孫権墓・徹底解剖
(2004.10.30)

【南京孫権墓付近簡易地図】

孫権墓地図 孫権墓は別名蒋陵、孫陵崗と呼ばれ、南京で最も有名な観光地・鐘山風景区内にある。(中山陵は人民なら一度は行きたい孫文の墓。明孝陵は世界遺産にも登録されている朱元璋の墓。)呉大帝・孫権と歩夫人、藩夫人が併葬されており、太子・孫登も付近に埋葬された。

南京でナンバーワンの遺跡と言ったらもちろん孫権墓なのであるが、この偉大なる大帝の墓は朱元璋の陵墓をつくる際に危うく壊されかけた(別の場所へ移動)経緯がある。しかし朱元璋の“孫権もまた好漢。ワシの門を守らせようぞ!”という一声で移動&破壊を免れたのである。

孫権墓のおかげで明孝陵の神道は湾曲しているのだが、その形は北斗七星の形になっている。北京郊外の明十三陵も風水の考えを取り入れた構図になっているのだが、陵墓一つつくるにも様々な思想が織り込まれているのである。

現在、孫権墓の墓標、孫権像などが残されているが、惜しいことに孫権墓の正確な位置は既に分らなくなっている。正確には孫権墓遺址と言うべきかもしれない。



【孫権墓・墓標】

梅花山
【墓標から梅花山を望む】
孫権墓・墓標
【孫権墓・墓標】
孫権墓遺址碑
【孫権墓遺址碑】
象など動物の石像が設置されている明陵神道の丁度半ばあたりに孫権墓の墓標がある。(上記地図参照)写真左は墓標から梅花山を眺めたものであるが、春先にはきれいな梅の花を楽しむことができる。1928年、中山陵建築時に梅の木が植えられたことから、別名梅花崗とも言われる。

写真中央は「江蘇省文物保護単位(1957年8月30日発布)」の孫権墓・墓標。ちなみに「文物保護単位」には“全国重点”、“省級”、“市級”などがある。

写真右は「孫権墓遺址」を示す碑。墓標の左下に石碑が見えるが地面に無造作に置かれている。しかも真ん中で真っ二つに折れており、文字もかすれていて読みにくい。かろうじて「孫権墓遺址」の文字と孫権についての説明文があることがわかる。97年初めて孫権墓に行った時は思いっきり見逃した。そろそろ除去されてしまうのではとかなり心配である。



【動画で見る孫権墓】

■孫権墓標付近 上記地図でも分かるとおり孫権墓標から孫権像がある場所までは少し距離が離れている。
その距離軽いダッシュで約40秒。無音なのが残念であるが、孫権墓周辺の動画をお届けする。
■墓標から孫権像までの道のり



【孫権像】

孫権像前墓標
【孫権像前墓標】
孫権像
【孫権像】
孫権像と墓標
【孫権像と墓標】
上記地図“孫権像”付近の様子。写真右の通り右側に孫権墓を示す墓標があり、中央の小さな橋を渡ると我らが東呉大帝・孫権が出迎えてくれる。像自体は木々に囲まれた形になっているが、像・墓標・橋とも道から見えるので、前を歩けば見落とすことはないだろう。

写真左は孫権墓標。昔は草に囲まれ文字が見えにくかったが、最近はさっぱりしたようだ。ちなみに裏には何も書かれていない。

中央は孫権像の拡大写真。台座を含めれば高さ2m以上はあるだろうか。黒い台座には「東呉大帝孫権」と刻まれている。孫権の持ち味・渋さが足りない石像ではあるが、出来自体はなかなかである。



【長廊レリーフ(完訳付き紹介)】

孫権像裏手の長廊には、孫権にまつわる民間伝承話がレリーフ付きで紹介されている。正史や演義ではわからない孫権がここに登場!レリーフと共に記念撮影するもよし、一字一句なめるように見尽くすもよし。孫権伝説よ、永遠なれ!

前言 【前言】

孫権(182-252)、字は仲謀。浙江富陽の人。傑出した知力と遠大な計略を持って賢者を礼遇し、人物を見極め才能に応じて任用し国を治めることに邁進した。208年、蜀の劉備と連合し赤壁にて曹魏を多いに破り、三国鼎立の基礎を形勢。建業に遷都した後は、東南地方と台湾の開発に薫功があった。病に倒れた後、鐘山南麓に埋葬される。即ち今日の梅花山である。

多くの観光客に三国呉王孫権の歴史を理解してもらい、旅行風情を添え、意義の促進・文化の形成の為に、中山陵園管理所が特別に代表的な≪慧眼識陸遜≫、≪斬案誓抗曹≫等12編の物語を選択。長廊にレリーフを作成し、孫権の人柄と性格を反映させた。国内外からの観光客の来訪と指導を歓迎する。

1993年10月
鳳凰白頭巧提親
鳳凰白頭巧提親(解説)
@【鳳凰白頭巧提親】(鳳凰・白髪で巧みに縁談する)

ある日孫権が狩りから城に戻る際、とある街の古井戸で馬に水をやり、水を汲んで渇きをいやしていた。この時、王家薬店から一人の若い女性が出てきて、前に進みでて言った。「将軍、あなた様は暑気にあたったばかりで全身汗だくです。冷たい水をお飲みになってはいけません。」孫権は「喉が渇いて耐えきれん。あれこれかまってはおれんのじゃ。」と答えた。

すると女性はくるりと向きなおって、一碗の薬茶を差し出して言った。「これは先祖伝来の暑気あたりを和らげ喉の渇きをいやすお茶です。将軍、どうぞお召し上がりください。」孫権はお茶を受け取りぐっと一飲みすると、にわかに気分爽快になり暑気払いできたのであった。

そこで、身につけていた帯の飾り玉を解きお礼にしようとしたが、女性は受け取らない。この女性は善良で美しく、また思いやるがあると思った孫権は、愛憐の情を抑えることができなかった。

日を改めて人をやり縁談を持ち出したが、彼は左半分が鳳凰、右半分が空白の画を持ちかえってきただけであった。孫権はこの画を見て察し、自ら出向き彼女の面前で白髪の翁の画を描いてみせ、題を「鳳求凰、共白頭」(鳳は凰を求める、共に白髪になるまで)とした。女性はうなずき微笑を浮かべ、その後孫権夫人となったのであった。

※鳳凰の鳳は雄、凰は雌を指す。


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