魏将


曹操 曹操 
ソウソウ Cao Cao (155−220)
字は孟徳。予州沛国ショウ県の人。軍事、政治、文学とあらゆる方面にその才能を発揮した傑物。196年に献帝を迎え、大義名分を得る。呂布、袁術、袁紹などのライバル諸侯を倒し、中原に覇権を確立する。非常に人材を愛し、幾多の優秀な人物が幕下に集まった。赤壁の戦いでは敗れたもののその後立て直し、馬超、劉備、孫権らと争いつつ丞相、魏公、魏王と位を上げていった。220年死去。武皇帝と謚された。

魏の建国の英雄だが、演義ですっかり悪役にされてしまってあまり人気がない。しかし、その能力、器のでかさは劉備なんか問題じゃないくらいすごいと思うんだけどなあ。彼の故郷では「曹操の町」としての建設が強化されているが、成功するだろうか?

人形作成日:2000年1月27日


荀ケ 荀ケ 
ジュンイク Xun Yu (163−212)
字は文若。潁川郡潁南県の人。「王佐の才」があると評された人物。曹操に仕え、軍師として数々の献策を行った。人を見る目があり、郭嘉、司馬懿、陳羣など有能な人物を多く推挙した。官渡の戦いでは、後方の守りを担当し弱気になる曹操を手紙で励ました。しかし曹操が魏公の位につくことに反対し、曹操との信頼関係にひびがはいる。その直後、病気を発し、憂悶のうちに逝去した。敬昭侯と謚された。

曹操の幕僚は多くいるが、荀ケがNo.1なのは間違いないと思う。自分の理想にまっすぐ生きた姿は見習うべきものがあるよね。でも空箱送られて自殺するのは深読みし過ぎなんでは。そんな理由で自殺したのは世界で彼一人に違いない。

人形作成日:4月15日


郭嘉 郭嘉
カクカ Guo Jia(170−207)
字は奉孝。潁川郡陽テキ県の人。曹操に最も愛された名参謀。優れた見識を持ち、分析力にも非凡なものがあった。曹操と袁紹を比較し、曹操の10の勝因について述べた。呂布討伐の際には水攻めの計を進言し、結果呂布を虜にした。官渡の戦いの後に、曹操の北征に従軍し、袁氏討伐、烏丸平定にそれぞれ大きな役割を果たした。しかし風土病にかかり、都に戻ることなく死去した。

清い荀ケとは対照的に人格が崩れ気味な郭嘉。やっぱり天才はどこかしらおかしな面があるのか?ってことは私も天才!?

人形作成日:2000年1月4日


司馬懿 司馬懿 
シバイ Sima Yi (179−251)
字は仲達。司隷河内の人。魏に仕える。軍指揮官として活躍し、孟達を倒し、諸葛亮の北伐をしのぎ、遼東の公孫淵を討伐するなど、その軍功は抜きん出ている。朝廷内の権力闘争をしたたかに勝ち抜き、当時実権を握っていた曹爽をクーデターで倒し政権を掌握する。のちに彼の孫である司馬炎が晋を建国し、三国を統一した。謚は宣帝。

何故か?曹操に輪をかけて人気がない彼。これだけ有名なのに、司馬懿人形は中国のどこを探しても売ってない。ゆかりの名勝古跡もあんましない気がするぞ。だいたいなあ、首がぐるぐる回ったり(狼顧の相)、食べ物をびちゃびちゃこぼしてボケ老人のふりしたりと、聞いてて気分悪くなるような話が多すぎるんだよ!あんたは!!

人形作成日:2000年3月12日


張遼 張遼
チョウリョウ Zhang Liang (?−224)
字は文遠。雁門郡馬邑県の人。魏の名将。初め呂布に仕えるが、呂布の死後曹操に降る。関羽と仲が良く、曹操との仲介役を務める。合肥の守備を任され、攻め寄せてきた孫権の軍勢を奇襲でさんざんに打ち破り、勇名を轟かせる。呉では、張遼の名前を聞いただけで子供が夜泣きをやめる程であった。前将軍となる。対孫権最前線の司令官を長年務め、任地で亡くなった。謚は剛侯。

でました!名将の鑑・張文遠!!三国志に出てくる中でも屈指の戦上手の彼だが、私としてはやはり甘寧を支持する。

人形作成日:2000年1月19日


張コウ 張コウ
チョウコウ Zhang He (?−231)
字は儁乂。河間郡の人。もとは袁紹の武将だが、官渡の戦いで曹操に帰順する。以後将軍として活躍する。蜀との戦いで奮戦し、街亭の戦いでは馬謖を破る。魏建国後、平西驃騎将軍に昇る。魏の名将として孔明から最も警戒された。しかし最後は孔明の計略にはまり、木門道で伏兵にあい矢を受けて戦死。壮侯と謚された。

いつも前線で活躍して登場も多いのに、なぜか私の中では印象が薄い。負けるときは結構派手に負けてるし、意外と評価のしづらい奴だな。第一線で30年間くらい戦いつづけたのは立派。継続は力なりということかな。

人形作成日:2000年4月23日


許チョ 許チョ
キョチョ Xu Chu (?−?)
字は仲康。曹操と同郷で、その護衛を務める。とにかく強い彼は、戦のある毎に暴れまわっている。馬超と互角に渡り合った。彼は武勇には優れていたものの、ぬぼーっとしていたことから「虎痴」と呼ばれた。武衛将軍まで昇進し、明帝(曹叡)の時代に亡くなった。壮侯と謚された。

このキャラクターは濃い。スカッとわかりやすい腕力勝負、脳みそパー。こんなナイスな奴が実在するところからも、中国の奥深さが窺い知れるというもんだ。

人形作成日:2000年1月13日


夏侯淵 夏侯淵
カコウエン Xiahou Yuan (?−219)
字は妙才。曹操の従兄弟。勇気があり、優れた軍指揮官。曹操が挙兵すると彼に付き従って各地を転戦した。馬超、韓遂との戦いで手柄を立て、仮節を授かる。漢中の守りにあたるが、定軍山で黄忠に斬られ、戦死。曹操はかねがねその性急な性格を戒めていたと言う。謚は愍侯。

個人的にはこういうわかりやすい人物は結構好きなんだけど、ゲームとかではほとんど使ってないのが不思議。曹操と血縁関係があるのが原因かな?

人形作成日:2000年3月15日


ケ艾 ケ艾
トウガイ Deng Ai (?−264)
字は士載。義陽郡棘陽県の人。魏末期の名将。司馬懿に見出され、若い頃は田畑の整備や屯田に力を発揮する。西へ赴き、蜀の姜維の侵攻を防ぐ。征西将軍となり、蜀征討にあたる。間道をつたって行軍し、綿竹を陥落させる。劉禅の降伏を受け成都入りを果たすが、反乱の疑いをかけられて捕らわれ、衛カンの手の者によって殺害された。

どもりに地図マニアと、この人物の個性もなかなかだ。しかし、なんといっても蜀を落としたという軍功は際立っている!!しかし、手柄が大きすぎたことが命取りになるわけだから人生わかんないもんだね。”ケ”の字は以前は日本のワープロにない漢字だったが、ケ小平のおかげで遂に登録を果たした!!

人形作成日:2000年1月22日


徐晃 徐晃
ジョコウ Xu Huang (?−227)
字は公明。大斧の使い手。河東郡楊県の人。慎重な性格で、堅実な軍の動かし方をした名将。楊奉に仕えた後曹操に帰順し、各地を転戦する。きっちりと功績を積んでいるが、意外と華々しい場面に欠ける武将である。関羽が北進してくると、樊城への救援に駆けつける。彼は関羽とは互いに尊敬し合う仲だったが、戦には私情をはさまなかった。魏建国後ひっそりと死去。

理由は特にないけどどっしりとしたイメージで、強いんだけどどうもぱっとしない感じだ。演義は蜀びいきのため、魏の武将がかすみがちな気がするぞ。あと、”徐晃の牛”って言葉を聞いたことがあるけど、由来も意味もよくわからん。誰か知ってる人がいたら知らせていただけませんか?
はるか昔に作った人形の出来が納得いかなかったため、再度作製。やっとらしくなった。

人形作成日:2003年4月


程c 程c
テイイク Cheng Yu(?−?)
字は仲徳。東郡東阿県の人。曹操の軍師の一人。曹操が遠征するときは留守を預かり、拠点を死守している。倉亭の戦いでは「十面埋伏の計」を進言し、袁紹軍を散々に打ち破った。強情な性格で他人と衝突することが多かった。衛尉まで出世した。曹丕即位後、80歳で死去。謚は粛侯。

荀ケや郭嘉と比べても地味だし、徐庶をニセ手紙ではめたりとどうも暗いイメージが漂う。あんまり人気もなさそうだ。ある意味典型的な魏の武将って感じかも?

人形作成日:2000年7月2日


賈ク 賈ク
カク Jia Yu(?−?)
字は文和。武威郡の人。智謀と策略に長けた武将。董卓、李カク、張繍に仕える。曹操を計略によって二度打ち破る。その後張繍とともに曹操にくだり、重用される。離間の計で韓遂と馬超の仲を裂くなど、見事な策謀をみせる。また、処世術にも長けていた人物である。太尉まで出世した。77歳で死去。謚は粛侯。

計略王というにふさわしい人物。彼は人の心理をよく読んでいて、だからこそ計略も冴えわたったのだろう。すごい人物として、高く評価をしているが、なぜかなりたいとも見習おうとも思わなかったりする。

人形作成日:2000年7月1日


典韋 典韋
テンイ Dian Wei(?−197)
陳留郡己吾県の人。悪来の異名を持つ勇者。双戟を操り、並外れた腕力をほこる。曹操の護衛を勤め、呂布との戦いでは劣勢の中「短戟投げ」で多くの敵を倒し、威名を挙げた。降伏したはずの張繍が背いて曹操を急襲した際に、曹操を守って奮戦するが、壮絶な討ち死にを遂げた。曹操はその死を大いに悲しんだ。

強さが尋常じゃない。おそらく腕力なら三国志でトップではないだろうか。まさにボディーガードの決定版だ。活躍期間が短いものの、鮮烈な印象を残してくれる武将だ。だが、将軍として一軍を率いる適正は低そうだ。

人形作成日:2000年7月30日


夏侯惇 夏侯惇
カコウトン Xiahou Dun(?−220)
字は元譲。曹操の親戚筋にあたる。魏の重鎮。曹操につきしたがって幾多の戦を戦い抜いた。呂布との戦いで左目を負傷し、そのため「盲夏侯」と呼ばれた。曹操からも別格として扱われている。曹丕が帝位につくと大将軍に任命されたがほどなく死去。忠侯と謚された。

夏侯惇といえば目ん玉喰い、目ん玉喰いといえば夏侯惇。サル所有のトランプでも夏侯惇はほぼこのシーンだ。人形は素晴らしく良く出来た!と思いつつ、重大なミスをしていたことに気づいた。眼帯が逆……。

人形作成日:2000年8月6日


ホウ徳 ホウ徳
ホウトク Pang De(?−219)
字は令明。南安郡の人。馬騰軍随一の武勇を誇る。馬騰死後は馬超に仕え曹操と戦う。敗北後は馬超に付き従って張魯へと身を寄せる。病気のため馬超の遠征には参加せず、張魯が降伏したため魏の臣となる。219年、関羽の北上を止めるべく出陣し、激闘を演じるが水攻めにあい、捕虜となる。降伏を潔しとしなかったため斬首された。

勇者と呼ぶにふさわしい武人。棺桶を用意して出陣し、関羽と堂々と渡りあった彼の豪傑ぶりはすさまじい。于禁と彼、この戦いで後の評価がくっきりと分かれてしまった。人生最後まで油断は禁物だ。

人形作成日:2000年8月13日


鐘会 鐘会
ショウカイ Zhong Hui(224−263)
字は士季。鍾ヨウの末子。幼い頃から才気あふれていた、典型的な早熟児。毋丘倹の反乱の討伐に軍師として参陣した。司馬氏の政権の中でも謀士として活躍している。鎮西将軍として蜀攻略の総大将となるが、剣閣で姜維の抵抗に遭い、ケ艾に先を越されてしまう。成都入りすると大軍を掌握し、ケ艾を更迭して独立をもくろむが、反乱に遭い殺害された。

危険な人物。切れ味が鋭すぎてかえって身の破滅を導いてしまったかのようだ。諸葛恪がイメージ的にダブるが、どっちもろくな死に方してないぞ。なぜだ?エリートってのはいかんものなのか?

人形作成日:2000年8月14日


曹丕 曹丕
ソウヒ Cao Pi(187−226)
字は子桓。曹操の跡取り曹植との後継者争いに勝利し太子となり、曹操の死とともに魏王に上る。年内にはすかさず献帝から禅譲を受け皇帝に即位。後継者争いをしたためか兄弟を冷遇している。政治家としてはまずまず有能で、文学者としても才能があったようだ。しかし、即位後わずか5年ほどで死去。諡は文帝。

明るさのない陰険な人物。軍師も司馬懿で、二人合わせて加速度的にさらに陰険。最も困るのが正史での文帝紀。上奏文とか注とか多すぎてつまらーん!!それなりに優秀だが、乱世の英雄としては明らかに力量不足である。

人形作成日:2000年8月12日


曹仁 曹仁
ソウジン Cao Ren(168−223)
字は子孝。曹操の従弟。曹操に従い各地を歴戦。曹操と袁紹が官渡で対峙していたころ、袁紹は劉備を使って後方攪乱をおこなったが、曹仁は騎兵を率いてこれを打ち破っている。赤壁の後、周瑜と江陵で激戦を演じる。馬超討伐に従軍したのち、征南将軍に任じられ荊州の守備に当たり、関羽の猛攻をなんとか凌ぎきる。魏建国後は大将軍、大司馬と軍人としての最高位へ昇進した。

周瑜、関羽から攻撃を受けているため、守りの将軍としてのイメージが強い。戦った相手が人気どころの英傑であるため、どうしても敵役になってしまう。しかし、曹操の覇道を支えたのは彼ら一族の優秀な軍事力である。

人形作成日:2000年10月1日


衛カン 衛カン
エイカン Wei Gan(220−291)
字は伯玉。河東郡の人。ケ艾、鍾会の蜀征伐の際に「監軍」(軍目付)として出陣。成都はケ艾によって陥落、遅れをとった鍾会はケ艾を誣告したため、彼はケ艾を捕らえ、囚人護送車で護送する。護送中に鍾会が自滅し、ケ艾の疑いは晴れたが、彼は復讐を恐れケ艾を殺害した。晋の時代に司空まで出世している。実は書道の達人らしい。

ケ艾の息の根を止めた男。この行為は彼個人にとっては非常にマイナスイメージである。正史を見るにケ艾も独立の意思を持っていたらしく、魏の危険な有力武将をどさくさで抹殺した事は「晋」建国に当たっては大きかった気がする。影の功臣か?人形はちょっとおどおどした雰囲気に作ってみた。

人形作成日:2000年12月31日


楽進 楽進
ガクシン Yue Jin(?−218)
字は文謙。陽平郡衛国の人。曹操の勇将。小柄だが肝っ玉が強く、いつも先鋒として敵陣に斬り込んでいる。袁紹との戦いでは淳于瓊を斬り勝利に貢献している。功績により折衝将軍となる。その後も荊州、呉方面と常に最前線で活躍。右将軍に昇進するが、218年死去。諡は威侯。正史では面白いエピソードが皆無。演義では、ひそかなる弓の名手として活躍するが、甘寧に射られる。

魏の特攻隊長・楽進。かなりの実力の持ち主だが、惜しいことに見せ場がない。ばかりか、他人の見せ場の餌食となり(甘寧、楽進を射て凌統と和解)ますますイメージが冴えないものに。非常に損をしている人物だ。人形は配色が絶妙に決まり会心の出来。本当は弓を持たせる予定だったが…。

人形作成日:2002年2月12日


曹植 曹植
ソウショク Cao Zhi(192−232)
字は子建。曹操の子。幼少より文才に優れた曹操のお気に入り。特に詩の才能は天才・曹操を凌ぐ。彼を後継者にしたい楊修ら派閥とともに曹丕と後継者争いを繰り広げるが敗れる。そのため兄からは冷遇され、中央の政治から遠ざけられた。曹植は任地から何度も政策に関する意見書を送っているが、黙殺されている。そして心落ち着かぬまま41歳で死去した。諡は思王。

曹植といえばなんといっても「七歩之詩」のエピソードが浮かぶ。紛れもない天才であることは疑う余地がないだろう。人形もイメージがばっちりと決まり納得の出来。今年の夏は、山東省にある曹植墓を目指す!

人形作成日:2002年4月某日


何晏 何晏
カアン(190−249)HeAn
字は平淑。大将軍・何進の孫。宮中で育ち、公主を娶るなど曹一族とは深い縁故がある人物。自己愛が強く、化粧道具を手から離さず、歩く時にも自分の影を振り返り眺めるほどだった。曹爽の腹心として尚書に任じられる。司馬懿を排除するよう策謀をめぐらすが、クーデターにあい、曹爽もろとも殺害された。名高い教養人だったようだが、司馬氏と敵対したこともあり後世の史書の彼に対する評価は低い。

とはいえ、実務に関して役に立ちそうなタイプには見えないし、名声が高くても人望はなさそうだ。司馬懿がいなくとも、やはり天寿はまっとうできなかったろう。人形は色白に、そして退廃的なイメージで作ってみた。

人形作成日:2002年7月5日

曹真 曹真
ソウシン(?−231)Cao Zhen
字は子丹。曹操の族子。勇猛さを買われて虎豹騎の指揮官を務める。後に、夏侯淵の後任として長安の守備を任せられる。諸葛亮に一歩も引けを取らぬ軍才をもち、第一次北伐では張コウを派遣して馬謖を破り、第二次北伐ではあらかじめ蜀の攻略ルートを読み陳倉城にカク昭を派遣し、城を修築させるなど的確な対応をおこなっている。位は大将軍、のち大司馬となり文字通り魏の大黒柱であった。それがなぜか演義では、連戦連敗のダメ将軍として描かれ、孔明はおろか司馬懿に対しても引立て役に終始している。

曹一族最後の名将と言って差し支えない人物。演義でありえないくらいザコに貶められている姿は悲惨の一言。正直、子孫は皆高位についており、それは名将・曹真の七光りであるわけだが、演義を読んでいるとその辺りが全く理解できなくなる。人形は威厳がありそうな感じにしてみたが、それでいて微妙に「やられ役」の雰囲気が漂うような??

人形作成日:2005年6月26日

王朗 王朗
オウロウ(?−228)Wang Lang
字は景興。東海郡の人。陶謙に推挙を受け出仕。会稽太守となる。孫策の攻撃を受けて敗れ、捕虜となり、食うや食わずの困窮した生活に落ちる。のち、曹操に招聘され、魏に仕える。当代屈指の教養人であった彼の才能は魏で開花し、司空、司徒を歴任し国家の重鎮となる。演義では、身の程知らずにも孔明に舌戦を挑み、あえなく論破される。激昂のあまり悶絶し、落馬して絶命というエピソードが際立つやられ役。

本当は鍾ヨウとならぶ文官の中軸なのに、なんとも情けない彼。人呼んで「おろおろ王朗」。この逸話、誰が考えたのやら?であるが(あまりに事実無根)、ちょうど北伐と重なる時期に死去したことと、当時魏を代表する教養人だったことからの人選であろう。人形は、くすぶった配色で、手ぬるそうなイメージに作成。けっこうお気に入り。

人形作成日:2005年6月26日


楊修 楊修
ヨウシュウ(175−219)Yang Shu
字は徳祖。弘農華陽の人。太尉・楊彪の子。利発だが、才を恃み驕る癖があった。曹植の腰巾着で、彼を後継者とすべく画策し、曹植のために、曹操に質問されたときの模範解答集まで作っている。後継者争いに決着がつき、曹丕が跡継ぎとなると、楊修ら曹植側の取巻きは次々と粛清された。演義では、劉備との漢中争奪戦に従軍し、曹操の「鶏肋」の発言を陣払いと解釈して、夏侯惇らと帰り支度をしているところを激怒した曹操に誅殺される。

三国志で結構見かける、「才能に人柄がついていかなくて、まともな死に方出来ない」人物の典型例。このタイプは民衆にも嫌われたようで、それが「鶏肋」エピソードに繋がっているように思える。しかし、この架空の逸話が、楊修という人物を見事に描写しているではないか。人形はイメージと寸分たがわぬ出来に仕上がり満足。

人形作成日:2005年6月26日

王祥 王祥
オウショウ(184−268)Wang Xiang
字は休徴。琅邪国臨沂の人。魏に仕え、徐州の政治を任された。後に出世し、魏末期には三公まで昇進する。人物は清廉で、礼に謹厳であった。二十四孝子の一人として有名。冬に母親が魚をほしがったが、池は凍りついている。彼が裸で池に横たわると、氷が裂け、2匹の魚を得ることができたという。人々は、彼の孝心が天に通じたのだと噂し合ったとのことである。

単なる孝行息子と思いきや実はかなり出世している人物。85歳と長寿に恵まれたのは、冬季に裸で氷の上に横たわるという荒行での鍛錬(?)の賜物であろうか。
人形は、もうコレしかないです。どっかの漁師にしか見えませんが…。

人形作成日:2006年12月10日

羊コ 羊コ
ヨウコ(221−278)Yang Gu
字は淑子。泰山南城の人。晋の都督荊州諸軍事で、対呉戦線の司令官である。呉の君主が暴虐で国運が衰えていることから、征伐の上表をするが、聞き届けられなかった。徳による統治をおこない、呉の都督陸杭とは酒や薬を送りあうという「有徳の神経戦」を繰り広げた。生前、ついに呉討伐の軍を起こすことがなかったが、呉の滅亡後には太傅を追贈された。

荊州の長官というイメージが強い彼だが、山東省の出身だったとは。恐るべし。人形はどっしりとした感じで作成してみたが、ワンパンチたりないかも…。

人形作成日:2006年12月10日


満寵 満寵
マンチョウ(?−242)Man Chong
字は伯寧。山陽の人。曹操に仕え、初期は法に厳格な官吏として、犯罪者の取調べをおこなう記述が目立つ。曹操の南征時に、奮威将軍に任じられ、以後国境の守備にあたる。関羽が樊城へ攻撃をかけた際は、曹仁の副将として活躍し、城を守り抜いた。曹丕即位後は征東将軍などを歴任し、対呉最前線を任された。合肥新城を建設したのも彼である。晩年は前線を退き、三公(大尉)に昇った。死後、景侯と諡された。

地味系武将と思いきや、文官でも武官でもばっちりの万能キャラ。魏の人材の厚さを感じさせる。実力の割りに見せ場に恵まれないことで損をしているな…。人形では規律正しい・厳格といった性格付けをしてみた。

人形作成日:2007年6月30日

荀攸 荀攸
ジュンユウ(157−214)字は公達。荀ケの甥。何進によって召し寄せられ、黄門侍郎を務める。董卓が権力を掌握すると、何ギョウとともに暗殺計画を練るが、露見し、投獄される。董卓が暗殺されたため助かり、その後蜀郡の太守となるが、交通が途絶えていたため荊州にとどまっていた。ここで曹操の招聘を受け出仕し、軍師として活躍する。袁紹との戦いでは、策をめぐらせ顔良・文醜を戦死させた。許ユウが降伏し、烏巣の襲撃を進言した際も、賈クとジュンユウの二人だけがこの策に賛成し、大勝利に貢献した。曹操が魏公になると尚書令に任じられた。孫権討伐に従軍中に死去。

魏建国に大きな貢献をした智謀の士。今回、正史を読み返したところ、曹操に仕官するまでの波乱の全半生があったことが判明して感動した。「荀軍師」と呼ばれたというが、その智謀は抜群である。人形は知性と人生経験豊富そうな感覚で。


人形作成日:2008年3月9日

毋丘倹 毋丘倹
カンキュウケン(?−255)    字は仲恭。河東郡の人。曹叡の代に仕官し、しばらくは洛陽で活躍する。その後、幽州刺史となり、公孫淵討伐をおこなう。一度は敗北するが、司馬懿の指揮下に入っての再度の遠征で勝利する。244年には高句麗へ遠征し、首都・丸都山城を陥落させ、高句麗王・位宮を配送させた。孫権死後は鎮東将軍として対呉最前線へ異動する。司馬師の専横を憎み挙兵するが討伐され、滅した。

広い大陸を縦横に駆けたという点においては三国志でも屈指の人物。北朝鮮国境の、鴨緑江付近まで遠征するとは、仰天というか敬服というか・・・。人形も、越冬装備でつくっておきました。歴史的価値の高い「毋丘倹記功碑」の主でもあり、意外と遺跡武将としてもレベルが高い。


人形作成日:2011年5月

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