その他の諸侯、人物


董卓 董卓
トウタク Deng Zhuo (?−192)
字は仲潁。隴西郡の人。宦官と外戚、何進の闘争のどさくさに紛れて洛陽に入り、権力を握る。何進の配下を吸収し、呂布を配下に加えて中央の軍事を掌握する。少帝を廃し献帝をたて、相国になり朝政を思うままに操った。曹操、袁紹ら諸侯がいっせいに蜂起したため洛陽を焼き長安へ遷都する。ここでも暴虐の限りを尽くすが呂布に裏切られ暗殺された。

デブ、暴虐、エロと最低を絵に書いたような人物。こんな奴が権力を握ってる時点で漢王朝はすでに終わっている。「へそに火をつけたら三日三晩燃えつづけた」とかいってすごすぎる。もはや人間とは思えない。

人形作成日:2000年5月1日


呂布 呂布
リョフ Lu Bu (?−198)
字は奉先。五原郡九原県の人。三国志最強の豪傑。赤兎馬にまたがり、奉天画戟をあやつる。騎兵の指揮に長け、弓の腕も抜群。丁原、董卓の護衛を務めるがいずれも裏切り殺害している。その後は独立し陳宮を軍師に袁術、劉備、曹操らとくっついたり離れたりを繰り返し、戦いに明け暮れる。しかし最後は曹操に敗れ捕らわれ、くびり殺された。

文句なしに三国志最強の武将。戦場で絵になる男。虎牢関で三兄弟と一騎打ちを繰り広げるシーンは、文句なしにかっこいい!!!しかし、いかんせん節操がなさ過ぎる。武勇以外は悲しいくらいにただの人なんだね……。

人形作成日:2000年5月1日


馬騰 馬騰
馬騰 Ma Teng (?−211)
字は寿成。羌族の母を持つ。西涼の屈強の騎兵を指揮し、将軍として西域の異民族の討伐、鎮撫に功を立てた。韓遂とは義兄弟。衛尉として朝廷に召し出されるが、211年曹操に一族皆殺しにされた。この事件と馬超の反乱の前後関係が正史と演義で異なり、正史では馬超の反乱から馬騰一族の誅殺が起こっている。

なんで都へのこのこと行ったのだろう。危険過ぎるとわかりきってると思うが。義兄弟のはずの韓遂とは不思議といざこざを繰り返してるし。誅殺されたのに許昌郊外に墓が残っているが、不自然だ。

人形作成日:2000年3月15日


華佗 華佗
カダ Hua Tuo (?−?)
字は元化。沛国?県の人。伝説的な名医。その天才的な腕によって多くの病人を治療したが曹操に殺される。演義では関羽や周泰をなおし、曹操の頭痛に切開手術が必要だといって殺される。正史では陳登や李通の妻などの病気を診ている。曹操の頭痛に対して鍼治療をおこなう。しかし曹操が自分を医者としてしか遇さないことに恨みを持ち、帰郷。妻の病気と偽って戻らなかったことが発覚して殺された。

名医として三国志を別にしても有名な人物。散々苦労して見つけた華佗墓を見つけたときの感動は一生忘れられないだろう。人形では衣装に迷い、結果赤ん坊服みたいなわけわからんのになってしまった。不覚。

人形作成日:2000年1月27日


司馬徽 司馬徽
シバキ Sima Hui (?−207)
字は徳操。潁川郡の人。荊州に隠居し、水鏡先生と号した。清潔、温雅な性格で、人物を見分ける鑑識眼の持ち主。劉備に臥竜、鳳雛の存在を知らせる。曹操の招聘を受けたが出仕する前に死去。

この人物はつかみどころがない。今で言うと怪しい予備校の名物講師といったところか?気ままな隠居生活をして、それで生活に困らなければいいよなあ。

人形作成日:2000年4月23日


小喬 小喬
ショウキョウ Xiao Qiao (?−?)
周瑜の妻。姉大喬とともに「江東の二喬」と呼ばれ美人として名高い。孔明は周瑜に「曹操が赤壁の戦いを起こしたのは大喬、小喬の二人を欲したからだ」と言って怒らせ、周瑜に主戦論を唱えさせたことになっている(そんなバカな…)。周瑜との間には2男1女をもうけている。

大喬とセットだが周瑜に嫁いだことで姉よりも有名になったふしがある。岳陽楼に墓があり(偽物っぽい)、土産物屋で小喬の人形や絵が売っている。人形はそこで買った絵を参考に作った。それがなかったらイメージするの大変だっただろうな。

人形作成日:2000年3月14日


孫夫人 孫夫人 
ソンフジン Sun Furen (?−?)
孫権の妹。中国では孫尚香という名前でも呼ばれる。おてんばで気が強く、薙刀を操り、「弓腰姫」の異名をとる。政略結婚で劉備に嫁ぐ。劉備が呉から彼女と共に荊州に戻る際は追ってくる呉の諸将を一喝する。のち呉に里帰りし、そのまま蜀に戻ることはなかった。

孫家の女だけあってかなりのあらくれだ。呉か蜀か、所属が微妙なので「武将以外」ということにして小喬ともどもその他のカテゴリーに収めることにした。人形は、はっきり言って失敗作。「弓腰姫」なんだから武官スタイルにしたほうが新鮮でよかった気がする。

人形作成日:2000年4月15日


貂蝉 貂蝉 
チョウセン Diao Chan (?−?)
王允の養女で、絶世の美女。その美貌で、董卓と呂布の仲を裂く“連環の計”を仕掛ける。この計略は見事にはまり、ついに呂布は董卓を殺す。この功績?により中国4大美女のひとりに連なるが、彼女は実在の人物ではない。まさに、“伝説”の美貌の持ち主ということができるだろう。

美貌で有名だが、どのように美しかったかについては全くわからないので、自由に妄想を広げられるのが彼女の最大の特徴ではなかろうか。貂蝉というキャラクター自体妄想の塊で出来あがってるようなもんだしね。人形作りは本当に苦労しました。お気に入りの作品です。

人形作成日:2000年6月18日


袁術 袁術 
エンジュツ Yuan Shu(?−199)
字は公路。名門の出であったことから出世。支配都市では暴政を敷き、戦も弱いくせに皇帝を僭称するという大暴挙をやってみせる!!演義では孫策から玉璽を得ているが、正史ではその話もない。根拠は何だったのか?そんな実力も人望もない袁術は呂布、曹操に打ち破られ、失意のうちに死亡した。即位からわずか一年足らずで…。

どうしょうもない人物。ニセ皇帝とか、骸骨野郎とか、私の中のイメージもろくでもない。最後の落ちぶれっぷりも並大抵じゃない。こうはなりたくないの見本のような男だ。ファンはいるのか?こいつの魅力って何だ?

人形作成日:2000年7月1日


袁紹 袁紹 
エンショウ Yuan Shao(?−202)
字は本初。汝南郡の人。四代続いて三公を輩出した名門の出。20歳で出仕し、宦官皆殺しを指揮したり、反董卓連合の総大将となるなど常に大物として登場している。199年に河北を平定し、官渡で曹操と激突するが、猜疑心が強く優柔不断な彼は兵力で圧倒しながらも大敗を喫し、失意のうちに世を去った。所詮英雄の器ではなかった?

三国志中最も多くの人材に愛想をつかされた人物。無能な人物ではなかったし、地位も高く名声もあったが、中国史上5本の指に入るであろう英雄、曹操と同じ時代に生きたことが彼の不幸だったのかも。

人形作成日:2000年8月5日


劉璋 劉璋 
リュウショウ  Liu Zhang(?−?)
字は季玉。劉焉の子。父の後を継いで益州を治める。典型的なヘボ君主で漢中の張魯すら平定できない。配下の張松、法正に裏切られ国を売られ、用心棒として招いたつもりの劉備軍に攻め込まれ、降伏した。荊州に移され、その地で生涯を閉じた。

ヘボ君主。その一言で片付けられる人物だが、この劉璋が凡君でなかったら、天険に守られた蜀を劉備は獲れていなかったのではと思う。蜀漢ファンは劉璋に感謝すべし!!……かな??

人形作成日:2000年8月6日


孟獲 孟獲 
モウカク  Meng Huo(?−?)
南蛮の王。孔明の南征に抵抗する。孔明相手には連戦連敗、幾度も捕虜になるが、あくまで孔明には心服しない。しかしついに7度目にして降参し、その後は蜀への帰順を誓った。

とにかくこんだけ負けまくったら嫌になるだろうというくらいの負けっぷりだ。孔明との意地の張り合いで何度も戦闘になり、多くの命が失われている。それにしても演義の南蛮に対する描写はひどい。ほとんど人間扱いしてないと言っていい。演義では異色の南蛮シリーズだが、どうもいいとは思えない。

人形作成日:2000年8月14日


祝融夫人 祝融夫人 
シュクユウフジン  Zhurong Furen(?−?)
蛮王孟獲の妻。赤兎馬に乗り飛刀を操る快傑。張嶷、馬忠を生け捕りにする活躍を見せるが、蜀軍の罠にはまり捕らえられる。張嶷、馬忠との捕虜交換によって釈放される。その後は特に活躍もなく最終的には夫とともに蜀に帰順したようだ。

とにかくなんでもありの感が強い南蛮シリーズだが、この祝融夫人はほとんど反則。いくらなんでもいねえよ、こんなすごい奴!!だれが考えたのか?これって三国志なの?と、いいつつこのキャラは結構好き。

人形作成日:2000年8月26日


王濬 王濬
オウシュン Wang Jun(206−286)
字は士治。弘農湖県の人。晋の益州刺使として登場する。船を建造して呉攻略の準備をする。280年、龍譲将軍として長江を下り、呉征伐の軍をおこす。内部崩壊していた呉を軽々と打ち破り、首都建業に迫る。孫皓が降伏したことから、呉は滅亡し、三国志の歴史に終止符が打たれたのであった。その功績により、輔国大将軍に任じられた。晋の武将なので、晋書に伝がある。

驚いたことに呉征伐時には74歳。黄忠も真っ青。それにしても、ずっと登場がない割にいきなり益州刺使とは?それまでは何をしていた人物なのだ?晋書を見ればわかるのだろうが、そこまでするほど興味も湧かない。

人形作成日:2000年11月1日


杜預 杜預
ドヨ Du Yu(222−284)
字は元凱。京兆杜陵の人。晋の武将で、右将軍であったが羊コの後任で鎮南大将軍となり荊州の軍事をつかさどる。280年、呉征伐の軍を起こし、「破竹の勢い」で呉軍をなぎ倒し大陸統一の立役者となった。文武両道で「左伝」マニアである。

晋建国の功臣にはこの世代が結構多い。蜀を滅ぼしたケ艾、鍾会と違って彼や王濬は天寿を全うしている。そういう意味ではおとなしいが、乱世真っ只中の蜀滅亡時と統一の時期では状況が違うといったらそれまでか。人形でも「左伝」をしっかり握っている。

人形作成日:2000年12月31日


紀霊 紀霊
キレイ Ji Ling(?−?)
袁術の将。三尖刀の使い手。戦に弱い袁術軍の武将だけに戦っては負け、が基本。一応軍中では最強のようで、関羽と一騎打ちなどしている。劉備との戦いを呂布に仲裁された際には袁術側の代表者として列席。呂布の卓越した弓技とごり押しに屈服し、停戦。その後、再度劉備と戦うが、袁術滅亡間際だったため「用済み」とばかりに張飛に一刀両断にされた。

袁術軍では一番有名な武将。字も残っていないマイナー武将だが演義によって多少存在感を与えられた。人形は「華のない武将」をキャッチフレーズにぱっとしない色使いで作成。それが大正解なのだから悲惨…。

人形作成日:2002年1月2日


于吉 于吉
ウキツ Yu Ji(?−200?)
江南地方の仙人。「太平清領道」により病を治すことができ、民衆に慕われていた。諸将が自分よりも于吉を敬うことを嫌った孫策は彼を殺そうとする。諸将のとりなしで雨乞いを行い、成功したら死罪をまぬがれるということになり、見事雨を降らせるが、結局孫策によって殺された。死後霊となって孫策にたたり、その寿命を縮めたとされる。

于吉に関する記述は少なく、また出典の文献の信憑性が低いことから実像は謎である。乱世において彼のような仙人が各地に出没するが、おそらくほとんどがいかさまであったと思われるので、孫策が殺害したことが一概に悪事とも思えない。思うに、一代の英傑である孫策の突然の死がいろいろな妄想、憶測を呼び、こうした話がどこからともなく作られたのだろう。人形はこれぞ于吉!という決め手がないままの完成。于吉のトレードマークって何?

人形作成日:2002年6月9日


左慈 左慈
サジ Zuo Chi(?−?)
字は元放。盧江の人。魏王となった曹操の許に単身乗り込み、得意の幻術で曹操を懲らしめる。正史では詳しい事績の紹介はなく、房中術の達人で自分の寿命を完全に生きつくすことが出来たとの事。演義のような幻術師ではなく気功の達人のイメージだ。思うに、劉備=善、曹操=悪というイメージの人民たちが左慈の人物を借りてこのような逸話を作ったのだろう。

まあなんであれ、人形のイメージは完全に演義をもとにしており、極悪なマジシャンのような出来になった。これって三国時代の人物人形か??出身地の盧江にある万佛湖のほとりに「左慈釣魚台」という遺跡があるらしい。


高順 高順
コウジュン Gao Shun(?−198)
呂布の将。演義では呂布に従って各地を転戦しているが、目立った見せ場は与えられていない。正史によると、威厳があり酒をたしなまず、「陥陣営」の異名をとる名将で、指揮する兵は700にすぎなかったが攻撃を仕掛けると打ち破られない陣はなかったとされる。呂布の勇名を陰で支えた名指揮官といえる。呂布が曹操に捕まると彼も捕虜となり、潔く刑死した。

地味なタイプのため、演義でこれといった見せ場を与えられなかったのが残念。最近はコーエーのゲームでも評価がうなぎのぼりだが強すぎでないか?あくまで「部隊長として優秀」というレベルだと思うが。人形は地味ながら屈強なイメージを元に作成。

人形作成日:2003年5月31日


張角 張角
チョウカク Zhang Jiao(?−198)
巨鹿の人。太平道の教祖で、こつこつと人民の病を治療して名声を上げていたが、世が乱れてきたのを機に自らを「天公将軍」と号し、黄巾の乱を起こす。この農民蜂起は山東省を中心に全国に広がっていったが、各地の英雄たちに鎮圧され、張角自身も病によって死去するという結果に終わる。ともあれ黄巾の乱によって漢王朝の無力があきらかとなり、一気に乱世へと突入するきっかけとなったのは事実。

腐り果てた漢王朝に対する人民たちの怒りが、80万とも100万ともいわれる巨大な農民反乱を招いたわけだが、それを討伐する劉備らが「義勇軍」というのもなんか違和感を覚える。義勇軍とか言いつつ民衆に背を向けてない? さて問題の人形だが……。こ、怖すぎ!断トツの“猟奇的No.1”作品に認定!でもそれがゆえにイメージとぴったり合致してると思うが…。

人形作成日:2003年5月31日


徐母 徐母
ジョボ Xu Mu(?−207?)

徐庶の母。姓名不詳。中国は古来より夫婦別姓のため、姓も「徐」でないと考えるのが妥当である。劉表が死去し荊州が曹操の手に落ちた際に、彼女は捕虜となる。このため徐庶は劉備の許を去り、曹操に降伏した。演義ではこのあと彼女が忠義の道を歩まなかったと徐庶を罵り、自殺したことになっている。

許昌郊外に徐母墓があるが、これはおそらく演義のエピソードを元に作られたものだろう。ただ、徐庶の故郷である穎川は許昌から非常に近いので、あながち根拠のないでっちあげとは言い切れない。
それにしても、徐母人形を作ることになるとは…。剛直そうな老婆で、イメージとしてはこんなとこでOKと思うが、徐庶の面影まではもちろん考えていない。

人形作成日:2003年7月5日


劉表 劉表
リュウヒョウ Liu Biao(142−208)

字は景升。山陽高平の人。江夏の八駿と呼ばれた才子で、立派な容貌の持ち主。霊帝崩御の際に荊州刺使となる。袁紹と同盟関係にあり、孫堅に攻撃を受けるが、孫堅の戦死により撃退。その後は周囲に大きな敵もなく、荊州一帯に安定した政権を確立する。官渡の戦いの際には、袁紹を救援する約束をしながら、傍観。この辺りから乱世の群雄として失格であることが浮き彫りとなっていき、客将の劉備を使いこなせない、袁氏討伐で本拠を空けた曹操の背後を衝けない(官渡で傍観するんだからそりゃ当然)、はては次男に国を譲ったら即刻曹操に降伏してしまい築いてきたすべてが水泡に帰すという結末を迎える。そして平和だった荊州は三国の火薬庫へと急激に変貌していくのあった…。

決してヘボなんかではない、どちらかというと名君の劉表だが、ある意味「英雄」とは対極にいるような人物である。資質としては孫権とそんなに差はないのだろうが、決定的な「何かが足りない」ことが惜しまれる。三国遺跡の宝庫である湖北省(荊州地区)でも、君主であったはずの「劉表ゆかり」の遺跡は皆無である。

人形作成日:2003年12月28日


王允 王允
オウイン Wang yin(137−192)

字は子師。太原祁県の人。道義心に篤く、高名な人物で、豫州刺使を務めたあと、司徒となる。士孫端、呂布らと謀って董卓を暗殺するが、その直後に李カクらの反乱に遭い惨殺される。演義では、反董卓に執念を燃やす老策謀家で、曹操に七星剣を託したり、妓女貂蝉を使って連環の計を実行している。

漢王朝を想い董卓暗殺に踏み切った、忠臣といえる彼であるが、軍事に疎かったことが致命的である。「皇帝」の権威を過信しすぎたのは時代認識が甘かったのだろうか?それとも呂布を味方につければ軍が掌握できると勘違いしたのか(新参者で、涼州出身でもない呂布が董卓軍を掌握できるわけがない)?いずれにせよ、乱世の歯車をさらに加速させてしまったのが彼であるのは間違いないだろう。 人形は「執念の老策謀家」をテーマに作製。だが、当時55歳なら意外と若かった?

人形作成日:2004年8月15日


伏皇后 伏皇后
 フクコウゴウ Fu Huanghou(?−214)

献帝の皇后。本名は寿。琅邪東武の人。献帝が李カクの許にいた頃から、苦楽をともにした。父の伏完に曹操を誹謗する手紙を"以前"書いていたことが発覚し、皇后を廃され、死亡。一族も処刑された。演義では壁の間に隠れるが華キンに引きずり出され、棒で打ち殺されている。

213年に曹操が魏公になり、娘を(3人)献帝に嫁がせており、伏皇后の死の2ヶ月後に皇后になっていることからも、言いがかりをつけて殺戮したとしか考えられない。"以前"書いていた危険な内容の手紙を伏完は処分しないで持っていたのか?…って常識的に考えておかしいでしょ。 人形は、不幸そうにおびえた表情となった(衣装は豪華)。
こんなところにもいた山東省出身の人物。許昌郊外に墓がある。

人形作成日:2004年8月15日


鄭玄 鄭玄
 テイゲン(ジョウゲン) Zheng Xuan(127−200)

字は康成。北海高密の人。古文経典に通じた大学者。「党錮の禁」のため隠遁生活を送る。漢代の経学の集大成者として評価され、その学問は「鄭学」と称された。「党錮の禁」が解けた後は、朝廷に招かれ、大司農まで出世した。演義では、劉備の依頼を受け、袁紹に曹操討伐の兵を起こすようといた書状を書いている。

山東省ご当地名人。高密双羊に鄭公祠がある。隠者であるため、三国武将としては裏街道であるが、なかなかの大人物。地元でもそれなりの待遇を得ているが、いかんせん田舎過ぎてアピールにかけるのが残念なところだ。人形は、イメージに忠実に。温和そうな雰囲気にしてみた。

人形作成日:2004年11月


兀突骨 兀突骨
 ゴツトツコツ Wu Tu Gu(?−225)

孔明の南蛮遠征シリーズのクライマックスを飾る怪物。烏戈国の王。身長3メートル、生きた蛇や獣を喰らい、矢や剣を全く通さない藤甲の鎧をまとう軍団を率いる。もちろん正史には登場しない。孟獲の要請を受け蜀軍と戦うが、「火に弱い」という弱点を衝かれ、孔明の地雷の計にて爆殺された。

エスカレートを続けていった南征編であるが、遂に行き着くところまで行ってしまった感じだ。完全に人間でなくなった相手を倒すための策略が当時の科学技術の限界を超えているのは致し方ないことであろう。人形は、ワイルドさを演出するためにあえて右腕を露わにしている(藤甲の鎧が以外と地味なので…)。

人形作成日:2005年5月22日


盧植 盧植
ロショク Lu Zhi(?−192)
字は子幹。タク郡タク県の人。後漢末の清流派の有名な学者。「党錮の禁」により弾圧を受け、失脚した際に、故郷に戻り私塾を開いており、劉備や公孫サンが門弟として学んでいる。黄巾の乱が起こると、北中郎将として討伐軍を率いた。しかし、宦官の左豊に賄賂を送らなかったため失脚する。のち、復帰して尚書となるが、董卓が少帝を廃するのに反対し、またも失脚した。

曲がったことが大嫌いなお師匠さん、権力に決して迎合することがなかったその人生は、これでもかってほど失脚の嵐が吹き荒れている。毎回復帰するところは流石であるが。一応弟子である劉備に、この「硬骨スピリッツ」が受け継がれたか?は甚だ微妙であるところだが、演義では「清い師匠」「清い弟子」コンビとして劉備の善人像形成に貢献している。
人形は温厚な顔立ちだが輝く瞳に意志が宿る…というイメージを意識してみました。

人形作成日:2006年6月25日

献帝 献帝
 Xian Di(181−234)
本名は劉協。董卓に廃された兄・少帝の後を受けて皇帝となる。傀儡として董卓・李カク・曹操ら有力者に利用され、皇帝としての実権を握ることはなかった。220年、禅譲にて曹丕に帝位を譲り、ここに漢王朝の命運は尽きた。

後漢最後の皇帝となってしまった献帝。それでも天寿をまっとうできたことは奇跡に等しく、実際これは曹操が如何に名君であったかの裏返しともいえないだろうか。人形は威厳と、苦悩を押し隠す無表情を意識してみた。

人形作成日:2008年3月9日

張任 張任

 Zhang Ren(?−214)
蜀郡の人。劉璋に仕えた忠臣。蜀を攻略しにきた劉備と戦う。落鳳坡では、伏兵を配置し軍師・?統を射殺。その後、?城を死守するが、雁橋に出陣した際に劉備軍に捕らえられた。降伏を拒み、斬首される。その忠義に劉備は感嘆したという。

富楽山にて劉璋をまもって剣舞をおこなうシーンが印象的な、蜀の守護神。忠義心は厚かったが、時代は読めなかった硬骨の士。人形は頑固一徹・真面目そうなキャラクターに仕上げた。

人形作成日:2008年9月

顔良 顔良
 Yan Liang(?−200)
袁紹配下の猛将。曹操との雌雄を決する戦いでは、先鋒として白馬に陣を敷くが、関羽によって殺害された。正史ではほとんど活躍の詳細がわからない武将だが、演義では文醜とともに袁紹軍の中核として活躍し、魏続・宋憲を討取るなど大暴れしている。

文醜と、赤青コンビで配色した。猛将であるものの、意外と個性をつけづらかったため、二人セットじゃないと誰だかわからないかも・・・。回郭という場所に、文物保護碑のない墓がある。

人形作成日:2010年1月

文醜 文醜
 Wen Chou(?−200)
袁紹配下の猛将。曹操との雌雄を決する戦いでは、延津にて劉備とともに出陣する。曹操軍が輜重をすてて退却すると、文醜軍は物欲に目がくらみ、劉備の静止も聞かず輜重に殺到する。しかし、これは曹操軍・ジュン攸の罠であった。あわれ、伏兵の手に掛かり、文醜は討取られてしまった。演義では顔良と義兄弟であり、関羽に敵討ちを挑むが返討ちにあって惨殺された。

ゲームでは典型的な猪武者能力とインパクトのある顔グラフィックでお馴染みの人物。人形も、非常に作りやすかった。

人形作成日:2010年1月

李儒 李儒
 Li Ru(?−192)
正史では名前レベルの登場。演義では、董卓の娘婿で、参謀として活躍。悪どい助言で暴政の片棒を担ぐ。貂蝉を呂布に譲るように進言するが、受入れられず、呂布の裏切りを食い止められなかった。董卓死後、捕らわれ惨殺されている。

ネット上で李儒を検索したところ、字は文優とのこと。いい人っぽい字じゃないか・・・イメージが崩れるなぁ。もっと汚い感じであって欲しかったが。人形は悪玉らしく、黒を基調とした色使いと狡猾そうな表情に仕上げた。董卓首塚到達記念として作成、李儒もきっと近くに埋まっている??

人形作成日:2010年1月

位宮 位宮
 Wei Gong(209−248)
第11代目高句麗王で、東川王と呼ばれる。227年に即位。遼東の公孫氏と対立し、238年には司馬懿軍と連携して出兵している。しかし公孫氏が滅ぶと魏と対立するようになり、244年に毋丘倹軍の進行を招く。首都・丸都は陥落したが、位宮は逃げのびることができたため、王朝はその後も存続した。

三国志の舞台のおそらく東北の果てであろう、吉林省集安の主が彼である。丸都山城を含む高句麗遺跡群は世界遺産となっており、中原とは異なる風情を感じることができる。人形もなんとなく朝鮮系のテイストで作ってます。

人形作成日:2011年5月

公孫度 公孫度
 Gongsun du(?−204)
字は升済。遼東郡襄平の人。現地の下級役人であったが、戦乱に乗じて支配を広げ、以降5代にわたる中原からは半独立の公孫氏政権を樹立する。曹操から永寧郷侯に封じられたが、遼東王を自称していた彼はこれに不服であったという。

彼の地元、遼陽市の博物館では古代の支配者として全身像のレリーフが飾られている。また、公孫氏のものであろう漢代の古代墓群も発見されており、なかなかの大物であったことがうかがえるが、パンチ力のある遺跡が見つからなかったのは残念である。人形は博物館のレリーフをモデルに作成。

人形作成日:2011年5月

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