呉将


孫堅 孫堅
ソンケン Sun Jian (156−192)
字は文台。呉郡富春の人。黄巾の乱で活躍、長沙の太守となる。曹操の反董卓の檄文に呼応し、先鋒となる。董卓が洛陽から退却すると、真っ先に洛陽入りを果たし、伝国の玉璽を手に入れる。これにより孫堅は連合軍を離脱し、長沙に戻る。荊州の劉表に攻撃をかけ、優勢に戦を進めるが、伏兵にあい石や矢を浴びて死亡した。孫権が帝位につくと武烈皇帝と謚された。

赤い頭巾に古錠刀、程普、黄蓋ら4人の武将を従えた勇姿、破壊力抜群の戦いぶりと、魅力にあふれているのに、どうしてあっさりと死んでしまうんだーーー!!!惜しい、あまりに惜しいぞ、孫文台!!!

人形作成日:2000年1月21日


孫策 孫策
ソンサク Sun Ce(175−200)
字は伯符。孫堅の長男。若くして父を失い、袁術の客将に甘んじていたが、玉璽をかたに兵を借り、快進撃を続け、呉を手中に収める。戦では神ががり的な強さを誇り、小覇王と呼ばれる。その一方で広く賢者と接し、張昭、張紘など多くの人材を集めた。しかし刺客に襲われた傷がもとでわずか26歳で死去した。謚は長沙桓王。

彼が長生きすれば……とため息をつかずにはいられない英傑。確かにこういうタイプって長生きしないもんだよね。あっという間に呉を平定し、突然我々の前から消えてしまった彼こそ、まさに伝説のヒーローといえるだろう。ゆかりの名勝古跡がほとんど残ってないのが残念。(九江の煙水亭で孫策墓の写真を展示している。)

人形作成日:2000年1月30日


孫権 孫権 
ソンケン Sun Quan (182−252)
字は仲謀。孫堅の次男。三国鼎立の一角を担った呉の名君。碧顔紫髯の異相の持ち主。兄孫策の死後呉の君主となる。周瑜、張昭らの補佐を受け地盤を固める。208年には劉備と連合、赤壁の戦いで勝利し曹操の南下を食い止める。荊州、交州などに勢力を伸ばし、229年に呉の皇帝となる。晩年は後継者選びに迷い、政治を混乱させた。252年死去。大皇帝と謚された。

我が(サル)心の英雄、孫仲謀。彼の墓をはじめて訪れたときの、そして彼の故郷にて「呉王廟」にお参りした時の感激は言葉では言い表せない。天津で買った高さ20センチの孫権人形は私の宝物である。東呉大帝・孫仲謀万歳!万歳!!万万歳!!!

人形作成日:2000年1月27日


周瑜 周瑜 
シュウユ Zhou Yu (175−210)
字は公瑾。楊州盧江郡の人。三国呉において最高の人物と言って過言はないだろう。孫策と同年齢で義兄弟の交わりを結ぶ。孫策が独立すると軍師として補佐にあたる。孫策亡き後は孫権に仕え、水軍の教練にあたる。曹操が南下してくると魯粛と共に開戦を主張し、赤壁の戦いでは呉軍の総大将となる。火計で曹操軍の船団を焼き払い、大勝利を挙げる。210年若くして病死。

孫権のことは「英雄」と呼んでいる私だが、公瑾のことは「俊英」と呼ばせてもらっている。それにしても、ここまで完璧な人物も珍しい。天津には周瑜の人形も売っているぞ(サルはもちろん持ってます)!呉ファンなら、ぜひ!!!

人形作成日:2000年1月20日


陸遜 陸遜 
リクソン Lu Xun (183−245)
字は伯言。呉郡の呉の人。孫策の娘を妻とする。若いころは山越討伐に従事した。呂蒙と協力して関羽を倒し荊州を手に入れる。夷陵の戦いでは大都督として呉軍の総指揮をとり火攻めで蜀軍を徹底的に打ち破った。呉建国後は大将軍として荊州の守備にあたる。晩年、丞相になるが孫権の後継者争いに巻き込まれ、流罪にされる。憤激のあまり死去。昭侯と謚された。

甘寧、徐盛の次に好きなのが陸伯言。彼こそは、まことの名臣、軍師の誉れである!!赤壁には周瑜像があるのに、どうして夷陵には陸遜像がないんじゃーー(馬良像はあるのに・・・)!!!

人形作成日:2000年3月15日


甘寧 甘寧
カンネイ Gan Ning (?−?)
字は興覇。益州巴郡の人。もとは長江の賊。勇猛果敢な将軍で数々の戦で先鋒として活躍。弓の名手。劉表、黄祖に仕えるが重用されず、孫権に仕える。赤壁では埋伏してきた蔡和、蔡中を欺くのに一役買う。皖城の戦いでは突撃隊長として魏の皖城太守・朱光を討ち取る。合肥では曹操の陣地に百騎で夜襲をかけ、勇名を轟かせる。強情な性格で同僚との折り合いは悪かったようだ。

待ってましたあ!!!奴こそは「無敵」名将甘興覇である!!私はこいつの人形が欲しいがために人形作りを始めたほどの甘寧ファンだ(イッちゃってる・・・・)!!!!弓の名手というと黄忠を思い浮かべる不遜な輩が多いようだが、まことの弓の名手は「無敵」興覇であることをお忘れなく。

人形作成日:2000年1月13日


魯粛 魯粛
ロシュク Lu Su (172−217)
字は子敬。臨淮郡東城の人。周瑜の推挙で孫権に仕える。曹操の南下に対しては劉備と組んでそれを拒むよう提言、両者の橋渡し役となった。開戦か降伏かに迷う孫権を励ます。周瑜亡き後は軍師として孫権を支えた。演義では気弱で冴えない印象があるが実際の彼は相当な切れ者である。荊州を巡って劉備と対立が生じると会見を開いて関羽を詰問した。217年死去。

彼も地元民から愛されている武将で、その証拠に「魯粛墓」は異常に多い。そう、中華人民はまことの名臣、士大夫の誉れ魯子敬を忘れてはいないのだ!!人形が売っていないのが残念だが、発売までもうひと頑張りだ!!と信じている。

人形作成日:2000年6月18日


呂蒙 呂蒙
リョモウ Lu Meng (178−219)
字は子明。汝南郡の富阪の人。雑兵からの叩き上げではじめは武勇だけの武将だったが孫権の勧めで学問を修め知勇兼備の名将へと成長した。魯粛亡き後は後任として対荊州最前線の守備に立つ。関羽が軍を出すと病気になったふりをして関羽を油断させ、荊州を奪った。しかし直後に病にかかり、死去。その死は孫権を大いに悲しませた。

彼こそは名将中の名将、努力の人・呂蒙子明だ。中国では関羽の仇であることから全然人気がないのが悲しいぞ!私としては呂蒙のトレードマークは「盾」なのだが、他のファンには全然浸透していないようだ。とにかく彼のことは大切にしよう。甘寧の唯一の友人なのだから。

人形作成日:2000年1月20日


黄蓋 黄蓋
コウガイ Huang Gai (?−?)
字は公覆。零陵郡泉陵の人。鉄鞭の使い手。孫堅の代から呉に仕える。程普、韓当らと共に宿将として幾多の戦いで功を立てた。赤壁の戦いでは周瑜と共に「苦肉の計」で曹操をあざむき、火計で曹操の船を焼き大勝利の立役者となる。太守、県の長官を歴任するが、反乱を平定し、彼の治めた地域はいつも治安が保たれていたので、民衆からも尊敬を集めていた。

「苦肉の計」で歴史に残った男、黄蓋。京劇でも有名なため、中国では黄蓋の京劇風紙人形が売っている!これは北京名物でトントン相撲にも使えるすぐれものだ(もちろん黄蓋以外のラインナップも充実)。赤壁の手柄の恩賞なのか、「黄蓋湖」という湖もある。

人形作成日:2000年1月27日


程普 程普
テイフ Cheng Pu(?−?)
字は徳謀。右北平土垠の人。鉄脊蛇矛の使い手。孫堅から呉三代に仕えた宿将。武将として主だった戦いには全て参加している。赤壁の戦いでは副都督を務める。程普は古参の武将たちの中でも最年長であったため、程公と呼ばれ敬われた。周瑜の死後は代わって南郡太守となった。盪寇将軍に昇進し、その後死去。

地味な存在だが、なんといっても墓がある!!意外と侮れんな。有能だし、登場回数も多いのにこれといった見せ場がないのが悲しい。

人形作成日:3月14日


太史慈 太史慈
タイシジ Taishi Ci (166−206)
字は子義。東莱郡黄県の人。義理堅く、勇猛果敢な名将。孔融の危機にはせ参じ、ただ一騎で囲みを破り、劉備に援軍を求める使者となる。その後劉ヨウに仕え孫策と激しい一騎打ちを繰り広げた。劉ヨウ敗北後孫策に帰順。孫策亡き後は孫権に仕える。彼の最期は演義と正史でその年代、様子が大きく異なる。

とにかくかっこいいの一言に尽きる。すぐに「単騎駈け」するが、それほど腕に自信があるのだろう。惜しむらくは呉に来てからの活躍が少ない・・・・・。京劇風紙人形は太史慈のもある。

人形作成日:2000年1月1日


凌統 凌統
リョウトウ Ling Tong (?−?)
字は公績。呉郡余杭の人。呉の将で孫権のお気に入り。父凌操を甘寧に殺され、幾度も復讐を狙う。合肥の戦いでは張遼を相手に奮戦する。楽進と一騎打ちをするが馬を射られ、危機に陥るが甘寧の矢で逆に命を救われ、和解する。有能な人物と交わり、財貨を軽んじた名将。偏将軍の地位で49歳で死去。

演義で実力どおりの活躍の場を与えてもらえなかった武将は数多くいるが、凌統もその一人。完全に甘寧の引き立て役をやらされている。まあ、しょうがないか。相手が悪いもんな。と言いつつ凌統もかなり好きだけどね。

人形作成日:2000年1月10日


徐盛 徐盛 
ジョセイ Xu Sheng (?−?)
字は文キョウ。瑯邪郡の人。度胸抜群で軍指揮に長けた呉の名将。演義では丁奉とコンビを組むことが多い。呉が魏に対し藩国の礼をとったとき、無礼な使者を見て男泣きに泣き、使者を感じ入らせた。曹丕が攻めてくると徐盛は疑城の計を献策し大勝利を挙げた。安東将軍まで出世した。

この武将は活躍するときとショボるときの落差が大きい。それがゆえに思わず応援してしまうのだ。意外とメジャーなようで、トランプや剪紙などでコンスタントに登場しているのが嬉しい。

人形作成日:2000年2月7日


虞翻 虞翻
グホン Yu Fan (?−?)
字は仲翔。会稽郡余姚の人。孫策の時代に呉に仕える。弁舌が立ち、降伏の使者として華キン、傅士仁を降している。剛直な性格でしばしば諌言をくりかえし、孫権からけむたがれ、交州へ流される。深い教養をもち、交州でも学問や研究に励む当代一流の学者であった。しかし中央に戻ることなく死去。

いわゆるマッド・サイエンティストってやつだと思う。文官は個性が埋もれがちだが、虞翻はそのなかでなかなかいかした味のあるキャラではなかろうか。

人形作成日:2000年4月23日


朱然 朱然
シュゼン Zhu Ran (182−249)
字は義封。もとの姓は施だが朱治の養子となる。関羽を捕らえるのに手柄があった。夷陵の戦いでも活躍する(演義では、ここで趙雲に討ち取られている)。呂蒙の後を受けて江陵の守備にあたり、魏の攻撃を退ける。将軍として対魏戦で手柄を立てた。左大司馬、右軍師まで位が上がった。

墓が立派。驚くほど立派。さすが出世しただけのことはある。イメージしにくく、人形を作るときも困った。結局、「朱然だから朱色!」というインチキ技で切り抜けた。

人形作成日:2000年1月25日


張昭 張昭
チョウショウ Zhang Zhao (156−236)
字は子布。彭城の人。孫策が招いた江東の二張のひとり。深い学識と教養をもつ東呉の元老。およそ40年にわたって内政一筋に生きた男である。赤壁の戦いでは降伏を主張している。孫権との間柄は君臣というよりは師弟関係に近いものであったように思える。晩年はただの頑固ジジイと化している。

まさに内政官の鑑。しかし、政治系の武将って普段何してんのか謎だ。赤壁で降伏論を唱えたため以後孫権に敬遠されがちだったようだが、孫策死後、孫権が混乱なく政権を継承できたのはほとんど張昭の功績といっていい。孫権もけっこう薄情なもんだ。

人形作成日:2000年5月23日


諸葛瑾 諸葛瑾
ショカツキン Zhuge Qin(174−241)
字は子瑜。孔明の兄。戦乱を避けて呉に渡り、孫権に仕える。堂々とした風貌と思慮深さを備えた人物。……とかいいつつ実はロバに似ている。呉を代表する内政官で、孫権とは強い信頼関係で結ばれていた。孫権が皇帝になると大将軍に任命された。

呉の良心といえる立派な人物。大将軍だがどう考えても戦争向きの武将ではないな。他にも魯粛や顧雍など呉では文官が軍権を持つ傾向が強い。いやな体質だ。諸葛瑾は偉くなりすぎて息子の人格がむちゃくちゃひどい。出世しすぎも考えものだ。

人形作成日:2000年7月2日


カン沢 カン沢
カンタク Kan Ze(?−243)
字は徳潤。会稽郡の人。家は貧乏であったが学問にしたしみ、幅広い知識と教養を身につけた。演義では黄蓋の親友として登場し、苦肉の計を見ぬき、曹操へ密書を届ける使者となり見事曹操を計に掛けた。のちに夷陵の戦いの際、陸遜を総大将に推挙する。孫権が皇帝となると尚書に、のち中書令に任命された。

まことの賢者であるカン沢先生であるが、どうしても黄蓋の密書を届けに行くときの漁師のイメージが強すぎる!!人形も漁師ルックにしてしまおうかと思ったが、さすがにやめておいた。

人形作成日:2000年8月12日


朱桓 朱桓
シュカン Zhu Huan(177−238)
字は休穆。呉郡の人。孫権の代に呉に仕え、山越族の平定にあたる。濡須の督となり、曹仁を打ち破る。石亭の戦いでも魏軍を打ち破り手柄を立てる。呉軍きっての猛将であり、撤退のとき朱桓が殿軍を務めると魏軍は彼をはばかって追撃を取りやめたほどだった。一方でプライドが高く、自我を押し通す性格だったようだ。

有能な実戦指揮官である。魏と戦った呉の将軍はマイナー化しがちであるのが残念だ。呉の軍は私兵的性格が強かったせいか同僚と張り合う奴が多い気がするなあ。夷陵の戦いでも諸将は陸遜の命令聞かなかったし。人形はイメージどおり屈強の野戦将軍に仕上がり満足。

人形作成日:2000年12月23日


顧雍 顧雍
コヨウ Gu You(168−243)
字は元歎。呉郡の人。酒をたしなまず、寡黙な人柄。蔡ユウから琴と学問を学んだ。孫権が会稽太守となると、太守を代行し治績をあげた。呉を代表する人物で、孫権からの信頼も厚く、225年から死去まで呉の丞相をつとめた。 諡は粛公。演義での彼は他の名参謀の陰に隠れぱっとしない。一族にも名声の高い人物が多い。

なんで丞相なの?とかいってはいけない!!顧雍こそは張昭に次ぐ呉の重鎮である!顧雍や張昭、諸葛瑾が健在であったら呉の後継者争いは起こらなかったのではないだろうか。地味な内政武将のためか、演義ではザコ文官となり、関連遺跡もまったく見当たらないのが悲しい。

人形作成日:2000年11月5日


丁奉 丁奉
テイホウ Ding Feng(?−271)
字は承淵。廬江郡の人。呉後期の名将。武勇に優れ、部隊長からのたたき上げで将軍まで出世する。孫権の死に乗じて魏が侵攻してくると、丁奉は呉の前衛の将軍として応戦し、奇襲で魏軍を散々に打ち破り、滅寇将軍に任じられる。孫休の代には、専横する孫チンを張布とともに誅殺し、大将軍まで出世した。演義では徐盛としばしばコンビで登場するが、ふたりは世代、地位ともに明らかに開きがあり、不自然である。

建国後の呉では最強クラスの将軍。注目度の低い物語後半で活躍するため、いまひとつぱっとしない印象だが、三国武将を集めたトランプなどのグッズや各地の武将像などでコンスタントに登場する割とメジャーな存在である。人形はベテラン将軍のイメージから眉や髭に白いものが混じっている。

人形作成日:2000年9月1日


陸抗 陸抗
リクコウ Lu Kang(225−274)
字は幼節。陸遜の次男。父の死後跡を継ぐ。順調に出世を重ね、孫皓の代には鎮軍大将軍となり、荊州の軍事を統括した。西陵で歩センが反乱を起こし、晋からは羊コが江陵へと攻撃を仕掛けてくるが、陸抗は父譲りの知略でこの危機をしのぎ切り、西陵を降し晋軍を追い返した。この功績で大司馬へ昇進する。しかしその年に病にかかり、274年に死去。敵将の羊コとはお互いに認め合う仲だったが、孫皓に降格されたという事実はない。

呉最後の名将、陸抗。晋との国力差はもちろんあるが、守備型の武将という印象が強い。非常に好きな武将なのだが、ゲームなどをすると登場が遅すぎるためほとんどお目にかかる機会がない。どこかに墓はないのか?連環図などの資料では、髭が濃すぎて気持ちが悪いので、人形では薄めにした。

人形作成日:2002年1月2日


呂範 呂範
リョハン Lu fan(?−228)
字は子衡。汝南細陽の人。演義では悪どい謀将、正史では生粋の軍人。孫策の挙兵を助け、都督として江東平定をたすけた。孫策が于吉を捕らえると雨乞いにて真偽を確かめるよう献策。劉備が呉に嫁取りに来た際に、宴席に刺客を潜ませ劉備暗殺を謀る。事が露見すると責任を部下の賈華になすりつけた。関羽討伐戦では吉凶を占い(意外と芸達者)、間道に伏兵を置くよう献策する。228年、大司馬に任命されるが印綬が到着する前に死去。

繰り返し述べるが、正史での呂範は徐庶、陳宮なみの志と朱桓、朱然と肩を並べる統率力を持った名将である。なぜ、こんな崩壊した人物像になったのだろうか。で、どっちのイメージで人形を作るか?というとやっぱり演義寄り……。ちなみにこのポーズは刺客の賈華に合図を送っているもの。目も血走っている。

人形作成日:2003年5月31日



周魴 周魴
シュウホウ Zhou Fang(?−?)
字は子魚。呉郡陽羨の人。宜興の英雄・周処の父。呉に仕え、ハ陽太守をつとめる。228年の石亭の戦いの立役者で、魏の曹休をおびき寄せるために偽りの投降をする。演義では、疑う曹休に対し、剣を手に自刎しようとする。慌てて止められたが、髪を切落として誓いとした、というシーンが有名である。正史では孫権の詰問(もちろんこれは計略)を受け、剃髪して謝罪した、という逸話がある。いずれにせよ、おびきよせられた魏軍は陸遜にぼこぼこにやられ、気を良くした孫権は翌年皇帝へと即位するのである。太守としては不服住民の討伐なども堅実に行なっており、軍事的才能も伺える。

地元・宜興では、三国武将というよりも、「周処の父」といったほうがピンと来るであろう人物。周王廟には、周魴像や肖像画が祀られており、なんとも嬉しくなってしまう。人形はもちろん、一世一代の大活躍シーンのイメージで。

人形作成日:2005年5月22日


周処 周処
シュウショ Zhou Chu(242−297)
字は子穏。周魴の子。「陽羨第一の人物」と現在でも謳われる人物。小さい頃に父親を亡くす。若い頃は手のつけられない悪漢で、「南山の虎」、「荊渓の蛟」と並び、「三害」と称されていた。後になって改心した彼は、「蛟を斬り虎を射」て(実在したの…?)害を除き、一方では学問に励み、文武両道の名将となった。呉では東観の丞となる。呉滅亡後は晋に仕える。297年、西方の異民族の反乱鎮圧に従軍し、勇戦するも戦死。死後、平西将軍を追贈された。諡は孝侯。

誰この人?とか言ってはいけない!!郷土の英雄・周子穏は、中国では教科書にも出てくる程の著名な偉人なのだ!例の怪しげな「三害」退治の話が道徳の教科書に載るってことらしいが。基本的に晋代の人物だが、呉に仕官していたことも紛れもない事実なので、人形を作製の上、呉将として掲載する。さて、地元・宜興での扱いは冗談抜きにすごい。市の中心には大きな廟と広場があり、ロータリーには「陽羨第一人物」の看板とともに像が立つ。南京にも「周処読書台」があり、一説では陸機・陸雲に学問を習った場所といわれる。

人形作成日:2005年5月22日


陸績 陸績
リクセキ Lu Ji(187−219)
字は公紀。呉郡の人。陸遜を代表とする郷土の名士・陸一族の一人。24孝子に数えられる親孝行な人物。以下逸話:6歳のとき、袁術に目通りた陸績は、もらった橘(ミカン)を懐に入れ、退出しようとしたが、お辞儀をしたところでミカンがこぼれ落ちた。「卑しいヤツだ、ミカンを懐に隠して」となじられたが、彼は堂々と「母に持って帰ってあげたいと思いました」と返答し、袁術はその非凡さと孝心に感動したのである。天文学や易に通暁した大学者。虞翻・ホウ統の親友だが、孫権には(他の2人同様?)煙たがられ、南の果て鬱林の太守となる。軍征と風土病に苦しみ、若くして死去した。

中国では現在でも、蘇州出身の代表的大学者として、陸遜以上の名声を誇る(注:陸遜は中国では人気がない)。24孝子だが、上記エピソードが微妙にセコい(言い訳うまいだけじゃん?)のが気になるところ。蘇州博物館には、彼が南方から持ってきたとされる「廉石」という石がある。人形は、易の達人ということで易者っぽくしてみたが、没個性になってしまったのは残念。

人形作成日:2005年10月2日


谷朗 谷朗
コクロウ Gu Lang(218−272)
字は義先。桂陽郡耒陽馬水の人。宦官の家庭に生まれる。成人後、呉に仕官する。呉では文官として地道に出世を重ねる 。大中正大夫まで出世し、人材の管理をおこなった。263年、交州で呂興が反乱を起こす。269年に谷朗が兵を率いて反乱 を鎮圧し、九真太守に任じられた。272年、病気のため死去。故郷で同年に彼の功績を称えて建てられた「谷朗碑」が現 存する。

だれだよこいつ?タニ・アキラさん…日本人ですか?とか舐めてはいけない!彼こそは、郷土の英雄・「谷朗碑」の谷さんなのだ!正直、考古学的・書道的価値の高い「谷朗碑」のほうが本人よりもずっと有名。三国武将だったなんて、マニアですら知らねえよって感じだ。人形は、宦官の家庭ということでヒゲなし、おちょぼ口に。

人形作成日:2005年5月18日

<お詫び>
「宦官の家庭」と紹介しましたが、これは中国語の誤訳だったことが分かりました。正確には「官宦之家庭」(字の順番が逆)で、意味としては「役人・官吏」の家庭でした。
宦官イメージから作成した人形も、本来作り直すべきですが、こちらはご勘弁ください…。


韓当 韓当
カントウ Hang Dang(?−227)
字は義公。遼西令支の人。孫堅からの呉の宿将である。弓術と馬術に巧みな武辺者。兵卒からの叩き上げであるが、呉の主要な戦にほとんど参加し、将軍となる。程普、黄蓋の弟分で、赤壁で流れ矢を受け落水し、便所に放置された黄蓋を涙ながらに救うシーンは大変印象的である。演義では焦触を討ち取っている。夷陵の戦いでは、陸遜とともに蜀軍を徹底的に打ち破り、威烈将軍に任じられた。また、敢死軍・解煩軍という特殊部隊一万を率いている。演義では夷陵の戦いにて陸遜を軽んじる武将の筆頭格として描かれ、大変印象が悪くなっている。

呉の最古参として、ファンなら本来もっと早く人形を作るべきだった人物。関連遺跡ないもので…。呉でも屈指の豪傑であるが、演義でその他大勢的扱いをされている上、陸遜を軽んじるという損な役回りを演じたため、魅力がくすんでしまっている。イメージでは赤壁の前哨戦で、盾を持ち、槍を突き出して敵(焦触)に飛掛る姿が鮮烈だったため、忠実に作成したつもり。だが、演義で初登場時に紹介された得物は大刀(薙刀)。…あららっ??いつの間に武器変わったの?ってか羅漢中、設定忘れた?……所詮"その他大勢"かよ!!

人形作成日:2005年6月25日

董朝 董朝
トウチョウ Deng Chao(?−?)

呉末期の文官。呉の二代皇帝・孫亮が廃された際に、孫休を迎えに行く使者として派遣された。この功績により、郷侯に任じられた。孫皓の代に、丞相・陸凱が危篤にあたって使者として遺言を聞きに行く(蜀でいうところの李福の役どころ)。276年、呉興(現在の宜興)陽羨山の岩に吉祥が現れているとのことから、周処とともに派遣され、国山として封禅をおこなった。このとき、官職は司徒。

フットワーク良く各地に派遣されては官爵を高めていく、お遣いキャラ。三公まで出世したにもかかわらず、その人物像に関してはまったく資料が残されていないようだ。ちなみに、国山として封禅をおこなった記念碑「国山碑」は国家重点保護単位であり、歴史的価値が非常に高い。しかし、この成立に彼が一役買ったことはまったく地元民に知られていない。
人形は…ごめん。手抜きもいいとこですね。

人形作成日:2006年12月10日

孟宗 孟宗
モウソウ Meng Zong(?−271)
字は恭武。改名したため孟仁ともいう。呉後期の大臣で、非常に親孝行な人物。若い頃南陽の李粛のもとで学問を修める。最終的には三公である司空まで出世した。彼に関連する記述はほとんど母親がらみで、母親の"愛の掛け布団"とか、貧乏小役人時代に家に雨漏りがするので号泣して母親に謝罪とか、養魚池の監督なのに勝手に魚を捕って母親に送ってたしなめられたとか、挙句は母親の死に際して官職を放り出して葬儀に駆けつけるという禁令を犯したりしている(孫権の温情で特別に許された)。また、冬に母親の好物の筍を探し、竹林に入って哀願すると筍がにょっこりと生えてきたという。「孟宗竹」の名前はこの話から来ているという。

なんか、親孝行なのはいいけど、ルールは守らないし、他人の迷惑顧みずの孝行ぶりは如何なものかって感じです。まあ、このくらい"孝行狂"ぶりを発揮しないと伝説の中国「24孝子」にはエントリーされないってことでしょう。現在、故郷の青山鎮(孝感市郊外)には彼の廟と墓があり、遺跡的にはけっこうエリート?だったりする。人形は、理屈ぬきで筍もたせときました。

人形作成日:2008年3月9日


陳武 陳武
チンブ Chen Wu(?−215)

字は子烈。盧江松滋の人。孫策が挙兵した際に配下に加わる。各地を転戦し功績を挙げ、孫権の時代には偏将軍に任命される。合肥の戦いで討死。演義では、ホウ徳と一騎打ちをして討ち取られたとされている。

勇猛果敢な呉の武将。歴史の上ではその他大勢に近い存在かもしれないが、三国遺跡界では、そうではない。…墓が、あるのだ!安徽省宿松県郊外の陳院村(陳漢)のはずれに、陳武および子孫代々が埋葬されている山がある。
人形は遺跡捜索旅行中に、杭州駅で作成。


人形作成日:2008年12月

賀斉 賀斉
ガセイ He Ji(?−227)

字は公苗。会稽郡山陰の人。孫策の旗揚げ初期に配下に加わり、会稽郡の反乱の鎮圧・治安維持に貢献する。孫権の代になってからも、各地の反乱を鎮め、奮武将軍に出世する。合肥の戦いでは徐盛が奪われた牙旗を奪い返し、逃げてきた孫権を船に迎え入れる。呉建国後、後将軍に任じられ、曹休の軍と戦いを繰り広げている。

演義に登場しない呉の隠れた名将・賀斉。反乱鎮圧専門要員かと思いきや、後期は前線でもしっかり活躍している。ことごとくカットされてしまったのは何故なんだ?リゾート地として開発が進んでいる千島湖は彼が開祖と伝えられている。現地には賀斉の廟と塑像がある。
人形は遺跡捜索旅行中に、杭州の“両岸珈琲”にて作成。ウエイトレスに褒められた。

人形作成日:2008年12月

大喬 大喬
ダイキョウ Da Qiao(?−?)

盧江皖県の人。当地の名士・喬公の娘。妹の小喬とともに絶世の美女と評判が高く、「江東の二喬」と云われた。孫策が皖を支配するようになった際に、大喬は孫策の、小喬は周瑜の妻となる。

大喬って、小喬に比べると影が薄い気がするが、三国遺跡界でもその傾向ははっきりしている。立派な墓が現存する妹に比べ、彼女の関連遺跡は非常に少ない。故郷には、姉妹がこの水を使って化粧をしたと言われる「エン脂井」がある。

人形作成日:2008年12月

士燮 士燮
シショウ Shi Xie(137−226)

字は威彦。蒼梧郡広信の人。交州の出身であるが、先祖は中原の出身である。若い頃は都で学問を修める。交阯太守となり、故郷に戻る。交州を一族で統治し、強い権力を持つようになる。後漢からは安遠将軍の任を授かる。210年、呉が交州に進出するようになると支配下に加わり、左将軍に任じられる。孫権へは貢物を絶やさず、また蜀の雍ガイを呉になびかせるなど、外交手腕は一流であり、衛将軍まで昇進する。彼はベトナムに中国文化をもたらした人物として有名で、「南交学祖」と呼ばれている。ハノイ郊外のバクニンには士燮の墓と廟が現存する。

三国志では地味な存在だが、世界史上は重要な人物。もっと注目されていいはずなのだが・・・。2009年1月のベトナム三国遺跡アタックツアーの主人公。東南アジアの色彩が濃い廟と、意外と純中華風な墓はファンでなくとも必見、いや、ここを訪れれば必ずファンになる!
人形はベトナムのホテルで作成しました。

人形作成日:2009年1月

趙嫗 趙嫗
チュウ・アウ(バ・チュウ) (226?−248?)

ベトナム北部の農民。当時の支配者である呉に対して兄とともに反乱を起こす。最初は連戦連勝であったが、呉が鎮圧のために名将・陸胤を派遣するとなすすべなく破れた。乱軍の中戦死したと伝えられる。ベトナムでは女傑として名高く、首都ハノイに「バチュウ通り」という道がある。また、墓も現存する(未到達)。
民間伝承によると、長身で象にまたがり、乳房の大きさは各2尺ほどだったという。

ベトナムに知る人ぞ知る、女傑バ・チュウあり!当地はあまり歴史観光に力を入れていないため、墓に行けるツアーはなし。カスタマイズツアーでアタックを試みるも、日程の都合で出撃を断念した。次回こそは・・・って、あるのかな、次は・・・?

人形作成日:2009年1月

董奉 董奉
トウホウ (220−280?)

字は君異。侯官県(現在の福建省福州市郊外・長楽)の人。華陀、張仲景とならぶ「建安三大神医」の一人。杏林の祖。
一時期であるが、呉に仕官し、県令を務めた時期があったらしいが、官を捨てて旅に出、医者なのか仙人なのかわからないような生涯をすごした。士燮が死去した際に、たまたま当地(=ベトナム)に来ていた董奉が丸薬を処方して服用させたところ、士燮は生き返ったという。
彼は、病人を治療しても謝礼にお金を受け取らなかった。代わりに、富者には5本、貧者には1本杏の木を植えさせたという。これによって、かれの草庵の周りには杏の林が出来、人々はそうした董奉の徳を賞賛した。これによって、人格に優れた医者のことを中国では「杏林」というようになった。このエピソードは、日本の「杏林大学」の命名の由来にもなっている。

うーん、いたんですねぇ、福建省出身の大物が。意外なところに。最初に士燮の話を見て、「怪しすぎる!」と思ったらなんと杏林の語源が彼からきていたとは。三国時代だったとは!奥が深いですなあ。
というわけで、行きました。長楽の董奉山麓にある「董奉草堂」へ。入場料は・・・中国には珍しく、無料!生きてます、董奉の徳が、当地の人民にも生きています!人形はもちろん草堂にあった董奉塑像がモデルです。

人形作成日:2012年6月

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