それなりに満足。ただし、入り口の案内には40箇所の見所が記載されているのだが、明らかに開発中のようで、完成しているのは3割程度、あるべき場所が単なる草むらだったりした。

いずれにせよ、あまり季札に没頭していても仕方がない。そろそろ本来の「昭公亭」を目指すことにした。方向がずれていたようだが、まあ角度にして30度くらいなものか。つまり、1キロ圏内くらいにあるはずだろう。

ということで、聞き込み開始。
「アア?」「アア?」「アー?」
・・・おかしい。ぜんぜん話が通じないぞ。何故だ?
―――――遠いからに、決まってんだろ――――がっ!!!(この時点では、ぜんぜんそれが理解できていない)

「彪塘村」という地名で聞いてもあんまり反応がよくないが、とりあえず「東のほうへ行け」というアドバイスが得られた。
だが、地図もないし、道路標識もないし、東がどっちかよくわからん。人もあんまり歩いてないし、3人くらい聞いて、いうこ

とがばらばらだ。もしかして、やばいことになってない??時刻12時にして、自分の置かれている状況を把握した。季子廟からも、聞き込みをしつつかなり離れており、いまさら引き返すのもロスが大きすぎる。地獄モード突入、である。
さまよううちに、「趙巷村」というところへ出た。大体半分くらい戻った感じの場所である。標識があり、延陵まで2キロ。丹陽まで18キロ。鎮江まで39キロとある。見ると、バス停があり、鎮江行きの郊外路線があるではないか!
「昭公亭あきらめて鎮江行っとくか・・・?」
もともと、鎮江からの帰りの新幹線のチケットを購入済みである。ちゃんと鎮江へ行かないとチケット代110元が無駄になる。だが、まだあきらめるのは早いだろう。東へ向かってさらに歩く。
ここで、「草刈りばあさん」登場!この日は失敗続きであったが、このばあさんに聞き込みをしたのもかなりの大失敗であった。
ばあさん:「こっちじゃないよ!あっちだよ!」
指した方角は、西である。方向感覚を完全に失い、気力がつきかけていた私は、混乱状態になったが、ばあさんの言葉を信じて引き返した。西へ進んだ。地獄モードに入ったせいか、しばらく人に会わなかった。
久しぶりに会った人民に聞き込みをすると、逆方向を指示された(今度は正解)。引き返し、またまた「趙巷村」へ。
もう少し進むと、「草刈りばあさん」がいるが、こっちではないらしい。ってことはこっちか?と、あてずっぽうで、北へ向かう。しばらく、人に会わないまま歩く。
久しぶりに会った人民に聞き込みをすると、こっちじゃないから戻れといわれた(これは正解)。あまり自信もなかったので、引き返し、「趙巷村」へ。

もーいやじゃっ!

精神が崩壊状態になったため、諦めてバス停で鎮江行きのバスを待つことにした。しばらく待っていると、さっきの「草刈りばあさん」がこっちへ来るではないか。
ばあさん:「無駄だよ!バスなんか来ないよ!」
親切で言ったのかもしれなかったが、ムカついたので追い払った。ここで時刻は13時である。13時半まで待つが、バスなんて、ちっとも来やしませんよ。
バスを待つことにむなしさを感じ、また、待っているうちに少し疲労が回復してきたので、もう少し頑張ることにした。「草刈りばあさん」のいる東側に行くのが心理的にいやだったので、もう一回北へ行った。もう滅茶苦茶です。しばらく人に会わなかった。意外と人口少ねえんだよここ。
久しぶりに会った人民に聞き込みをすると、「彪塘村」への行き方を詳しく教えてくれた。やっと、いい人に巡り会った。やっぱり、「草刈りばあさん」のいる方向が正解だったらしい。ばあさんを突破して、とにかくまっすぐ行って、信号が出てきたら左に曲がれば、OK。理解した。
引き返し、「趙巷村」へ。何度目だよ此処・・・。
東へ向かうと、いましたよ、「草刈りばあさん」。そっちじゃないと、全力で阻止してきましたよ。もちろん、無視ですよ。最初から、無視しておけばこんなことにはならなかったんだよね。なんか、草刈り鎌を振り回してこちらを罵っています。最早何言ってるかよくわかりませんが、結構びびりました。走って逃げる余力がなくてしばらく絡まれましたが、なんとか突破しました。
信号機までは結構遠く、20分以上かかった。ようやく、地獄モードを抜けた・・・。

どうやら、丹陽から乗ってきたバス通りに戻ってきた。「交管所」駅と、「庚甲村」駅の間くらいのところに、ありました。けっこーあっさりでした。地図さえあれば、さくっといけた気がします。
残念ながら、「昭公亭」は無く、「九女トン」とその文物保護碑は確認できた。亭の残骸らしきものがあったので、「作られたけど壊された」というのが実態だった感じ。

時刻は14時半で、バスが来たので市内に戻った。そこから鎮江行きのバスに乗り、鎮江に16時15分に到着。
・・・え?「桓王亭」?何それ?
新幹線で上海へ帰りました。明らかに時間切れだし、もう気力体力尽きていた。鎮江へは、今度じっくり行けばいいさ。

なんであれ、今回は地図を準備しなかったという準備不足が地獄を呼んだ。遺跡アタックを舐めてはいけない!自分の方向音痴

を過小評価してはいけない!そんな、猛反省の1日でありました。

季札廟 九女トン 見逃しそうなくらい、さりげない文物保護碑


<日曜日 南京編>

翌日。今度は南京だ。朝6:30発の新幹線で出撃というなかなかハードな選択をしたため、ホテルを5時半に出て、地下鉄の始発列車に乗らないと間に合わない。だが、疲労困憊。
それでも、調査不足から地獄を見た反省を活かさなければ、今度は生きて帰ってこれないだろう。朦朧とする中で、遺跡情報を徹底チェック。地図情報も徹底確認して、携帯電話に画像を保存した。

日曜日の計画は以下のとおり。
@新幹線移動 上海虹橋6:30→南京南7:54
A南京の東南郊外「江寧」へ移動
B呉を代表する英傑・周瑜が馬の調教をしたといわれる「馬場山三国村」と、その周辺の「周郎橋」
 「呉師トン」「姉妹橋」といった関連遺跡の捜索。すべて徒歩予定、推定20キロ。
D帰路、新幹線 南京南17:00→上海虹橋18:25

朝4時50分、目覚ましがなる。体が、重くて動かない。疲労が抜けていない。今日は、やめておくか?とまで本気で考えたが、休日と新幹線チケットがもったいないので、なんとか起き上がって出発。新幹線で曝睡して何とか体制を整える。
南京南からは地下鉄に乗る。南京の地下鉄は初乗車である。便利になったもんだ。その後、郊外バスに乗り、まずは「周廊橋」で下車する。ここは、本来は「周郎橋」なのだが、バス停名が間違っているという不思議なことが起こっている。周瑜=周郎、そんなこともわからないのか?地元でもそんなもんなのか・・・。
さて、バス停の裏側の道を入って、少し歩くと「周郎橋」にあっさりと到着。小さい橋だが、最近架け替えられて奇麗になっている。由来は「川を渡れなくて不便だから周瑜が橋を作った」というあまりに単純なもの。どうでもよい・・・いやいや、素晴らしい!遺跡を満喫するには想像力が不可欠だ!!

馬場山へ向かう。1時間弱歩いて、やや道を間違えたが、うまい具合でたどり着いた。2014年5月に「三国村」テーマパークとして開業したばかりという、「南京で最もホットな場所」である。
外観を見たときは興奮した!入り口の周瑜像に感激した!入場すると・・・、ん、うーん、ん、ああ、まあ、こんなもん、かな。
キャンプ地に近いような、滞在型「村」を志向しているようだったが、あんまりガツンと来ないような?馬場山だけあって、乗馬コーナーだけは妙に充実していたが。入場料は30元のところ、夏休み特価で20元だった。まあ、さすがに30元は強気すぎで、閑古鳥になったから慌てて安くしたんだろう。客は家族連れが多く、富裕層が週末に自家用車ドライブでここまできているようで駐車場が混んでいた。中国も本当に裕福になってきた。

馬場山を後にして、「呉師トン」へ。いわゆる「点将台」の丘である。これが歩いて1時間くらいかかる。近くまで来て、確認はできるのだが、田んぼや水道、果ては野良犬などがブロックして、丘そのものにはたどり着けなかった。文物保護碑でもあるなら確認したかったが。

最後は、「姉妹橋」。由来は、「川を渡れなくて不便だから周瑜が橋を作った」。どっかで聞いたような・・・。で、今回は2本あって、それで「大喬・小喬」にちなんで「姉妹橋」としたらしい。ちなみに、「姉」の字は日本語ではない特殊な漢字になっている。徒歩1時間半で、「姉妹橋」バス停に到着。さすがに体力が・・・。
肝心の橋は、ぼろぼろでよくわからなかった。1本は見つけたがもう1本がよくわからず。無理していくほどでもないという感じで、まさしく「お暇でしたらどうぞ」レベル・・・いやいや、素晴らしい!遺跡を満喫するには想像力が不可欠だ!!こういう独特な場違い感こそ、マイナー遺跡の醍醐味じゃないかっ!

なんというか、体験談としては盛り上がりに欠けたかもしれないが、それでも今日も20キロは歩いている。徹底地図チェックのお陰で道に迷わなかったのが勝因だろう。遺跡ファンの皆様にも、是非とも週末、お暇でしたら自家用車で訪れていただきたいものだ。

周郎橋。いい雰囲気です 三国村の入り口。 城壁上には周瑜像が
呉師トンの遠景。接近戦を挑むも、敗退。 姉妹橋のうちの一つ。よくわからんです。

鎮東将軍の海寧遺跡戦記

第一戦:12/6出撃編

2014年11月中旬より、上海常駐となったサル。11月は妻が上海初訪問で来たり、住居のアパートの生活用品を買ったりでなかなか本格的な出撃ができない状況であった。
そして、12月。「さあ、遺跡へ行こう!」一時は引退&隠居状態から、三劉鎮東将軍として「常在戦場」へ復帰。
まずは、まだまだ沢山ある上海日帰り圏内の遺跡から攻略を進めていくということで、杭州の手前にある「海寧」へ出撃することにした。ここは、知名度は低いが、陸遜の駐屯地として関連遺跡があるほか、「長安鎮」というところに、「長安三古墓」と呼ばれる三国時代の墓が3つ存在する、まさしく“通好みの遺跡処”である。開拓のし甲斐もあるというものだ。
というわけで、12月6日土曜日に、海寧へ出陣。この日は、列車代節約のため、上海南駅から、懐かしの一般列車に乗って「海寧駅」へ。といっても150キロ程度なので、2時間以内で到着する。8時半過ぎに海寧に到着。
目的地は、以下の5ヶ所。
@魯王墳    長安三古墓のひとつで、孫権の息子・魯王孫覇の墓。塩倉にある。後継者争いで国を二分したマイナーだが大物で、今回のメイン目的地。
A長安画像石墓 長安三古墓のひとつで、孫権の娘・孫魯育の墓。長安鎮の街中にあり全国重点文物保護単位で中学校内にある。
Bテキ妃墓    長安三古墓のひとつで、孫権の妻・テキ妃の墓。東升村にある。・・・ってか、誰だよ?テキ妃って。。
C陸遜点将台  陸遜シリーズその1。塩官にある。陸遜は当地を治めていたようだ。
D陸遜営里   陸遜シリーズその2。路仲にある。由来はほぼ上に同じだろう。

東呉宗室・孫権ファミリーの墓&陸遜遺跡と、なかなかのラインナップ。これを1日で巡るというのは、相当な強行軍である。というか、出撃の時点で、正直時間足りないだろうという予測だった。

移動の効率を考えて、まずは塩官のC陸遜点将台へ。すぐにバスが来て、9時半に到着。バス停の近くが、観光地された風景区になっている。点将台も、風景区の中にあり、スイッと到達。順調な滑り出しである。即刻次の場所へ行きたいところだが、バスの本数が極めて少なく、次の目的地・塩倉行きのバスは11時半という状況。そのため、風景区を散策して過ごした。有料の見所が多い中、無料で入れるところも3ヶ所あり、2ヶ所で陸遜の紹介を発見することができた。どうやら以前ここを治めていたようだが、そういった由来を少し感じることができて、気持ちが弾むというものだ。

いい気分になりつつ、11時半のバスで塩倉へ。メインイベント・魯王墳アタック開始!どうも、老塩倉とか塩倉村とかいう地名にあるようなのだが、老塩倉ゾーンが広い。村もかなり広い。バス停を降りて、聞き込みしても誰も知らない。バイクタクシー運転手に数名あたっても、手がかりゼロ。まじっすか??畑の中に、高さ2m、幅35m×30mの台地がある、という解説なので、近くまで行けば目視できるだろうと思い、畑の中をさまよったが、知ってる人民が全くいない。全然ダメ。ダメよ、ダメダメ。
寒くなってきたし、疲労してきたので1時半頃に見切りをつけて、撤収。
次の目的地は長安鎮。バスで30分程度。A長安画像石墓は中学校内のメジャー遺跡なので、まず大丈夫と油断していたが・・・。
門番:「人がいないから、入場お断りだ!ダメよ、ダメダメ!」
おわぁ――、炸裂してしまった、学校内遺跡の最大のリスク要因・門前払いが!!必死に説得を試みるが、ダメ。お断りされた。
とぼとぼと、学校から撤収。やばい・・・連敗は、士気が下がる・・・。

この時点で3時少し前。Bテキ妃墓は、かなり田舎の怪しげな場所なので、明らかに時間が足りないし、信憑性も薄いと、目的地から外して、最後に路仲のD陸遜営里へアタックすることにした。一度、海寧駅へ戻って、そこからバス。長安から海寧駅は結構遠く、4時15分に着いた。もうじき日が暮れる。ちょっとアウト気味か・・・。
それでも、路仲へのバスに乗り込み、チャレンジ。5時少し前に路仲到着。
陸遜営里は、バス停のすぐ隣にあった。ラッキー。捜索が必要な複雑なポジションだったら、日没終了だったよ、実際。
なんとか、陸遜関連2ヶ所を攻略し3連敗は免れたが、長安三古墓にはひとつもいけなかった。

これは、悔しいですなぁ。再調査&再アタックへの決意を胸に秘め、本日は鎮東将軍敗れたり!退却、退却である!!

陸遜点将台 「陸遜」の文字が小さいよ・・・。
囲碁名人たちのプレート。 日没直前になんとかたどり着いた「陸遜営里」碑は最近のもの。


第二戦:12/21出撃編

敗れても、再出撃がすぐにできる。・・・ムフフ、グフフ、これが「上海常駐」!すばらしきかな、地の利とは!!
ということで、2週間後の12月21日には再度出撃体制を整えて、海寧へ。ただし、今回は一般列車ではなく新幹線で海寧西駅へ行って、そこからアタックをするブルジョワプランになっている。言い訳するわけではないけど、仕事が忙しくて疲れているし、寒いし、かったるいし。金だけはあるから、もう新幹線で許して・・・って感じ。
今回は、魯王墳のリベンジが最重要かつ最優先課題である。前回の敗北のあと、航空写真の地図にて、付近の幅35m×30mの台地らしきものを徹底調査。そうすると、どうも、捜索した範囲よりもだいぶ東の方に、「塩倉村」という地名とそれらしきサイズの台地のような場所が畑の中に2,3ヶ所あるのがわかった。
サル:「たぶんこれだ。やはり場所がそれていたようだな。IT地図の力で、今度こそはリベンジだ!」

新幹線は9時半過ぎに海寧西に着き、そこからバスで塩倉へ。2回目だと、微妙に土地勘がついてスムーズだ。そしてまっしぐらに東側地帯へピンポイントアタック!
サル:「こっこれは・・・!!」
なんということであろうか。航空写真地図のそれらしきところは、池だった。どれもこれも、池だった。IT地図作戦、まったくの不発!!
サル:「今日もダメダメか?」
仕方ないので付近住民に聞き込み開始。すると。
人民:「おお、魯王墳なら東の方にあるぞ。」
ついに知っている人民に巡り会えた!どうやら、ピンポイントアタックした場所が、よかったらしい。数分で、魯王墳を見つけることができた!!

到達して分かったこと:
@海寧市の文物保護単位あり
A場所的には塩倉ではなく、その東の「官石橋」。官石橋バス停から徒歩数分だった。
B「幅35m×30mの台地」のはずが、畑に侵食されつつあり、5m×10mレベルに縮んでた。高さ2mのはずが1.2mにダウン。
Cしかも、墓の上にもキャベツ畑が広がる。カメレオンのごとく擬態されているので、航空地図では畑との区別不可能。

結論:前回は闇雲に行って失敗した。今回は調べたつもりだったが結局闇雲だった。前回との差は、運がよかった。

・・・まあ、運も実力のうちだ。張り切って、次行ってみよう!!

長安画像石墓。前回は門番に阻止されて敗退した。今回は入れてもらえるかどうか、あんまり自信がない。
海寧中学に到着。門番いる。この前と同じ人だ。
門番:「ダメよ、ダメダメ!・・・って、お前また来たのか。何?外側から見るだけでもいいから敷地内に入れてくれってか。まあ、いいかー。んじゃ、登記して。」
あれ?結構あっさり入れてくれたぞ?顔見知りになったから?ってか、むしろ前回の断固拒否が謎だったと言うべきか。

長安画像石墓、全国文物保護単位だけあって、丁重に周りを建物で覆っている。お約束で、扉の隙間から墓が覗えるようになっている。確かに、かなりの歴史的価値を感じさせる墓室だ。この中に、名高い三国時代の壁画があるらしい。建物の前に文物保護碑があり、そこで記念撮影。墓室の中までは入れなかったが、非常に満足&納得のいく三国墓であった。

結論:よくわからんが、門番の機嫌次第なのか。そういう意味で、前回との差は、運がよかった。

2連勝で士気は大きく上昇。あと1ヶ所、目指すは東升村のテキ妃墓だ。
ここで時刻は12時15分。かなり順調だ。帰りの新幹線は18時半なので、ちょっと時間余るかも?などと、甘く見た結果、「東升村まで歩く」ことにした。
一応、東升村は市内から5km程度なので、そんなに無茶ではないはずだったが、2時過ぎまで歩いて道に迷った挙句、結局バスに乗って村へ到着した。アホかいな。
「東升」バス停から、聞き込みスタート。あまり反応がよくない。どうも、ちょっと距離がありそうな気配だ。
そこで、「東升村水心里」というところまで地名が記載されていたので、墓と合わせて「水心里」で聞き込みをしつつ進む。

聞き込み捜索は苛烈を極めた。北へ、また、北へ。ちょっと東へ。アイヤ、戻ってやっぱり北へ。
気がつくと、バス停2つ分、北上していた。地名表示がもはや東升村でなくなっていたが、3割くらいの人民が知っているので、あるにはありそうだ。
ひたすら聞き込みをくり返しながら徐々に距離を詰めること1時間、最後はピンポイントで案内してくれるじっちゃんに導かれ、テキ妃墓、到達!時間は4時少し前、日没になんとか間に合った。
テキ妃墓は、畑の中に文物保護碑と、長方形の草地があるのみ。その畑に侵食されてないところが一応墓なのだろう。なんかミステリーサークルっぽい感じだ。
苦労して到達したという意味では嬉しいが、やはり、テキ妃と急に言われましてもピンときませんねぇ・・・という微妙さ加減がほんのりビターテイストな、そんな遺跡でした。

結論:前回は、時間の都合でスルー。今回は士気が高かったので頑張った。前回との差は、やる気と根気、最後は運。

何はともあれ、難易度高かった「長安三古墓」3連勝!!これは快挙である!鎮東将軍、今日は大勝利!!
だが、なんか結局気合と運だけで成功したような・・・?今後が思いやられつつも、素晴らしい2014年遺跡納めとなったのであった。

執念でみつけた「魯王墳」思ったよりも小振り。 横から見たところ。意外と見通しが良いので、遠くからも見える。
長安画像石墓。貴重なものなので囲いができてる。 由来はバリバリで三国志しているのが嬉しい。 テキ妃墓。うーん嬉しいけど微妙、ビターテイストだ。

なんと うんてんしゅは ボリタクだった!!

2015年の春節休暇。前半は日本へ帰国し、健康診断や家族団らんを楽しむのだが、この時期は航空便の混雑が激しいため、費用等の都合から、早めの日程で中国に戻ることに。
2月21日に上海へ到着、春節明けは25日から出勤。休みが3日間ある、これは遺跡へ行かなければならないだろう。

というわけで、2月上旬、出撃の週間前に新幹線の切符を手配に行く。武漢・岳陽あたりを狙っていたのだが、全く空席が無い。
色々と試行錯誤の末、当初予定を変更して、江西省の南昌へいくことになった。

江西省は、九江は行ったことがあるが、南昌は初訪問。あまり遺跡どころとは言い辛いが、江南三大名楼・トウ王閣もあるし、まあ一回行ってみてもいいだろう。急遽決定のため、ターゲットとなる遺跡の調査がはかどらないまま、当日を迎えた。

<スケジュールと目的地>
2/22 7:15上海虹橋→11:50南昌西
     南昌郊外・流湖郷   @感古廟 当地で感古将軍とよばれ神格化されている太史慈の廟。
     靖安県          A感古亭 同上で、太史慈にちなんだ亭。
2/23  南昌市内         トウ王閣 武漢の江鶴楼、岳陽の岳陽楼とならぶ、南昌のシンボルといえる楼閣。
     永修県呉城鎮     B聶公廟 呉の武将・聶友を祭った廟。もとは故郷の樟樹市にあったが移設された模様。
                   C望湖亭 ハ陽湖に面する。周瑜が練兵をおこなったらしい。
2/24 7:30南昌西→11:30上海虹橋

3日間あるが、最終日は、春節の影響で朝イチの切符しか取れず、実質2日間。しかも、エントリーした三国遺跡は少なめで、やや寂しいラインナップという感じだ。

なんというか、計画の時点でイマイチ感が漂っているが、どうなることやら。・・・なんて、思っていたら、南昌到着直後に、早速トラブル発生。

南昌西駅は、どうやら新幹線のために新しく建設された駅で、まわりの開発がほとんど進んでいない。一応、長距離バス停があり、西郊外15キロ位の流湖郷へのアクセスを探すが、バスが無い。市内バスは事前に調査してあり、無いことが確認済だったため、タクシーをつかうこととして、丁度来たブルー色のタクシーに乗り込む。流湖郷まで往復で100元ということで出発したが・・・。

ボリタク「ククク・・・、かかったな、サル。実は俺はボリタク野郎だったんだよ。100元は片道だっけ?感古廟の場所はっきりしないから追加料金だよね?見学してるときは待機するよね?帰りは夕方かな?俺、超時給高いし〜、色々しめて、やっぱ500元は必要だよね。」

なんと うんてんしゅは ボリタクだった!!
なんと たからばこは  ミミックだった!!

・・・この二つ、ショックの種類がかなり似ていることを、私は発見しました。嬉しくない発見だけどね。

とりあえず、タクシー止めさせてバトルになるが、奴が一歩も引かない。10分ほど口論になったかと思うが、もうこんなボリタク野郎とはやってられんということで、交渉決裂となる。すでに数キロ走っていて、国道みたいなところに出ていたが、南昌西駅まで引き返した。

ボリタク「行かないとはいえ、ただでは逃がさん!100元、最初に言った100元は払え!」
サル  「どこにも行って無いんだから全部払うつもりはない!20元やるからサヨナラだ!」
ボリタク「ククク・・・ここが俺様のホームタウンってこと、わかってる?」
鍵をロックされ、援軍が登場した!絶体絶命!

サル  「詰んだか・・・。(がっくり)」

100元、召し上げられました。ぼったくりの被害にあいました。南昌、嫌いになりました。

サルは    にげだした!
しかし    まわりこまれてしまった!
ボリタクは  なかまをよんだ!
ボリタクBが あらたしくあらわれた!
ボリタクの  こうげき!つうこんの いちげき!
100元は  しんでしまった!

・・・似ている・・・いや、ほぼ一致している。このような悪夢が、現実世界にも存在するとは・・・。

結局、貴重な時間を1時間失い、100元取られ、モチベーションも消えうせて、感古廟はもうあきらめることにした。
とはいえ、このまま終わっては本日の成果ゼロになってしまうので、長距離バスで行ける、靖安県の感古亭を目指す。南昌西からはバスがなく(出来たばかりで全然ダメだよ、ここ)、市内の中心部へ移動。「高鉄バス」とかいうバスに乗って40分くらいで市街地へ。5元。バスも高けーよ。
街中のバスターミナルから、靖安県へ移動。途中、安義県を通過したが、ふと目に入ったのが「孫慮城路」という道の名前。どっかで聞いたような・・・??
道が悪く、靖安県には16時半に到着。かなり時間かかった。急がなくては。

幸い、感古亭は長距離バス停から10分程度の場所だったので、なんとか到達。況鐘とかいう人物の公園の裏手が、温泉リゾートになっており、裏山の散策コースにひょっこりと感古亭が出てくる感じ。ちゃんと、太史慈に関連する由来が書かれた碑もあり、すこし癒された。

17時半くらいのバスで、南昌へ。あとで調べたら、孫慮関連の遺跡「孫慮城」が、途中の安義県にあったんですね。三劉にも掲載されてるじゃん。わたわた行ってやがるじゃん。ボリタクと戯れてないで、最初からよく調べて、2ヶ所効率よく訪問したら、今日は楽しい一日だったろうな。あーあ。

この後、ホテルへ。春節で、どこもがらがらのようでしたが・・・。

宿泊拒否!くらいました。なんか、この町、外国人の宿泊があんまり無いみたいです。やり方わかりませんとか言われました。結局、四星級の洪都賓館に泊まりました。ここも最悪でした。128元、爆安で2泊しましたが、しょぼい部屋、掃除・タオルの取替えなし、エアコンなし。なんか春節でスタッフが不足していたようで、チェックアウト時も、呼んでも服務員がでてこない。探したら、フロントの奥の部屋で、一人曝睡中で、起こしたらキレられた。南昌、大嫌いになりました。

ちなみに、2日目は、まあ順当に目標としていた遺跡には行くことが出来て、最後はゆっくりトウ王閣を楽しみ、味千ラーメンで締めましたが、体験談としてはハイライトが特に無いので、割愛します。

感想としては、鎮東将軍として、上海近辺ばかり行っていて、私自身、ヌルくなっていたかも。南は治安が悪いなぁ、そんな感じでした。まあ、鎮南将軍じゃないから。
そんな南昌も、建設中の地下鉄が完成して、西駅の開発が進めば、だいぶ便利になって遺跡へのアクセスも向上するのではと思います。そしたら、郊外バスで「感古廟」再アタックしたいですね。

感古亭 聶公廟 トウ王閣

三劉15周年 私は立派になったのか

2015年5月。

2000年5月の三劉HP開設から、15年が経過した。いまでは掲載遺跡数300を超え、武将人形や体験談など豊富なコンテンツを抱える老舗サイトに。立派に発展したものだ。

―――いや、違うだろ。移転や更新ストップもありアクセス激減。寂れてるだろ三劉!

当時、新入社員だったサルは、いまでは単身赴任で週末三国遺跡を漁る上海法人の管理部長。立派な肩書きになったものだ。

―――いや、違うだろ。お前は自己管理すらできてないだろサル!

当時、無補給ダッシュ超人だったわたわたは、いまでは子供をつれて週末スタバに通うタイ駐在員。立派な父親になったものだ。

―――いや、違うだろ。完全に軟弱化しているだろ遺跡超人!

全然締まらない前フリはもういいとして、5月1〜3日で、15周年遺跡アタックで、安徽省馬鞍山・蕪湖へ行きました。

初日。上海から南京まで移動。手段は、新幹線、しかも、商務座!!
これはすごい!リクライニングで座席がフラットに!寝れますよ!しかもドリンク&お菓子サービスつき!各座席モニターつき!まあ、日本の新幹線のグランクラスみたいなもんだ、乗ったこと無いけど!

直角無座20元位から、新幹線商務座429元、15年間で20倍・・・、立派な値段だ、中国もインフレになったものだ。

―――いや、違うだろ。金にモノを言わせて贅沢しすぎだろ!予算管理できてないだろサル!

まあ実際は、チケット買うのが遅れ、5月の労働節連休でチケットがなくて高い席になった、ということです。

さて、初日は馬鞍山の朱然墓等へ。像ができたり、公園が整備されたり、入場無料になったり、15年間で立派に進化していた。
(ここだけはツッコミ入りません。本当に立派になった)

そして、2日目。孫休の墓・天子墳と、10年越しの黄蓋墓が目的地。しかし、天気は生憎の大雨。

午前中に、到達した天子墳は、残念ながらアルミニウム工場の敷地内で、入り口で守衛と交渉したが、中に入れず、じっくり見学が出来ない。
雨の中、遺跡が見れない。これでは、意気消沈だ。
ここで、奇跡が起こった!わたわたは見た!サルの全身が突然宙を舞った!そしてコンクリートに落下して無残に叩きつけられた!
わたわた「???」
何が起こったのか。わたわたが驚き、呆然とする中、またも、サルが突然宙を舞った!そして左手からコンクリートに無残に叩きつけられた!
そう、これは何を隠そう三劉15周年を祝うサルの男気。沈滞しかけた士気を鼓舞するためにサルが勝利の舞を踊りだしたのだ!!

―――いや、違うだろ。雨ですべってコケただけだろ。しかも1分足らずのうちに2回も、だ!学習しろよ!リスク管理できてないだろサル!

サル「ぐわああぁ・・・左手がやられた・・・」
しかも負傷しました。左手が稼動不自由になり、治るのに3週間かかったよ。敗因は、靴が古かったようで、靴底が平らになってすべりやすかったの・・・。
15周年?祝ってません。勝利の舞どころか、2度の転倒で全身ずぶ濡れで、左腕激痛でリタイヤ寸前。負けている、15年前の自分にすら負けている。

アクシデント(人災だが)でサルは戦意喪失。黄蓋墓も、まあ、オレは上海駐在だし、次の週末にでも改めていけばいいか・・・、とか思っていたが、ここで遺跡超人が覚醒した!
わたわた「黄蓋墓だけは必ず到達する!!」
サル「お、おう。(まじっすか・・・)」

蕪湖へ移動。黄蓋墓は南郊外20キロくらいの許鎮からさらに5キロ歩いた場所にある。許鎮行きのバス停を聞き込みで見つけ、雨飛沫をものともせず、先頭に立って突き進んでいく。道を調べたのはサルで、本人は道を分かっていないにもかかわらず、だ。うん、こいつも相変わらずだ。遺跡超人ぶりは、まったく衰えてはいない。成長はしてないような気がするが。

そして、1時間後、我々は栄光の黄蓋墓にたどり着いた!!県級文物保護単位碑が畑の脇にたったひとつ。典型的「ポツン系」遺跡だ!
だが、歓喜につつまれる三劉コンビ!こんどこそ、勝利の舞だ!記念撮影だ!カメラ、電源ON!
・・・あれ?カメラが起動しない?何が起こった?まさか・・・壊れた・・・!
豪雨の中、執念で黄蓋墓を攻略した代償は大きかったのだ。カメラも、雨を恐れず前線で立派に戦い抜いた!そして、水を被り、激闘で力尽き、散ったのだ・・・。名誉の戦死である。

―――いや、違うだろ。雨の中リュックの脇に剥き出しでカメラ入れたら壊れるだろ!かなり不名誉、備品管理できてないだろサル!

わたわた「壊れるだろーなーと思ったよ。忠告しようと思ったんだけどね。それにしても、まったく成長してないねサル」
・・・そういうことは、先に言いたまえっ!!! 
結局、わたわたのカメラで記念撮影。サルがそれまでに取った写真も、カメラと運命を共にしました。・・・やはり、15年前の自分にすら負けているような気が・・・。

と、いう事で、念願の黄蓋墓に到達できて、わたわたは大満足だったようですが、サルは今後、管理部長として立派にやっていけるか自信が無くなった・・・。




レッドウィーク遺跡祭り

2015年、秋。
上海駐在時代、唯一の大型遺跡アタックとなった「レッドウィーク遺跡祭り」が敢行された。

このイベントのきっかけは何か?それは、突然設定された、中国の「祝日」であった。
9月3日が、抗日戦争勝利70周年記念式典をおこなうとして、急遽「祝日」設定され、これにより、9月3日〜5日が3連休となったのだ。

連休うれしい!祝日ハッピー!…って、何浮かれとるんじゃこのサルが−−!!心ある日本人として、こんなふざけた祝日を受け入れられっか!ここは、毅然とした対応が必要である!

<サルの毅然とした対応>

@祝日は受け入れ、会社のカレンダーを早速修正!3連休設定完了!
A9月6日も個人的に有給休暇を取得!あっという間にできました4連休!!
B上記4連休を利用して、「レッドウィーク遺跡祭り」へ出撃決定!!!

駄目だっ、こいつ…。三国遺跡しか見えてねえ…。

サル「目には目を、歯には歯を、張遼には甘寧を、そして反日記念式典には遺跡祭りを!ちょうど、釣り合いが取れている(孫権談)。これがオレ流の毅然とした対応だっ!!」

ということで、練りに練った渾身の出撃計画は、以下のとおり。

0日目  就業時間終了後、駅へ。  →夜行列車で武漢へ
1日目  武漢市街地アタック(呉王大殿、卓刀泉、デイ衡墓)→新幹線で宜昌へ
2日目  宜昌アタック(点軍碑、劉封城、(張飛ライ鼓台)、陸遜広場、大荊山) →列車で万州へ
3日目  万州アタック(甘寧墓、甘寧像、天生城) →夜行列車で宜昌へ
4日目  宜昌(夷陵古戦場)  →新幹線で上海戻り


やはり、土日アタックでは中々行けない、遠隔内陸部を攻めたい。そうすると、やはり重慶市の甘寧故里しかないだろう。飛行機は、欠航や遅延が多く安定しないので、新幹線ベースで移動を考える。となると、中継地点として武漢・宜昌あたりか。云々…。企画は楽しい。
計画は、練れば練るほど、エスカレートする。今回も、ギリギリまで攻めた計画になり、夜行列車2回、最後の新幹線は乗車7時間と、かなりの強行軍だ。一人旅で、これだけ攻めるのはリスクである。

最近は、60日前から列車の切符が購入できるので、早速窓口へ。
夜行列車×2、新幹線×2、日中列車×1、無事調達。しかし、万州→宜昌の夜行は、寝台が取れず、硬座(椅子席)になってしまった。

<0日目> 計画:就業時間終了後、駅へ。  →夜行列車で武漢へ

初日。まずは武漢までの夜行列車。体力を考え、軟臥(1等寝台)である。新幹線と違い、在来線は昔ながらの遅延しまくりの運行であるが、今回は30分程度の遅れで武漢到着。このくらいなら、影響も少ない。まずまず、ではないか。

<1日目> 計画:武漢市街地アタック(呉王大殿、卓刀泉、デイ衡墓)→新幹線で宜昌へ

武漢市内アタックを開始。まずは、目的地の中で一番アクセスが遠い呉王大殿を目指す。こちらは、張公山賽という、湖に面したテーマパークみたいなものが開発されていて、敷地内にあるようだ。
地下鉄から市内バスへ乗継ぎ、終点へ。ここから徒歩を覚悟していたが、張公山賽への観光バスのプレート発見。これは嬉しい誤算か?と期待して見れば、本数は1日2本…。2本とも朝方発で、30分ほど前に、発車して本日は打ち止めの模様。

サル「期待するだけ、無駄だったか…。」
予定通り、徒歩で向かう。市内バスの終点からは50分の道のりであったが、わりあいスムーズに到達することができた。

さて、「張公山賽」は武漢市東側の厳西湖の湖畔にある砦のようなところであり、三国時代、孫権率いる呉の水軍基地であった、と伝えられる。
孫権を祀った呉王大殿の他にも、孫権点将台と伝えられる呉点将台、周瑜号・魯粛号と名付けられた遊覧船等、なかなか充実しており、個人的には好印象であった。アクセスが悪いのと、知名度が皆無なのが厳しいが、多くの遺跡ファンが訪れてくれることを願いたい。

強行日程なので、余韻に浸る暇はない。せっかくの大都市・武漢だが昼ご飯の時間もないので、上海で買ったドーナツでしのぎながら次の目的地へ。

関羽ゆかりの、卓刀泉である。関羽が青龍偃月刀を立てたら井戸がわいて民衆が助かった、的な。不思議と中国全土に点在する、「民衆を救った奇跡の井戸」軍団のひとつのようである。
地下鉄の「虎泉」駅から徒歩数分。以前の武漢は、長江で町が分断され、市内の移動も非常に不便であったのだが、地下鉄によって移動利便性が格段に良くなった。

というわけで、苦もなく到着。武漢には何度も来ているが、卓刀泉は初めてだ。
中に入って、三国志情緒をじっくり楽しもうとしたところ…、

「パッパラパッパッパー」

なんだ?このラッパの音は?振り向くと、そこは管理人室、開け放たれた扉の奥で、TVに映し出される抗日戦争勝利70周年記念式典の実況中継!そして、それを食い入るように見入っている、管理人。
「目には目を、歯には歯を、遺跡祭りには反日記念式典を、卓刀泉には式典ラッパを、これでちょうど釣り合いが取れているのだ(孫権談)」ということでしょうか?

やめろ、やめてくれ。三国志の世界に浸りたいのに、現実に戻さないでくれ。

「パッパラパッパッパー」

うっ、うるせぇ!音量下げろって!
この煩い式典のラッパが、妙に記憶に残っている。私の中で、卓刀泉=抗日ラッパ。関羽は何処行った?結局式典のインパクトに押されて、全然釣り合ってないじゃんか。

次は、本日最後の目的、禰衡墓。以前は長江の中州にあったらしいが、川岸のほうに移設されたようだ。地下鉄圏内なので、移動もスムーズである。マンションの裏庭に、ひっそりと佇んでいた。
ここなら、煩い式典ラッパも聞こえない、遺跡情緒に浸れてよいのだが、ガタガタ煩い禰衡なので、ある意味ラッパが聞こえたほうがそれらしかったかも?

いずれにせよ、初日の目的地はすべてクリア、気分良く宜昌へ。新幹線で1時間程度である。おそらく、17年ぶりの宜昌だ。駅に到着して、周辺を見るが、さすがに以前の面影はない。大都市になっている。
ホテルは意外と高かったが、無事一息ついたので、あじせむって(※注 参照)、その日は寝た。
※注 「あじせむる」とは、「味千る」が訛ったもので、味千ラーメンに行くこと。中国では内陸部の微妙な都市でも味千ラーメンの店舗が多くあるので、一人旅の遺跡アタッカーの場合、安心して食事ができる場所として重宝する。


<2日目>  計画:宜昌アタック(点軍碑、劉封城、(張飛ライ鼓台)、陸遜広場、大荊山) →列車で万州へ

宜昌ゾーンアタック。まずは市内の、関羽ゆかりの点軍碑へ。事前リサーチと、バス路線やバス停名が変わっており、戸惑ったが、結果オーライで何とか到達。単なる碑であるが、きちんと保護措置がされており、それなりにいい感じではある。

続いて、三遊洞へ。市内バス+@のところであるが、なぜかバスが大混雑。道も渋滞で非常にくたびれた。三遊洞には17年前も訪れているので、見ればわかるつもりだったが…三遊洞っぽい偽観光地を誤認!2キロほど手前でバスを降りてしまった!経験が全く生かされてねえぞ。仕方がないので、30分ほど徒歩で、三遊洞到着。

サル「思い出した!ここだ!!」
…いや、今更遅いから。記憶力もなく方向音痴、地図も読み間違える。心底遺跡アタックに向いていませんなあ。17年前の自分を振りかえり思い出に浸りながら、のんびりと観光。以前よりも、整備されて歩きやすくなっているような気がする。昔は案内板等も貧弱で、どこに何があるのか不透明な感覚でさまよった記憶だ。だが、なんか疲れる、あのころよりも体力がなくなっている。いや、17年前はバス停を間違えなかったから、その分スタミナロスになっているのか?
⇒結論:17年前よりも、知力・体力ともに低下。
…むなしいから、回想はもうやめましょうね。
さて、そうこうするうちに、到達しました劉封城。17年前は、文物保護碑もなく、名所ポイントとして認識していなかったが、現在は石碑が作られ、雰囲気は出ている。その後、張飛ライ鼓台へ。これは鮮明に覚えているが、全然変わっていない。懐かしさ満開、ここにまた来るとは、正直思っていなかったよ。…だが、なんとなく、今回が人生最後ではないような気もする。また、来るかもしれない。いつか、また逢う日まで、張飛には変わらぬ雄姿でいてほしい。

ここから、転進して隣町の宜都へ。ここは、陸城とも呼ばれ、陸遜親子(陸遜&陸抗)が築城した地として有名のはずであるが、これまで目立った見どころが存在していなかった。だが、最近になって町中に「陸遜広場」と「陸遜塑像」が作られたという情報を得たので、行ってみることに。近郊バスで1時間弱くらいで到着。バスターミナルから徒歩すぐで広場到着。レンガ色のけっこう大きい陸遜塑像が迎えてくれる。夷陵の戦いの主人公のはずなのに、むしろ劉備の敵役として冷遇され、古戦場にも陸遜を記念したものが全くない中、悔しい思いをしてきた全国116万人の陸遜ファンの慟哭が、歓喜の叫びに変わる日が、やっと来たのだ。…ってほどの像でもありませんでしたけどね。
むしろ、像ひとつ以外には建造物が何もなく、あっさりしていたので、もうひと頑張りを期待したいところ。

さて、最後の目的地は大荊山である。夷陵の戦いで火計がさく裂した場所らしいのだが、時間がない。なにしろ本日中に万州まで移動予定なのだ。帰りのバスが、すぐ目の前を通過したので、バスの窓から写真と動画を撮影。まあ、確認したというか、到達扱いとさせていただきます。土壁に「大」「荊」「山」とバ――ンって書いてある、赤壁みたいなノリの場所です。字は赤壁よりも大きく、迫力はかなりある。

というわけで、この後は列車の旅。硬座で6.5時間。疲れているが、あまり眠れないのがつらいところ。それでも、空いていたので救われた。万州、23時着。駅前はさびれていて、雰囲気も良くない。ホテルを探すが、ロクなところがなく、2件ほど宿泊拒否をくらい、ようやく部屋を確保できたのが24時。人民級にありがちな、病室みたいなとこだった。疲れたので即刻寝た。

<3日目>  計画:万州アタック(甘寧墓、甘寧像、天生城) →夜行列車で宜昌へ

レッドウィークシリーズのハイライトにしてクライマックス、GAN NINGにして甘寧の故郷、甘寧鎮。ファンとして憧れの聖地であったが、アクセスが悪すぎでいままでいったことがなかったが、ついに。
と、本来ワクワクがとまらない!はずが、バス停の場所や案内がいいかげんで、聞き込みをして、ちょっと怪しげなバスに乗ってしまい、不安でドキドキがとまらない感じになってしまった。それじゃいつも通りじゃないですか。
バスは、山へと向かう。重慶市なので、険しい地勢なのである。人民も訛ってきていて、会話が通じている手応えが薄く、とにかく不安だ。雨まで降りだした、雨足が強くなったところで、「甘寧、着いたぞ。ここから歩け」とバスを下ろされる。
分かれ道で、甘寧郷まで2kmらしい。本来つらいシチュエーションであるが、精神高揚によりあっという間に着いた。門票は98元!本当に高くなったよ中国!100元札を出すと…
服務員「今日は特別なので、半額でいいっす」
49元になり、おつり51元戻ってきた。裏には、「学生票」の文字が。なぜに学割??
全く意味が分からないが、甘寧ファンへの神様からのプレゼントと解釈し、そのまま入場。
風景区なので、中は広く、けっこう歩く。団体観光客がそこかしこにおり、混雑している。一応、ここは、大瀑布で有名なところで(敷地内に甘寧墓、甘寧像がある)、メジャー観光地なのだ。しばらく歩くと、橋にでる。この橋から、大瀑布の雄姿が一望できるのだ。横に広く、水量も多く、雄大な大瀑布。なかなか素晴らしい。丁度、雨もやんできた。そして…

甘寧将軍像、参上!

お…おおお…お…おおお… ついに、ここへ来た…。
像は思ったよりも古かったが、風格のある甘寧像はやはり良い。奥には記念碑的「甘寧墓」。故郷にどさくさで墓があるのは中国のお家芸なので、もはやコメントすら不要であろう。
3日目で疲れているのか、喜び爆発というよりは、ジ―――ンとこみ上げてくる感じであった。

さて、一般の遺跡アタッカーであれば、万州はこれで終わりであるが、遺跡超人はそうはいかない。余計なネタを見つけてしまっているのだ。劉備が征呉時に駐屯したと伝わる、天生城。万州市街地にあるという。
市街地まで引き返し、アタック開始。町中に小高い山があり、それが天生城ということなので、発見はそこまで難しくはなかった。しかし…。
「天生城 健康登山道 ここから」の看板が出てきた。
サル「三劉名物、理不尽な登山イベントかよ…」

今日は朝から、なんか疲れているような気がしていたけど、確信した。私は、疲れている。登りたくなーい!
もちろんそんな泣き言は許されませんので、黙々と登山道を進む。ものすごくつらかったが、30分程度で到着。全国重点文物保護単位と、意外にも高格付の碑が。いわく、築城は西暦1200年ごろ。宋から元の時代。一応、劉備がここに駐屯したことから、天子城とよばれ、転じて天生城になったとか。
こじつけ…ですか?いや、冷めてはいかん!素直に受け入れるのだ!現存する建築物は宋代だろうが、城は劉備時代から受け継がれてきた、そうだろう?これ以上考えるな!1800年間語り継がれている伝説に価値がある、間違いない!

いずれにせよ、猛烈に疲労したので、万州駅へ戻る。今夜は、夜行・硬座だ…。駅には16時過ぎについて、時間があまってしまった。4時間待機し、乗車。もだえ苦しみ、翌朝5時ごろ、宜昌着。
疲れたとか、そういうレベルではない。朦朧としている。

<4日目>  計画:宜昌(夷陵古戦場)  →新幹線で上海戻り

最終日であるが、もちろん気力体力尽きているので、夷陵古戦場だけ行って、終了。(予備日的なポジションで、2日目にとりこぼしがあったら再アタックする予定だった)
朦朧と、していた。
夷陵古戦場は、相変わらず、寂れていた。
朦朧と、していた。
昼過ぎ、最後の新幹線に乗り、上海まで7時間。
朦朧と、していた。
揺れるようにして帰宅。

というわけで、レッドウィーク遺跡祭りは、予定していた目的全て行くことができ、無事帰還することができた。これは正直なところ、奇跡に近い。

しかし、このアタックによって、燃え尽きてしまった感があり、以降、私は泊りがけの遺跡アタックにいくことがなくなってしまった。

もちろん、この4日間は人生における忘れがたい経験であり、財産である。

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