蜀将


劉備 劉備
リュウビ Liu Bei (161−223)
字は玄徳。タク県タク郡の人。若いころは貧乏で筵を売っていたが、人望があり、黄巾の乱で義兵を挙げる。関羽、張飛らと共に各地を転戦し手柄を立てる。のち陶謙から徐州を譲り受けるが、呂布の攻撃にあいこれを失う。袁紹、曹操、劉表など諸侯の元を転々とし客将として扱われる。三顧の礼によって諸葛亮を軍師に迎えたことが転機となり、急速に勢力を拡大、荊州、蜀、漢中と領土を広げる。219年、漢中王となる。しかし呉に荊州を奪われ関羽を失う。221年に帝位につく。自ら呉討伐に向かうが、夷陵で敗れ、直後に病死する。昭烈皇帝と謚された。

このホームページはこの男のためにある!そう、"三劉"の"劉"は劉備からとったのだから。意外と一般的な評価が低いが、三国志の主人公は劉玄徳をおいて他にいない。そのことをこのホームページで証明するのだ!

人形作成日:2000年3月11日


関羽 関羽 
カンウ Guan Yu (?−219)
字は雲長。河東郡解県の人。「桃園の誓い」で劉備、張飛と義兄弟となる。得物の青竜偃月刀で敵将をばったばったと倒した豪傑。劉備に仕え数々の戦功を挙げた。一時やむなく曹操の許へ身を寄せたが、義理を重んじる人柄の彼は劉備の居所が見つかると顔良、文醜の首を置き土産にして曹操の許を去った。劉備入蜀後荊州を任せられた関羽は、219年軍勢を率いて北上。于禁を捕らえホウ徳を斬って中原を震撼させる。しかし背後を呉の呂蒙につかれ、敗北。捕らわれて斬首された。現在では神となり世界各国に廟がある。

以前は三国志で一番嫌いな武将だった。今でも「演義で描かれいる関羽」は到底好きになれないが、公平な目で見るとなかなか彼も魅力にあふれた人物ではないかと思う。とくに、三国志と微塵も関係ないところで関帝廟なんか見つけると心底嬉しかったりする。

人形作成日:2000年3月11日


張飛 張飛
チョウヒ Zhang Fei (?−221)
字は翼徳(益徳)。タク県タク郡の人。武勇に優れ、蛇矛を操る猛将。酒を好み、粗暴な性格で失敗も多い。呂布を目の敵としており、虎牢関では激しい一騎打ちとなる。長坂坡では長坂橋に仁王立ち、曹操の追撃を退けた。蜀取りでは計略を持って厳顔を生け捕りにする。馬超とは三日三晩一騎打ちを繰り広げ、互角であった。漢中争奪戦では敵将張コウを撃破するなど、将軍としての成長ぶりも見られる。しかし、関羽が死ぬと復讐をあせり、部下に寝首を掻かれあえない最期を遂げる。

張飛といえば酒、酒といえば張飛。故郷のタク州でも「張飛酒」というのを売っていたし…。三兄弟の中では張飛が一番好き。人形は出来もよくてお気にいり。

人形作成日:2000年3月11日


諸葛亮 諸葛亮
ショカツリョウ Zhuge Liang (182−234)
字は孔明。瑯邪郡陽都の人。劉備の三顧の礼によって軍師に迎えられる。孫権を説き伏せ赤壁の開戦を決意させる。劉備は彼の策に従って荊州、蜀、漢中と勢力を広げていった。蜀建国後は丞相となり、劉備亡き後は国政を一身に担った。南蛮征伐をして背後を固め、5度にわたって北伐の軍を出し魏と戦うが、中原に進出することはできず、234年、ついに五丈原で陣没した。武侯と謚された。

偉大だ。本当に偉大な人物だ。演義での化け物的イメージより、正史での姿のほうがはるかに胸を打つ。中国では関羽の次に人々から慕われているようで、各地に多くのゆかりの古跡がある(さすがに外国にはないけど)。

人形作成日:2000年1月25日


趙雲 趙雲
チョウウン Zhao Yun (?−229)
字は子竜。常山郡真定県の人。理想的な武人として描かれる。公孫?配下。公孫?滅亡後は放浪のすえ劉備に仕える。長坂坡ではただ一騎で縦横無尽に暴れまわり、阿斗(劉禅)を救い出した。劉備が呉を訪問した際には護衛として同行する。漢中をめげる戦いでも大活躍し、「子竜は一身これ胆なり」と称賛された。蜀建国後は孔明の片腕として従軍した。229年死去。順平侯と謚された。

「欲しいよなあこういう武将」のおそらく筆頭ではないか。かっこいいと言われそうな条件はほぼ全てクリアしているが、「長生き」してしまった点がマイナスで周瑜に負けるかな?

人形作成日:2000年1月27日


馬超 馬超
バチョウ Ma Chao (176−222)
字は孟起。扶風郡茂陵県の人。若いころから非常な武勇を誇った。211年、父馬騰が曹操に殺されると復讐の兵を挙げ、激しく戦った。破壊力のある騎兵で曹操をおいつめ、曹操は袍をぬぎ髯を切って逃げた。しかし「離間の計」で韓遂との仲を裂かれ、敗走する。その後張魯に身を寄せるが最後は劉備に仕える。221年に驃騎将軍となるが翌年死去。威侯と謚された。

蜀に来てからいまいちパッとしないイメージはなんとなく太史慈と重なる。(呂布も含め)彼らのようなタイプは臣下として将軍を務めるのには向いていないのかも。

人形作成日:2000年1月19日


黄忠 黄忠
コウチュウ Huang Zhong (?−220?)
字は漢升。荊州南陽郡の人。長沙の韓玄配下。関羽と互角に戦う腕の持ち主。韓玄亡き後は劉備に仕える。蜀取りの戦いに従軍。定軍山の戦いで夏侯淵を斬り、威名を轟かせる。劉備が漢中王となると後将軍に任ぜられる。正史によるとこの翌年死去。演義では劉備皇帝即位後の関羽の復讐戦で戦死している。謚号は剛侯。

老いてますます盛んな名将として、人民から愛されたと思いつつ、文革で廟がぶっこわされた。不死鳥のごとく復活を望むが、地元住民はそこに黄忠廟があったことを忘れ始めている(特に若い世代)。早く修建しないと埋もれてしまうぞ!!予算回せ!!

人形作成日:2000年3月15日


姜維 姜維
キョウイ Jjang Wei (202−264)
字は伯約。天水郡冀県の人。魏に仕え、蜀との戦いで奮戦するが諸葛亮の策により蜀に降る。諸葛亮の志を継ぎたびたび魏へと出兵するが勝利を得ることができない。剣閣にこもり鍾会に対抗するが劉禅が降伏してしまい蜀は滅亡する。魏からの独立をたくらむ鍾会に降伏したふりをして蜀復興を狙うが、計画が失敗し鍾会と共に乱軍の中で戦死した。

生まれてくるのが遅かった?武将だが、人材豊富な頃だったら案外埋もれてたりするかも。勝ち目のない悲壮な戦いをつづけ、最期はもうめちゃくちゃになってしまった。惜しいことだ。

人形作成日:2000年3月14日


ホウ統 ホウ統 
ホウトウ Pang Tong (188−214)
字は子元。襄陽郡の人。孔明と共に伏竜、鳳雛と称された鬼才。周瑜の功曹をしていたがその死後劉備に仕える。初め県令に任じられたため職務を怠り免官となったが、魯粛や諸葛亮のとりなしを受け、以後は非凡さを認められ副軍師として活躍する。劉備の蜀取りに軍師として参軍するが、成都陥落を前にして流れ矢に倒れる。謚は靖侯。

ずーっと埋もれてて、ようやく才能が開花し始めた矢先に死亡してしまう。天運に恵まれなかったかわいそうな武将だ。個人的には呉で活躍して欲しかった。

人形作成日:2000年1月16日


徐庶 徐庶
ジョショ Xu Shu (?−?)
字は元直。若い頃は任侠を好み、殺人を犯したため単福と名を変えた。学問に親しみ、諸葛亮などと親しく交わる。劉備の軍師に迎えられ曹仁を破るなど活躍するが母を人質に取られたため、やむなく曹操に仕える。しかし生涯曹操のために策を練ることなく才能を埋もれさせた悲劇の軍師。

評価が難しい武将。結局のところ登場回数が少なすぎるのだ。その割には人気があり、中国には廟まであるのだから不思議だ(開店休業に近い状態だが)。

人形作成日:2000年3月13日


蒋エン 蒋エン
ショウエン Jiang Wan (?−246)
字は公エン。零陵郡湘郷県の人。諸葛亮が北伐に赴くと留守を預かり丞相府の事務を執り、後方支援にあたった。諸葛亮亡き後、後継者に指名され蜀の政務をとり仕切る。大将軍、続いて大司馬まで位が上がる。魏攻略を計画するが病に倒れ死去。

無難な奴っていう印象しかない。内政武将が目立たないのは三国志の宿命だが。孔明の後継者にされたら誰だってつらいと思うがよくやった方だろう。人形もイメージ作りに苦心したが、堅実そうな雰囲気に仕上り納得。

人形作成日:2000年1月26日


魏延 魏延
ギエン Wei Yan (?−234)
字は文長。義陽郡の人。裏切りの相「反骨」の持ち主。蜀の武将として活躍するが、自己主張の強い剛毅な性格で楊儀とは犬猿の仲。孔明の死後楊儀との仲違いで反乱を起こし命を落とす。でもこれって裏切りとはどうしても思えない。「反骨」の話はいったいなんなのさ?

これだけ活躍しても人気に全くつながらないというのも不思議だ。墓もあったが廃され、墓前にあった石馬一つだけが漢中の博物館にひっそりと残っている。でも、なんとなくうっとおしさが鼻につくのは理解できる気がする。

人形作成日:2000年6月18日


劉禅 劉禅
リュウゼン Liu Shan (207−271)
字は公嗣。幼名は阿斗。劉備の息子で蜀の2代皇帝。凡庸、暗愚な人物。劉備亡き後、蜀は孔明が政治をとり、劉禅は祭祀を担当という(つまり棚上げってこと)分業がなされ、それなりにうまくいっていた。しかし孔明死後は寵妃に溺れ、宦官を重用して朝廷を乱し、亡国を招いた。

三国志で最も無能な人物として有名。かわいそうなことに2人の皇后はすべて張飛の娘(おえーっ)。寵妃に溺れるのも納得かも。世襲がよくないことの代表例がここにある。日本でも2世議員が当選してるが、第二の劉禅がいないとは言いきれない。

人形作成日:2000年7月15日


夏侯覇 夏侯覇
カコウハ Xiahou Ba(?−?)
字は仲権。夏侯淵の息子。父を殺した蜀を憎み、西方の対蜀最前線の将軍を務める。兵士をかわいがり、異民族をよく手なずけた。征蜀将軍まで出世するが、司馬氏のクーデターが起こり、身の危険を感じた彼は蜀へと亡命する。演義ではその後、姜維の副将格として活躍している。

父の仇であるはずの蜀に亡命するという、なんか節操のない事をした奴。所詮かわいいのは我が身か?わたわたの希望により人形が作成された。そうでなければ彼をとりあげるのは随分と後のことだったに違いない。

人形作成日:2000年7月30日


周倉 周倉
シュウソウ Zhou Cang(?−219)
字は不明。正史には登場しない、架空のキャラクター。山賊をしていたが関羽にほれ込み、配下となる。関羽のお供として常に側で活躍し、単刀の会では魯粛をののしる。関羽が水攻めで于禁、ホウ徳を破ったときには「水泳が得意」な彼はホウ徳を生け捕っている。関羽が死ぬと後を追って自刎した。

関帝廟に必ずいる人物。そこらの実在武将よりもはるかにメジャーな存在だ。“関羽の赤兎馬は1日1000里を走ったが周倉の馬は900里を走った”と言ったような民間の逸話も多い。

人形作成日:2000年8月13日


法正 法正
ホウセイ Fa Zheng(176−220)
字は孝直。扶風郡の人。飢饉を避けて蜀に移り、劉璋に身を寄せた。張松と共に劉備を迎え入れる計略を立てる。この策があたり、劉備は蜀を獲った。曹操との漢中攻防戦では夏侯淵を破る策を立て、手柄を立てる。彼は謀略には非常に長けていたが、以前の些細な怨みにも復讐して数人を殺すといったことをしており、人格は悲惨だったようだ。謚は翼侯。

どうもこの人物は好きになれない。有能だけど、はっきり言って人間のクズ。しかし大きな手柄をたて、天寿をまっとうしてるんだよなあ。世の中そんなんでいいのか?

人形作成日:2000年8月5日


張包 張包
チョウホウ Zhang Bao(?−?)
張飛の息子。若くして死んだため字すら残っていない。そんな彼も、演義では大活躍!!義兄弟となった関興とともに、父の形見の蛇矛を得物に大暴れ。夷陵の戦いから南蛮征伐、北伐へという従軍の流れ、活躍は関興とほぼ一緒。違うのは最期。病死の関興に対して彼は落馬して頭を負傷、傷がいえずに死去している。

この人物も、完璧な親の七光り。何しろ史実には名前しか残ってないのだから。演義では蜀ファンの夢を乗せて関興とともに大活躍だが、ふたりとも人物としての個性の掘り下げが物語上で全くなされておらず、魅力を感じない。

人形作成日:2000年10月16日


関興 関興
カンコウ Guan Xing(?−?)
字は安国。関羽の子。正史ではほとんど名前のみの登場だが、演義では大活躍。父の仇の潘璋を討ち取り、孔明の北伐でも手柄を重ねる。ピンチになると何故か関羽の霊が登場し、窮地を脱することができており、演義において関羽の威光は絶対であることを読者に見せつけている。孔明よりも先に死去。

親の七光り、ここに極まれり!!関羽の息子でなければ誰も彼について見向きもしなかったろう。ここまで関羽万歳!!ってやられちゃうと逆に醒めてしまう。人形は台湾で買ったトランプの絵柄がモデル。

人形作成日:2000年10月16日


厳顔 厳顔
ゲンガン Yan Yan(?−?)
蜀の将軍。劉備の蜀取りで張飛と対決する。こともあろうに張飛の計略に破れ、城は陥落するが、張飛の降伏勧告に対し「我が軍には首を切られる将軍はいるが敵に降伏するやつなどいない」と啖呵をきる。感激した張飛が敬意を持って接したため結局は蜀将となり、管轄下の諸城を帰順させた。定軍山では黄忠と「老将コンビ」として活躍もしている。

このじいさんはどうも・・・・・・。「断頭将軍」の逸話もカッコいいようで結局は降伏しているのでなんだかなあだし。非常に単純な性格だったのだろうか。人形は、斬新な配色にしたつもりがかえって裏目、毒々しい人形になってしまった。

人形作成日:2000年8月12日


馬良 馬良
バリョウ Ma Liang(187−222)
字は季常。襄陽郡の人。「馬氏の五常、白眉もっともよし」と評された秀才。孔明の親友(もしくは義兄弟?)。劉備が荊州をとると臣下に加わる。文章を書くのに巧みであった。劉備が帝位につくと侍中に任命された。夷陵の戦いに参加し、武陵の異民族を帰順させる攪乱工作を行うが、陸遜の火攻めに遭い戦死をとげる。

優秀だったはずであるが印象に残るような見せ場はなく、関羽と碁を打っているシーンばかりが思い浮かんでしまう。演義では夷陵の後も生き残るが、活躍も登場もほとんどないまま舞台を去っている。生かしといた意味は何なのだ?三国志には不完全燃焼の登場人物がけっこう多く、それはそれで妙にリアルに感じられる。

人形作成日:2001年3月18日


費イ 費イ
ヒイ Fei Yi(?−253)
字は文偉。江夏郡の人。若いころ益州に遊学し、そのころ蜀を平定した劉備配下となる。蜀建国後、呉へ使者に赴き孫権から高い評価を受けた。孔明亡き後は蒋エンとともに後継者として政治の中枢をになった。宴会や博打などを好む遊び好きな面もある。最期は宴会で酔いつぶれたところを魏の降将・郭循に刺殺された。偽りの降伏をした刺客と思われる。敬侯と諡された。

政治家としての力量は卓越したものがあったようであるが、蒋エンには及ばなかったと個人的には評価している。その証拠は……墓である!!地元の看板名所となっている蒋エン墓に比べ、費イのは墓碑のみ。同じくらいの名声がありながら、この差は何?

人形作成日:2001年9月1日


鮑三娘 鮑三娘
ホウサンジョウ Bao Sanninag(?−?)
謎の武将、関索の妻。いわゆる伝説の人物、というよりも物語の登場人物というべきであろうか。「鮑家」の荒くれ娘として有名だったようで、関索と一騎打ちをおこなうがあっさり敗れる。勝負後、愛情が芽生えたか(?)即、結婚。その後は葭萌関の守備にあたっていたらしい。

……と、いうのがインターネットなどで調べた彼女の情報であるが……。知りません、こんな人。っていうか、こんなキャラの墓が何故ある?人形もイメージを抱ける(絵的)資料は皆無。珍しい女性武官として製作自体は割合楽しめたが、正直言って何者だかやっぱりわからんぞ。

人形作成日:2001年10月1日


関平 関平
カンペイ Guan Ping(?−219)
字は不明。関羽の子。正史では麦城で関羽とともに斬首された、の記述のみ。演義では関羽の養子として登場し、しばらくは劉封と「養子コンビ」として従軍。荊州太守となった関羽に付き従い、脇を固める。関羽の北伐に従い魏軍と戦い、堅実に父をサポートする。が、呉に背後を突かれ、父ともども捕獲され、斬首される。

関羽の息子、ただそれだけ。登場の機会が多い割には見せ場はほとんどなく、没個性。ある意味「理想的な孝行息子」という人物像なのであろう。露払いコンビ(?)の周倉があれほどいいキャラクターとなっているのに、意外だ。

人形作成日:2001年12月31日


李福 李福
リフク Li Fu(?−?)
字は孫徳。梓潼郡の人。劉備が益州を支配した際に配下に加わる。巴西太守、揚威将軍など歴任し、平陽亭侯となる。孔明が臨終の際に、成都から李福が派遣され孔明の遺言を聞き後継者の情報を得る。っていうか演義での登場はその場面のみ。正史での事跡も履歴書程度でしかなく、人物像はよくわからない。

誰?この人。って感じだが、彼こそは知る人ぞ知る郷土の英雄、綿陽市の「漢平陽府君蕨」の主である!!我々が当地を訪れたときは博物館(になるらしい)の工事中で入れなかったが。人形は、資料もイメージもさっぱり。不安そうな顔つきなのは孔明が臨終のため。

人形作成日:2001年2月12日


黄夫人 黄夫人
コウフジン Huang Furen(?−?)
襄陽の名士、黄承彦の娘。孔明の妻。ある時、黄承彦が孔明に言った。「君は妻を捜しているというが、私に醜い娘がいる。赤毛で色黒だが、才知のほうはきみとお似合だ」かくて孔明の許に嫁いだという。このことは当時人々の物笑いの種となった。孔明死後ほどなくして死去したとされる。人物の詳細は全く不明だが、彼女に関する民間伝承は非常に多いようである。

…ってな訳でとってつけたような赤毛にしてみました。一応知的な顔にしたかったのだが、うまくいっていません。色黒とは知らなくて後の祭り。ただ言えるのは、赤毛にしただけで三国志的にかなりの違和感。これだけでも当時において「醜い」と評される理由として充分かもしれない。03年カレンダー用に無理やり作った納得のいかない一品。たまにはあるさ、こういう事も。

人形作成日:2002年12月21日


馬岱 馬岱
バタイ Ma Tai(?−?)

西涼の馬一族の一人に連なり、馬超のいとこ。馬超に付き従って蜀入りする。正史には彼についての細かい記載はないものの、諸葛亮死直後の混乱時に魏延を討ち取っており、最終的には平北将軍まで出世しているなかなか有能な人物。演義でもいぶし銀の将軍として地味ながらも着実な活躍が光る。

馬超が蜀でほとんど活躍せず死去してしまったため、馬岱は西涼ファンの期待を一身に背負って活躍しているのだろう。狂人じみている馬超よりも、個人的には彼のほうが好きである。人形も「いぶし銀」をキーワードに作製。もみあげがチャームポイント?だが、これは作成中手が滑って絵の具をつけてしまったのが、意外といいかも?と感じこうなった。

人形作成日:2003年10月


許靖 許靖
キョセイ Xu Jing(?−222)

字は文休。汝南平與の人。従兄弟の許劭とともに、人物評価で知られた人物。初めは中原で活躍するが、戦乱を避けて交州へ移住。後に劉璋に招かれ、蜀入り。劉備が蜀を支配し、漢中王となると、太傅に任命される。蜀では文官の重鎮として、孔明と双璧を誇る人物である。演義では即位関係の話になると活躍する。

ということで、意外と流浪の士であった許靖。もと中原の教養人だけあって、蜀では貴重な人材だった模様。とはいえ、個人的にはほとんど興味も思いいれもない人物なもので…。人形は04年カレンダー用に無理繰り作ったものの、あまり特徴のない出来。

人形作成日:2003年12月


王平 王平
オウヘイ Wang Ping(?−248)

字は子均。巴西の人なので、もとは蜀出身。魏に仕え、曹操の漢中征伐に従軍するが、このとき劉備に降る。演義では徐晃の副将で、徐晃が「背水の陣」を敷くのを諌めるが却下され、あえなく敗北し、命が危うくなって降伏という流れである。蜀では、第一回北伐で、馬謖の副将として従軍。山の上に陣を張る馬謖を諌めるが却下され、あえなく敗北。しかし敗兵をよくまとめ退却した。その後も主要な戦いには従軍している。字は書けなかったが、論理はわきまえており、法律・規則を遵守して冗談は一切言わない、という人柄。鎮北将軍まで出世している。

正論で諌めても聞いてもらえない可哀相な副将キャラ。経験は豊かだとしても、教養がなく軽く見られてしまうのだろう。馬謖とのコンビなんか、二人のタイプ的に上手く機能するはずのない組合せである。後半生はちゃんと将軍になって、周りに言うこと聞いてもらえて活躍でき、墓も残っているのだから、まあ報われたかな?人形は真面目一徹の苦労人イメージで作製。

人形作成日:2005年10月2日


呂凱 呂凱
リョガイ Lu Kai(?−?)

字は季平。永昌郡不イの人。秦の頃、呂不イの子孫が当地へ移住したことから地名となっている。多分彼も子孫なのであろう。劉備死後、雲南で雍ガイが反乱を起こす。永昌は蜀との連絡が絶たれるが、呂凱と王伉の二人は孤立した中でよく守り、孔明が南征に来るまで持ちこたえた。この功績により、雲南太守に任じられたが、蛮族が反乱を起こした際に殺害された。演義では、孔明に「平蛮指掌図」なる南蛮の地図を献上し、南征の道案内役を務めている。

文官のイメージがある彼だが、実際に際立つのは永昌の防衛戦であり、かなりの指導力があったと思われる。そのため、「骨太」なイメージで人形を作成した。もちろん、地図も持たせてある。現地では現在でも慕われているようで、彼の点将台が現存する。

人形作成日:2006年5月18日


馬謖 馬謖
バショク Ma Su(190−228)

字は幼常。馬良の弟。人並みはずれた知恵者、孔明の寵愛を受けた。孔明の南征にあたっては、「心を攻めるのが上策」と進言し、孔明はその策を容れて南蛮征伐を成功させた。演義では、偽報にて司馬懿を都に召還させている。そして、運命の228年、孔明の生涯をかけた北伐にて、馬謖は先鋒に抜擢される。しかし、街亭にて命令に背いて山の上に陣取り、水の手を絶たれ惨敗。敗戦の責任により、刑死。「泣いて馬謖を斬る」の故事成語を生んだ悲劇となった。

なぜ、孔明は馬謖を斬らねばならなかったのかー。いろいろと理由はあると思うが、興味深いのが、向朗伝に記述されている、「馬謖逃亡」事件。馬謖は、敗戦の後、逃亡するが捕まり、投獄の末、死罪となったという流れのようである。また、孔明は馬謖を寵用しすぎており、周囲の意見に反して抜擢した手前、敗戦時には厳罰に処さねば示しがつかなかったということも言えそうだ。孔明、人生痛恨の人材起用ミスである。
人形は、才気走った若者をイメージ。頬を紅くしてみたところ、何だか「可愛ゆく」なってしまった…。

人形作成日:2006年5月18日


横造先生 李厳
リゲン Li Yan(?−234)
字は正方。のち改名して、李平と名乗る。またの名を「横造先生」。結構異称の多い人物と言えそうだ。南陽の人。劉璋配下であるが、劉備が蜀へ侵攻してくると帰順した。順調に出世を重ね、興業将軍、尚書令を歴任、劉備没時には孔明とともに後事を託される。その後も、驃騎将軍に昇進・漢中の政務を取仕切るなど、絶大な権力と信頼を得た。しかし、231年の北伐にて、軍需輸送一切を任された李厳は天候不順のため輸送の任が果たせず、それによって孔明は退却に追い込まれた。李厳は偽りの上奏をおこない、孔明に責任をなすりつけようとするが、通用するはずがない。激怒した孔明に弾劾され、平民に落され梓潼に流された。

彼こそが、「横造無端(根拠のないでっちあげ)」な人物として平民に叩き落された、"横造"李平先生である。国家のNO.2の座から平民への転落っぷりは、三国志髄一の降格事件といって間違いないだろう。<彼の逸話はこちらをクリック>
我々も人形を作って戒めとしよう。「再不可横造無端…、再不可横造無端…!」
雰囲気がなんとなく袁術に似ているような…同類か?

人形作成日:2006年6月25日


麋竺 麋竺
ビジク Mi Zhu(?−220?)

字は子仲。東海郡の人。小作人を一万人抱えるという大富豪。徐州牧・陶謙に仕える。陶謙死後は劉備に仕える。劉備が呂布に敗れ領土を失った際に、麋竺は妹を嫁がせ、莫大な軍費と2千人の人手を支援して劉備を支えた。曹操が彼に官職を与えたが麋竺は拒否して劉備に従い各地を転々とした。劉備が蜀を取ると安漢将軍に任命された。人を統率することは苦手で、軍を率いることはなかった。弟の麋芳が呉に寝返り関羽を死に追いやると、麋竺は怒りと恥辱のあまり病を発し1年余りで亡くなったという。

曹操を拒み、劉備に賭けた徐州の志士。正史では、劉備が”敗戦し困窮した”際に家財をなげうって支援しており、この決意のすさまじさに震えすら感じる。彼をここまで心酔させた劉備の魅力は余程のものだったのだろう。軍の統率にあたったことはなく、民政官としての実績も一切ないため、実務上は「何もしていない」人物である。まさに「財力」と「投資」こそが彼の存在価値であったのだろう。
人形は温厚そうな富豪イメージで。

人形作成日:2007年6月30日


ショウ周 ショウ周
ショウシュウ Qiao Zhou(201−270)

字は允南。巴西西充の人。素朴で誠実、機転を利かせた弁論は苦手だったが、内に見識を秘めていた。典学従事という学者を束ねる役職を務める。のち光禄大夫に昇進。暗愚な劉禅を諌め、戦で民衆が疲弊しているのを見かねて「仇国論」を著作したがいずれも空振りとなり、蜀は滅亡へと転落していく。ケ艾の軍勢が成都に迫った際は、降伏を勧め、無血開城に貢献した。三国志の著者である陳寿は彼の弟子である。

蜀のための諫言・助言をすべてスルーされた。口下手教養人。自分の死期を占ったという逸話があり、私の中では占い師イメージが非常に強かったため、人形でも占い道具を持たせ、表情は内向的な雰囲気にしてみた。私としてはイメージばっちり!な出来なのだが、そもそも“ショウ周のイメージ”って何なんだか?

人形作成日:2006年12月


寥化 寥化
リョウカ Liao hua(?−264)

字は元険。襄陽の人。劉備臣下に加わり、関羽とともに荊州を守る。荊州が呉の手に落ちた際は、自分が死んだという偽の噂を流し、脱出する。その後も孔明や姜維配下で地道に活躍し、蜀滅亡まで戦い抜いた。最終的な官位は右車騎将軍。
演義では、山賊として登場する周倉の手下として登場する。

小物だが登場機会の多い人物。これといった個性がないので、小回りがよくすばしっこい「ネズミ」イメージして作成。かなり手抜き感が滲み出ている感じになってしまった…。

人形作成年月:2008年9月


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