甘寧支援

1.甘寧人物紹介
2.甘寧の武器
3.甘寧関連遺跡
4.三国志グッズに見る甘寧
5.甘寧作品

          


1.甘寧人物紹介

出自

甘寧、字は興覇。益州巴郡臨江(重慶市万県)の人。秦の名将・甘茂、甘羅が祖先ともいわれている。出身地も、もとは荊州南陽で(その先祖が)移り住んできたと言う。実際、中国では南陽市のホームページで、甘寧は郷土出身の代表的人物として黄忠・魏延とともに紹介されている。本籍は南陽のままかもしれない。また、「臨江」は万県でなく隣町の忠県という説もあるし、「臨江」という地名が実は武陵を指す、という考察もある。南京近くの句容というところにも甘寧故里が地図に載っている(未確認だが気になる!)。・・・・・・さすがは、甘興覇。故郷だけでもこれだけ話がいろいろある。

益州時代 〜ヤクザの親分〜

官職につき、会計報告の任務を務める傍ら、任侠を好み、無頼の若者の頭領となって傍若無人に振舞った。一味の者は腰に鈴をつけており、「鈴のなるところ甘寧あり」と恐れられていた。甘寧の属する地方では、強盗や傷害事件があると、甘寧一味が摘発と制裁にあたったという。地方の警察権限を持っていたわけだから、タダのチンピラではない。本物の「ヤクザ」である。よく、甘寧のこの当時を指して、「江賊」とか「海賊」とかいうけれど、この表現は正しいとはいえない。れっきとした「官吏」で、警察権すら持つ「名刺だけは堅気」の人間である。非凡な政治感覚をもった悪党と言えるだろう。また、甘寧のような人物が幅を利かせていることは、漢王朝の衰退と腐敗をはっきりと象徴している。
20年余り、このような状況が続くうちに、霊帝の崩御、董卓の専横がおこり、一気に乱世の機運が高まってきた。益州にも劉焉が刺史として着任し、乱世の群雄として地盤固めをおこなうようになった。地方軍閥の誕生は甘寧のような「ヤクザ」にとってやりにくい事態であることは容易に想像できる。194年、劉焉が死去すると、当時の長安政府(李カク)は、扈ボウという人物を刺史として送りこむ。劉焉の跡継ぎ、劉璋と益州の実権を巡る争いとなり、甘寧は扈ボウ側につくが、勝利を得られず荊州へと逃走した。平和な世の中であれば、田舎のヤクザ者で終わったかもしれない彼だが、乱世の荒波はそれを許さなかったのである。

荊州時代 〜不遇の時代〜

こうして甘寧は、手下・食客800人を引き連れて劉表へ身を寄せた。戦い敗れての亡命なのに、800名も連れていたという事からも、甘寧が地元で相当な力を持っていたことがよくわかる。この時代の彼は本籍地の南陽を住所としている。この後、官渡の戦いで劉表が日和見を決めこんだことに失望して、甘寧は荊州を去ることを決意するが、どうも劉表の将軍として働いた形跡が残っていない。登用されなかったのだろう。では、何をしていたのか?学問をしていたように思われる。南陽は中原から疎開してきた知識人も多かったし、呉仕官後の的確な戦略・戦術の提言は目をみはるものがあり、「先賢の書物を読むようになった」結果、知略が備わったと理解できる。
さて、荊州を去るにあたって、甘寧は手下や食客を連れて呉を目指すが、呉の仇敵である黄祖領をそんな一団が通過できるはずもない。やむなく黄祖の許に留まることになった。203年、孫権は黄祖討伐の軍を起こす。黄祖は敗走したが、この時、甘寧は殿をつとめ、追いすがる呉の将・凌操を射殺している。大殊勲であるはずの働きである。都督の蘇飛が甘寧を重く用いるようたびたび進言したが、黄祖は一向に甘寧を重用することはなかった。ばかりか、甘寧の食客に誘いをかけ、食客たちはひとり、また一人と甘寧の許を去っていった。手足となる食客がいなくなれば、如何に甘寧とて活躍することは出来ない。この事態に彼はなすすべを知らず、一人悶々としていた。
しかし、天は彼を見捨ててはいなかった。唯一の理解者といってもいい蘇飛が、甘寧のために一計を案じ、呉に亡命しやすい国境へ配属するよう取り計らってくれたのである。のちに孫権が江夏を攻めたときに、黄祖と蘇飛の遺体を入れる棺桶を用意した程にまで恨まれていた蘇飛であったが、甘寧の才能と志を惜しみ、仇敵の許へと去るをやむなしとしてのことであった。蘇飛――。地味な人物だが、彼も任侠心にあふれる志士だったのかもしれない。

呉への帰順と黄祖討伐

呉へ投降した甘寧は、周瑜や呂蒙の推挙を受け、譜代の武将と同等という、破格の待遇で迎えられた。甘寧は孫権に謁見すると、「荊州・巴蜀へ勢力を伸ばすべし。そのためにはまず黄祖を討伐をおこなう」という献策をした。これは魯粛の戦略と一致しており、攻略対象地域の情報に明るい甘寧の加入は呉にとっても渡りに船であった。譜代並みの厚遇を受けたのもこの点が大きいと推測される。
孫権は、黄祖討伐の軍を編成し、見事これを打ち破って黄祖の首を取った。ついに親の仇を討ったわけである。演義では、この戦で甘寧が大活躍し、黄祖を射殺した、となっている。実際(正史)は、呂蒙、凌統、董襲が軍功をあげ、黄祖を討取ったのは騎士の馮則という人物である。孫権が甘寧に兵を授けたのは、この戦いによって黄祖の軍勢を接収したあとであり、戦いの時点では指揮する軍勢を持っていなかった事になる。
さて、蘇飛もまた捕虜となり、孫権は殺す気満々であったが、甘寧が「蘇飛は恩人」と、自らの首をかけてとりなした為、罪を赦された。新参者のクセに、「俺に免じて蘇飛を許せ」と言い切った甘寧、さすがの大胆さである。ところで、気になるのは蘇飛が甘寧にとりなしを依頼していたことである。もしかして彼は、黄祖の命運が尽きかかっているのを見越して、万が一の保険として甘寧に恩を売ったのでは・・・。にしても「敵国に放つ」というのは大胆極まりない恩の売り方であるが。蘇飛――。地味な人物だが、侮れない策士だったのかもしれない。
なんであれ、辛い雌伏の時代を乗り越えた甘寧は、この後呉で遺憾なく才能を開花させるのである。

周瑜指揮下での活躍

部隊を率いるようになった甘寧は、周瑜の指揮下に入り、赤壁で曹操を打ち破るのに貢献している。正史では具体的な戦功が記述されていない。
演義では大活躍で、前哨戦の「三江口の戦い」では、先陣を切って敵将・蔡勲を射殺している。黄蓋の苦肉の計では諸将に先立って助命を嘆願し、カン沢と共謀して曹操の「埋伏の毒」である蔡中・蔡和を欺いている。開戦と同時に蔡中・蔡和を血祭りにあげると、曹操を追撃する呉将の「真打ち」として最後に登場し、馬延・張ガイを討取っている。この優遇ぶりは、呉将の中でも抜きん出ており、「演義」成立時に人気が高かったことが伺える。
赤壁の後、周瑜はいよいよ江陵の攻略を開始する。甘寧は夷陵を奪取するよう進言し、自ら兵を率いて城を落とした。夷陵は、「ここを押さえられたら江陵が危ない」という戦略の要地で、のちに陸遜が劉備の侵攻に対しても死守した場所である。甘寧の慧眼、さすがである。曹仁もこれを座視することは出来ない。数千人の軍勢で夷陵城を包囲した。城方の甘寧は降兵を含めてわずか千人。絶体絶命である。長期間攻撃を受け、城兵が恐慌をきたすなか、甘寧だけは落着いてこれに対処し、呂蒙の計に従い周瑜が救援軍を送ったことによって、包囲は解けた。江陵攻防戦は、激戦の末呉の勝利となった。
さらに、周瑜と甘寧は揃って益州攻略を孫権に進言している。孫権は劉備にこの件を相談するが、(益州を我が物としたい)劉備にとめられ、周瑜の死もあって計画は実行に移されなかった。

※注 ここから先、甘寧伝の逸話は、事跡の年代と掲載順がばらばらであり、非常に分かりにくくなっている。こちらで年代を整理して、掲載する。なお、演義ではなぜか甘寧伝の掲載順に沿ってストーリーが展開している(しっかりしてよ羅漢中・・・)。

対魏戦での活躍 〜突撃隊長〜

214年5月、カン城の攻略に参加した甘寧は、呂蒙の推薦をうけ、先鋒・「升城督」に任命された。城に特攻をかけ、自ら城壁をよじ登り城に突入したため、わずか1日で城を落とすことが出来た。戦略立案をおこなった呂蒙が一番手柄、甘寧は二番手柄として折衝将軍に任じられた。演義では、この時「鉄鎖」と呼ばれる鉄球に鎖がついた武器を左右の手に一つずつ持ち、振り回すことによって城兵からの矢を弾き返し、城の守将・朱光を討取っている。

南荊州争奪戦

劉備が益州を攻略すると、孫権は荊州の返還を要求する。もちろん劉備陣営が返還に応じるはずはなく、孫権は実力行使にでる。呂蒙に命じ荊州に侵攻をかけ、魯粛には兵士1万を与え関羽の侵攻を防がせた。甘寧は魯粛に従って従軍している。呉軍は益陽に駐屯し、関羽と長江を挟んでの睨み合いとなった。関羽は精鋭5千を選んで、深夜に渡江作戦をおこなうとした。甘寧は、「私に千人の兵士をいただければ、関羽を食い止めて見せます。やつは私の咳払いを聞けば、渡江を諦めるでしょう。もし川を渡れば、やつを生け捕りにして見せます」と啖呵を切り、魯粛は即座に甘寧の策を採用した。甘寧が夜どおし軍を進めると、果たして関羽は渡江してこなかった。水軍戦ならば関羽ですら手も足も出ない、さすがは甘興覇である。
孫権に功を高く評価され、西陵太守に任命された。また、今や甘寧の聖地である、陽新を与えられている。
・・・しかし、演義では「関羽様」に歯向かうことは許されない。ましてや、「関羽様が甘寧に手も足も出なかった」なんてもってのほかである。かくて、このエピソードは演義ではばっさりと削除され、替わりに「単刀の会」で伏兵を忍ばせておくが、関羽が魯粛を(事実上)人質にとったため「甘寧は関羽様に手も足も出なかった」という話になってしまった。
結局、呉と蜀の決戦の火蓋が切られる前に、和睦がなされ、荊州を呉と蜀で二分する取り決めとなったのである。

百騎劫魏営
荊州問題に区切りがつくと、孫権はすかさず合肥攻撃を開始した。しかし、この戦は張遼の奇襲により散々な敗北となり、甘寧も退却時は後詰の一員として弓を手に奮戦した。呉の軍楽隊は苛烈な奇襲に茫然自失し、音楽を鳴らすことが出来なかった。甘寧はそれを見ると軍楽隊を叱りつけたという。
216年、曹操が濡須へ攻撃を仕掛けてくると、甘寧は前部督となり、敵の先鋒に攻撃をかけることとなった。甘寧は、配下100人ほどを選りすぐり、夜襲の準備をおこなった(演義と違い、孫権の指示を受けての夜襲のようである)。この夜襲は文字通り「決死隊」であり、孫権から餞に「特別なご馳走」が下賜されている。そのご馳走で出撃前に酒盛りを始めるが、甘寧以外の将士は意気消沈していた。甘寧は抜刀して一喝、「この俺が命を惜しまず討ち入ろうと言うのに、貴様らは命を惜しむのか!」・・・ものすごい、「俺様理論」である。さすがは甘寧。覚悟を決めた決死隊100名は、夜陰に乗じ、口に枚を含んで(演義ではさらにガチョウの羽を目印にしている)、敵陣に切り込み大暴れ。奇襲は大成功に終わった。この手柄で、甘寧は配下に二千人を加えられた。
孫権が「曹操には張遼が、わしには興覇がいて、ちょうどつりあっているのだ」という有名な台詞を言ったのはこの時である。
※実際、曹操は幾度も濡須へ侵攻してきており、100騎で夜襲がいつのことかはっきり分からないが、上記孫権の台詞から、「魏最強=張遼」の図式が出来上がった215年の合肥戦以降と判断した。
演義では、214年のカン城攻略を含め、甘寧の対魏戦を一緒くたに描いている。また、凌統との確執や劇的な和解のエピソードを盛込み、ほとんど甘寧の独壇場といえる活躍ぶりを示している。

甘寧エピソード

歴史の表舞台での甘寧の活躍は以上であるが、このあと正史本文には、何故か「料理番事件」が記録されている。これは、「甘寧の呂蒙の子供のケンカ」であり、わざわざ記述する必要があったのか?が全くわからない。他にも、呉では孫権と張昭が似たようなレベルのケンカをやっているが、こちらは「公孫淵との外交問題」という重要案件に絡んでいるので、正史本文に記載されていることにある程度納得できる感じがする。
あるとき、甘寧の料理番が失敗をしでかし、呂蒙のもとへ逃げ込んだ。呂蒙は甘寧が料理番を殺すことを心配し、すぐには送り返さず、別件で甘寧が呂蒙宅を訪れた際に、「殺さない」という約束のもと、送り返した。しかし甘寧は、料理番を桑の木に縛りつけると、自ら弓を取って射殺した(ひどい・・・)。これを知った呂蒙は激怒して、兵士を集めて甘寧の船に攻撃をかけた。一方の甘寧は、気が咎めたのだろう、呂蒙が攻込んできても、船に横たわったままで、動かなかった。これを聞いた呂蒙の母が裸足で駆けだして来て、呂蒙を諌めた。我に返った呂蒙は甘寧と和解し、甘寧も涙ながらに約束を反故にしたことを詫びたのであった・・・。めでたし、めでたし。
このような「事件」もあったものの、呉での甘寧の最大の理解者であり支持者は紛れもなく呂蒙であり、人格に大いに問題のあった甘寧が呉にてまっとうな活躍が出来たのも彼のおかげといえる。
ちなみに、甘寧のその他の対人エピソードは以下のとおり。
凌統は、甘寧を父の仇と怨んでいた。あるとき、呂蒙の家で酒宴となったが、宴酣の頃、凌統は刀を持って舞い始めた。(殺意を感じ取った)甘寧は、立ち上がると「双戟の舞」を披露するとか言いはじめる。受けて立とうというのだ・・・ヤクザだねぇ、やっぱり。慌てたのは呂蒙で、刀と盾を手に取り、両者の間に割って入ったため、事なきを得た。孫権はこれを知ると、凌統に配置換えを命じ、甘寧と接触しないようにした。
孫コウ(孫静の息子)は、甘寧と酒を飲み、大喧嘩となった。甘寧を諌めるものがあったが、彼は「孫コウは呉の一門衆だからといって、人を侮辱してもいいのか?一門だろうと外様だろうと、主君のために働いてるんだから、立場は同じだろう?俺は世間の軟弱者のように、権門を恐れて詫びを入れたりなんぞはしねえぞ!!」と、相変わらずの俺様モードだった。孫権はこれを聞くと、孫コウを責め、「人の上に立つ者の心構え」を諭した。非を悟った孫コウは甘寧に詫び、以後、良好な関係となったという。
・・・・・・。戦場で、あれほど知将振りを発揮しているとは思えない荒くれである。とはいえ、彼は部下や兵士をよく養ったため、目下のものには慕われたようである。このあたり、魏延や朱桓と似たタイプかもしれない。
ちなみに、呉後期の名将・丁奉は甘寧配下の部隊長であった。

甘寧の死

演義では、222年、夷陵の戦いの前哨戦で、病を押して出陣するが戦死となっている。
が、もちろん、無敵を誇る甘寧が殺られるわけがない。正史での彼は病死である。問題となるのは、没年であるが、これがよくわからない。潘璋伝に、「甘寧死後、配下の兵を統率した」という記述があり、これが関羽討伐と夷陵の戦いの間に記載されている。ここから、219年から222年の間という推測が出来るが、別の資料で215年冬に死去という記述もあるらしい(未確認)。
甘寧の死にまつわるエピソードでは、演義では矢を頭に受けたまま馬に運ばれ、富池口の大樹の下で事切れた、となっている。また一説には、戦死して長江に落ちたが、首を取ろうとする蜀兵に数千羽のカラスが襲い掛かり、そのため蜀では首級をあげることが出来ず、甘寧の遺体はそのままカラスに守られながら富池口に流れ着いた、という。富池口は現在の富池鎮で、甘寧の聖地である。当地には昔から甘寧を祀る廟があったといわれているため、こういった甘寧よりのエピソードが地元で語り継がれていたのであろう。

甘寧の子孫

死後、後継者は息子の甘カイという人物だったが、罪を犯して会稽に強制移住となり、病死している。晋代に甘寧の子孫である「甘卓」という人物が登場する。伝も立っている有力者で、それによると、甘寧には甘述という息子がおり、その息子が甘昌、そしてその息子が甘卓であるという。この人物は、非業の死を遂げたようで、「死の前日、ふと井戸を見た。井戸水に映る自分の姿に、首から上がなかった。これは彼の死を暗示してたのである」という猟奇話が残っている。甘卓墓が現存するようで、写真を見たことがある。また、甘寧の子孫はいつからか南京に移ったようで、清代には、甘熙という富豪が、甘寧の子孫として現われる。彼は、99間半の大邸宅に住み、芸術品などを収集したという。最近、これを復元した「甘家大院」が南京に登場し、観光名所となっている。


2.甘寧の武器

甘寧の武器といって、何が思いつくであろうか?関羽なら青竜偃月刀、張飛なら蛇矛といった、トレードマークとなる武器は、甘寧にはない。だからといって、甘く見てはいけない!甘寧は、三国志でも他に例を見ないくらいの、万能の武器使いなのである!!

武器1.弓 熟練度:S トレードマーク度:B 使用頻度:S

甘寧の使う武器で、おそらく一番使用頻度が高いのが弓である。おもな登場機会はざっと以下のとおり。
正史:@黄祖配下時、弓が巧みだったので、凌操を射殺した
    A合肥の戦いで、自ら弓を射掛けて応戦
    B料理番を木にくくりつけ、自ら弓を取って射殺
演義:@凌操を射殺
    A黄祖を射殺
    B蔡勲を射殺
    C楽進を射る

名だたる武将から、料理番に至るまで(至るなよ!)、弓で殺しまくっている!!明らかな弓の名手である。熟練度は、文句なしに最高のSランク。
演義はもちろん、正史で多用しまくっているのが印象的。しかし、絵的に甘寧が弓を放っているシーンは、資料をあさったが意外と少なく、使えそうなのは一つのみ・・・。何故?

<三国演義本 挿絵>
三江口で、先鋒として蔡勲を
射ているところ。



武器2.薙刀 熟練度:A トレードマーク度:C 使用頻度:A

飛び道具の弓に対して、甘寧が、戦場で手に握っていることが多いのが薙刀である。三国志連環図では、大体これを握っている。薙刀での活躍では、
演義:赤壁の戦いで馬延、張ガイを斬殺
が挙げられる。しかし、この武器を使っている武将は甚だ多く、「その他大勢」的扱いは否めない。それゆえか、薙刀をトレードマークとしている資料はあまり見かけない。

<連環図>
赤壁で馬延・張ガイを瞬殺しているところ。
斬られているのが馬・張どっちなのか分かりませんが、
全くどうでもいい事です。甘寧最強!



武器3.剣 熟練度:A トレードマーク度:A 使用頻度:B

この頃の武将なら誰でも持ってただろ!などと突っ込んではいけない。問題は、「使っているか」「使っている姿をイメージできるか」なのである。剣を振り回している張飛とか黄忠が想像できるか?出来ないはずであるし、甚だ似合わない。
甘寧は、不思議と剣がしっくり来る。剣を持っている姿が、とてもよく似合うのだ。剣を使っているシーンは以下のとおり。
正史:100騎で夜襲をかける決起集会の酒宴で、びびる都督に対して剣を抜いて叱りつける。
演義:赤壁で「埋伏の毒」である蔡中・蔡和を剣で脅す。開戦時には、斬殺する。

剣をトレードマークとしている資料は結構多い。

<三国演義本 人物紹介>
なぜか、この本では二刀流です。
<トランプ>
猛将型で武器が剣というのは
結構珍しいかも?
<泥人形>
プラスチックのパーツで
剣が作られています。
<トランプ>
柄に手をかけて睨みを
利かせています。



武器4.鉄鎖 熟練度:S トレードマーク度:S 使用頻度:D

ある意味、甘寧の隠し武器。一度しか登場しないが、そのインパクトはものすごい。他の武将が使っていることも全くないため、甘寧のトレードマーク的に使われることが多い。コーエーの三国志でも、「鉄鎖」はアイテムとして登場する(効果はしょぼい)。
演義:カン城攻略時に、鉄鎖二つを振り回すことによって、城兵の弓矢をはじき返す。城壁を一気によじ登った後は、守将の朱光を一撃で叩き潰した。
この、「ブンブンッ、ドカーン!」を見るに、使いこなし方は完璧である。文句なしの熟練度Sとしたい。とにかく下図を見てください。反則ですから。

<連環図>
左図のように振り回すことによって敵兵の矢や石をはじき返す!常識ではありえん使い方!!
漫画じゃないんだから!梯子を登りながらこの離れ業ができるのは超人的。
よじ登ったら右図のように「ドカーン!!」
「ぐしゃッ」って感じで殺られてる朱光が哀れです。

<トランプ>
これもかなりのインパクト。
滅茶苦茶、兇悪そうです。
<泥人形>
イカしたヤンキー風甘寧。
鉄鎖がなんとなく可愛い。



武器5.双戟 熟練度:B トレードマーク度:B 使用頻度:E

最後の武器は、ちょっと無理矢理感があるものの、正史に登場するのでエントリー。
正史:凌統が剣舞にかこつけて父の仇を討とうとしたとき、対抗して「私も双戟の舞が出来ます」と切り返す。呂蒙が体を張って仲裁したため、その威力は不明。
※このシーンは、中国の大河ドラマ三国志で見ました。ドラマでは、なかなか呂蒙が仲裁に来てくれず、凌統と甘寧が剣vs双戟で火花の散るような一騎打ち(もはや、舞ではくなっている)を繰り広げています。
連環図やトランプでも、双戟を持った甘寧が描かれている。絵的にしっくりくるので、それなり以上の使い手と判断できそうだ(ホントか?)

<連環図>
三江口の戦いで出陣する甘寧。
何故か手に握られている双戟だが、
結局弓を放つため使われない。
<トランプ>
…っていうか、分かりやすく
左の資料のパクリじゃん!
双戟が意外と似合います。


まとめ

というわけで、少なくとも5種類の武器を自在に操る武将・甘寧。これだけ種類が多い武将は他にはいない。なお、参考として使用武器の種類が多い武将を紹介すると・・・。
典イ:  1.双鉄戟 重さ80斤とか。自慢の怪力で振り回す、典イのトレードマーク。胡車児に盗まれた。
     2.手戟 呂布軍との戦闘で使用。敵が20歩の距離まで来たときに、投げつけ、百発百中。
     3.素手 ・・・。武器がなくても、戦える!!双鉄戟を盗まれたので素手で敵兵を撲殺。
趙雲  1.槍 趙雲のトレードマーク。
     2.剣 青紅の剣を夏侯恩から奪い、槍との二刀流で使用。
     3.弓 赤壁で、七星壇から撤収する孔明を迎えたときに徐盛の船の帆綱を射切る。
太史慈 1.槍 普段の武器。
     2.手戟 孫策との一騎打ちで奪われる。太史慈のトレードマークだが、本人は一度も使っていない。
     3.弓 攻城戦で、罵声を飛ばした城兵を射る。

※3種類の武器を操るものはそこそこ居るようである。

<結果発表>
ポイントはS=10、A=7、B=5、C=3、D=2、E=1 として計算

武器 熟練度 トレードマーク 使用頻度 総合得点
1位:弓 S 10 B 5 S 10 25
2位:鉄鎖 S 10 S 10 D 2 22
3位:剣 A 7 A 7 B 5 19
4位:薙刀 A 7 C 3 A 7 17
5位:双戟 B 5 B 5 E 1 11

というわけで、甘寧得意の武器として演義・正史にて圧倒的な使用頻度と実績を誇る「弓」を、三劉での「甘寧最高武器」に認定!!惜しかったのが、鉄鎖。驚異的なインパクトと「使い手は甘寧のみ」というのは大きなセールスポイントだったが、いかんせん一発ネタだった。3位以降は妥当な順位といえそうだ。


最後に、呉支援トップにも使用した、甘寧の武器5種をすべて網羅した特製人形で武器コーナーを締めくくりたい。
甘寧一番乗り!!


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