虎牢関 | ||
|
河南省滎陽市水鎮 | |
|
“虎牢”の地名は、周の穆王がこの地で虎を飼っていたことに由来する。秦代に「虎牢関」、漢代には「水関」が置かれた。その後何度も名前が変更され、元の虎牢関に復名されたのは清代。 演義では虎牢関と水関は別の場所として描かれているが、実は同一の場所であることはよく知られている話だ。 古来より歴史に名を残す数々の戦いの舞台となっており、清雍正年間に立てられた碑が保存されている。 |
|
|
ゲームの世界で知られている「虎牢関」の地形がそのまま眼前に広がっており、ある意味非常に感動できる。周辺には整備はされていないものの様々な遺跡が点在するが、虎牢関を示すのはこの碑のみであり、少し寂しい気がするのだが…。(03年1月) | |
|
鄭州→滎陽→水とバスで移動。(鄭州⇔水もあり。)水終点で下車後直進すれば到達。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス(鄭州からチャリ圏内) / 地形:平地&丘陵地 / 見応え:満足 | |
関連武将 | 劉備、関羽、張飛、呂布 |
虎牢関三義廟 | ||
|
河南省滎陽市水鎮 | |
|
虎牢関では「三戦呂布」での三兄弟の活躍がひかっているが、これを記念してつくられたのが三義廟。(創建は宋代以降か?)三兄弟を祀っているはずだが、現在は関羽像しかなくただの関帝廟となんら変わりがない。 | |
|
三義廟ということもあり廟内には桃園の誓いなどの壁画もある。ただ殿が二つあるのに、二つとも関羽が祀られているのはちょっと残念。(03年1月) | |
|
鄭州→滎陽→水とバスで移動。(鄭州⇔水もあり。)水終点で下車後直進すれば到達。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス(鄭州からチャリ圏内) /地形:平地&丘陵地 / 見応え:満足 | |
関連武将 | 劉備、関羽、張飛 |
王祥墓 | ||
|
河南省滎陽市高村郷高村南 | |
|
晋書(巻三十三列伝第三王祥弟覧)には王祥の遺言として北邙山への埋葬についての記載がある。しかしこの北邙山は晋代の人物の陵墓が数多く残る洛陽郊外を指していると思われるが、真相は…。ちなみにここ滎陽市高村のすぐ北も北邙郷という。 | |
|
畑の中でひときわ存在感を示す大きくしっかりとした墓。三公まで上りつめた王祥だからこそ成せる業か。墓の規模は申し分がないが、惜しむらくは碑がないことか。(09年12月) | |
|
鄭州西站から滎陽行きバスに乗車。滎陽で北邙行きに乗り換え高村の南で下車。(高速をくぐって約1km北上すると右手に河が見えるので、そこが下車ポイント。)河の北岸沿いに東へ農村ダッシュ。10分も走れば大きな墓が見えてくる。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス&農道ダッシュ / 地形:畑 / 見応え:規模はでかい | |
関連武将 | 王祥 |
董陵漢墓 | |||
|
河南省鞏義市大峪溝鎮董陵村 | ||
|
史書には漢代の董丞相墓という記載があり、ここ董陵村の名の由来となっている。董卓の墓と言われているが、伝説の域を出ない。 | ||
|
地元では“董卓墓”で割と通じる。これは我々三国志ファンにとっては非常にうれしいことだ。墓には盗掘の跡があり、それは立派な墓でもある証。2007年12月18日に第二批市級文物保護単位になっているが碑はない。(09年12月) | ||
|
鄭州や上街から鞏義行きのバスに乗り、大峪溝で下車。進行方向に向かって右手の坂を下りきった所から董陵を経由するバスがある。(私が行った時は違う方面行きのバスばかりで、一回も董陵経由バスが来なかったので、やむなく乗り合いバイタクを利用。)村の入り口に「董陵」の石碑があるので、ここから山の上にある鉄塔を目指しながらひたすら上ると到着。 | ||
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス&坂ダッシュ / 地形:台地上の畑 / 見応え:碑があれば完璧 | ||
関連武将 | 董卓 |
呂布墓 | ||
|
河南省焦作市修武県郇封鎮蘭封村 | |
|
下邳にて曹操に敗れた呂布は、命乞いをするも劉備の口撃により絞殺される。正史によれば「陳宮・高順らとともにさらし首にされて許に送られ、その後埋葬された。」とあるが、具体的な埋葬地にはふれていない。 一般的に墓は@故郷A臨終地B封地につくられるケースがほとんどであるが、呂布の場合はBにあてはまる。 河内に駐屯した時期があり、何よりも呂布と言えば王允により与えられた爵位・温侯が有名。(現在の焦作周辺) 五原郡九原県(現在の内蒙古)出身、辺境で生まれ孤独な幼年時代を過ごしたと言われる呂布が、この地に埋葬されたのは自然な流れと言えるのかもしれない。 |
|
|
三国志の最強武将「人中の呂布」。満を持して三国遺跡界に殴り込みをかける! 地元では「呂布塚」として有名。石碑は立てられていないが、修武県と武陟県の境には計7つの漢墓があり、「県重点文物保護単位」に指定されている。(地元民の話では「孔明塚」なるものもあるとのこと…。) 塚の裏手にはとても小さいが祠もあり、地元民に大切にされていることがうかがえる。(06年7月) |
|
|
鄭州の汽車中心站(火車站対面)より、直達ではない焦作行きに乗り、武陟の高速ICを下りた地点で下車。ここからほぼ真北に4〜5km行けば蘭封村に到着。(村入り口には三教堂という古い廟がある。)ここから西に向かって村の奥に入り、畑に出た所で北へ。(村の入り口から約2km) 私は村人に人民チャリを借してもらい、連れて行ってもらった。 |
|
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:村人同行ダッシュ / 地形:畑 / 見応え:号泣&驚愕は必至 | |
関連武将 | 呂布 |
官渡古戦場 | ||
|
河南省鄭州市中牟県官渡橋村一帯 | |
|
「赤壁の戦い」と並び、三国志において時代の流れを決定づけた「官渡の戦い」の舞台。勝利した曹操は本格的に中国統一に乗り出すこととなり、敗者の袁紹率いる袁家は事実上ここに崩壊した。 歴史に残るこの古戦場に、93年多額の投資を行い完成させたのが「古戦場芸術宮」。官渡の戦いを当時のハイ・テクノロジーを駆使して忠実に再現した、まさに人民の結晶。別名「ハイテクロボ館」。 |
|
|
ハイテクロボ館を見る為に、中国全土のみならず海外からも旅行者が訪れていることは、村の標識をひらがな(→“かんときょう”)で刻んでいることからもうかがえる。(実際は日本人三国迷以外の客はほぼゼロ?)“ハイテクロボ館の感動よ、再び!”と意気込んで再訪した05年9月、倒産という衝撃の事実を知ったのであった…。(休館中?) とは言え、周辺の見所はまだまだ残されており、袁紹や曹操のファンなら是非一度は目指したい遺跡だ。(98年8月、05年9月) |
|
|
開封西站より中牟行きバスに乗り、官渡旅遊区入り口下車。(中牟からだと10分程で到着。)後はハイテクロボ館まで北に向かって“官渡ダッシュ”(→入り口からハイテクロボ館までうれしさをかみしめながらダッシュする行為。三国迷度が試される。)をすれば到着。 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり(休館中) / 推奨交通手段:官渡ダッシュ / 地形:平地 / 見応え:五丈原三国城は確実に凌いでいる! | |
関連武将 | 曹操、袁紹 |
通許曹植墓 | ||
|
河南省開封市通許県長智郷後七歩村 | |
|
兄・曹丕に疎んじられた曹植は封地を転々としたが、雍丘王として最も長くこの地に滞在している。 明成化6年(1470年)に洪水の被害に遭った後、“魏曹植之墓”と刻まれた石碑と地下道が見つかり、この地に曹植が埋葬されたと考えられ曹植祠等が建てられた。黄河の氾濫等で幾度となく破壊されたが(鄄城・曹植読書台と同じ運命)、1982年に通許県・文物保護単位に指定され現在に至る。 尚、この地はかの有名な「七歩詩」が詠まれた地とされ、村名にも残されている。 |
|
|
平時は扉に鍵がかけられているが、しっかりと整備されている。曹植陵園の扉の対面に住んでいる老夫婦が鍵を管理しており、「七歩曹植墓」という本も8元で売ってくれる。敷地はそれ程広くはないものの、東阿曹植墓にもひけをとらないつくりに感動。 開封の山陝甘会館で一昔前の墓の写真が展示されている。(06年4月) |
|
|
開封(火車站対面の汽車站発)→通許→後七歩村(10路)とバスで移動。後七歩村の入り口(バス下車地点)から北に向かって500m程で到着。所要計約2時間。 | |
|
門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:管理人から本を購入できる / 推奨交通手段:バス&徒歩 / 地形:平地 / 見応え:七歩詩を暗誦してから行くべし! | |
関連武将 | 曹植 |
|
||
|
河南省許昌市北郊外蘇橋郷冢許村 | |
|
馬騰は曹操に征南将軍に任命され、都におびき出されて殺された。この地に墓があるのは納得ではあるのだが、歴史背景と照らし合わせると、馬騰墓の碑に記されている没年(208年だったかな?)には疑問が残る。馬騰墓に関する情報は許昌博物館にある。(といってもあまり参考にはならないけど…。) | |
|
とにかくすごい田舎にある。塚自体はかなり大きいといえるが、手入れはほとんどされておらず、塚の上には木が生え放題。墓前に立つ碑は割と新しいものであった。ちなみに裏はトイレになっていた…。(98年8月) | |
|
華佗墓をさらに北に行くとしか説明できない。かなり近くまで行かないと人民も知らない。私は華佗墓で懲りており(雨の中レンタ人民チャリで泥まみれになった…。)、タクシーで軽くクリア。それでも運ちゃんは出発前に煙草を買い、途中バラ撒きながら聞き込みには余念がなかった。 | |
|
馬騰 | |
|
三劉度14:せっかくメジャーデビューしたんだから、間違ってもこの墓をなくさんように! 見応え3:三国志の旅に慣れている者にとって、この墓は“かなり”大きく、新しいとはいえ碑もある。 遺跡価値4:外見はただの土塚であるが、真偽はともかく馬騰の墓があることの意義は大きい。 到着難易度4:私はタクシーで苦労はしなかったが、自力でチャリ捜索だとかなりきついはず。 地元密着度3:墓に到着してしばらくすると、大勢の人民が集まってきた。馬騰の墓参りか?って、我々よそ者を珍しがってるだけだった。それでも近隣人民は誰でも知っている。 |
|
||
|
河南省許昌市北郊外蘇橋村石梁河西岸 | |
|
三国時代だけではなく中国史上最高の名医華佗もまた曹操によって殺された。馬騰墓の近く(でもないけど…)に位置するのがおもしろい。許昌では有名な三国遺跡である。 | |
|
以前の華佗墓の写真を見たことがあるが、かなり様子が変わっていた。情報では中国の「三国志遺跡テーマパーク化計画」により工事が進んでいたが、途中で中断している模様。立派な塀で囲まれているが、碑の周り以外は建設現場のようであった。(98年8月) | |
|
レンタ人民チャリでひたすら許昌北郊外へ(約15Km)。途中人民にけんかをふっかけられ、雨の中泥まみれになりながらもやっと到着。しかし約3m近い塀は閉ざされていた…。結局塀を乗り越えて無事(?)見学。 | |
|
華佗 | |
|
三劉度15:到達に苦労しただけあって、個人的に思い入れがある遺跡。 見応え3:三国志テーマパーク化によって完成すれば、もっとよくなるはず。 遺跡価値3:故郷は亳州。殺されたのは洛陽。一説では弟子が徐州に埋葬。ここは元々廟かな? 到着難易度5:本来は3で十分かも。ただ豪雨と泥と閉ざされた門にやられた…。 地元密着度4:小さな女の子も知ってた。名医というより、神医華佗の知名度は高い。 |
区間 許昌⇔繁城鎮 |
手段 自転車 バス |
距離 20km 20km |
所要 2h 1h |
・許昌市街地⇔繁城鎮まではバスも出ているが、他の遺跡とセットでまわれることを考えれば自転車がベスト。道も一直線だし。 但しそれでも迷った我々は何なんでしょうか…。 |
|
関連武将 | 曹丕、献帝 |
区間 許昌⇔繁城鎮 |
手段 自転車 バス |
距離 20km 20km |
所要 2h 1h |
・受禅台とは非常に近い位置にある為、セット観光可能。但し、扉が閉まってる為、管理人を探すのに苦労すること必至。 他の廟とは違って管理人の家はちょっと離れた所にあるらしい。 |
|
関連武将 | 曹丕、献帝、王郎、梁鵠、鐘ヨウ |
|
||
所在地 | 河南省臨頴県城西繁城鎮 | |
解説 | もともとは曹丕をまつっていたが、明の嘉靖年間の許州知事によって献帝廟に建てかえられた。 大殿には三絶碑と呼ばれる「受禅表」碑と「公卿将軍上尊号奏」碑が残されている。 |
|
現況 | 三絶碑以外にも献帝の像などを期待したいところだが、廟内には碑以外何もない。廟に掲げられている額の文字はかすれ、みすぼらしい廟であるが、小学校と併設されているので、なくなる事はないだろう。(03年1月) | |
交通 | 繁城鎮の市街地から南へ約100mの所で右折。曲がってすぐの小学校に併設されている。 | |
関連武将 | 献帝 |
|
||
所在地 | 河南省許昌市蒋李集鎮黄楊村 | |
解説 | 劉備軍初代名軍師・徐庶の母親の墓。曹操に捕らわれた後、徐母は自殺。この地に葬られた。 | |
現況 | 1982年に許昌県の重点文物保護単位に認定されただけあって、かなり墓らしい墓となっている。こじんまりした塚に碑が二つ。武将の母としては各段の扱いだ。(03年1月) | |
交通 | 許昌から繁城鎮へ延びる公路を南へ約15km。公路上に“歇馬店”の看板が見えたら、公路の西側の細道を入って約200m。 | |
関連武将 | 徐庶母 |
八龍塚 | ||
|
河南省許昌市北郊外陳庄村西 | |
|
後漢朗陵侯・荀淑とその八人の息子の墓。(息子達の墓は荀淑墓の西北に位置していたらしいが既に平らにされてしまったようだ。)八人は皆優秀で名声もあったことから“八龍”と呼ばれていた。 荀ケも寿春で死んだ後、曹操によってこの八龍塚に移葬されたという説もあるが真相はどうなのであろうか。寿春(寿県)にも近年まで彼の墓があったことは確実なのだが…。(01年捜索失敗) ちなみに荀ケは荀淑の次男・荀コンの子。荀攸は荀淑の甥の孫にあたる。(荀ケは荀攸の叔父だが、年齢は荀攸の方が上というのは有名な話。) |
|
|
許昌ではかなり有名な三国遺跡の一つ。98年にも一度タクシーをチャーターして目指すもなんと失敗…。理由は覇陵橋と中国語の発音が似ていることから、タクシーの運ちゃんが聞き間違えたからだ。(運ちゃんに言わせれば我々の中国語に難ありということなのだろうが…。) 今回も聞き込みの成果があげられず、迷いに迷った挙句何とか到達…。遠くから眺めてもわかるくらい塚が高く、いい雰囲気をつくっているのだが…。中原人よ!お願いだから普通話を話してくれ!!(04年5月) |
|
|
清yi河にかかる八龍橋(許昌市北)を渡り北上。約500m行ったところで右手に地元会社の赤いゲートが見えるのでそこを右折して到着。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:街のどこからでも徒歩可 / 地形:平地 / 見応え:満足 | |
関連武将 | 荀ケ、荀攸 |
春秋楼 | |||
|
河南省許昌市区 | 【関羽像】 |
【大殿】 |
|
関羽が下ヒの戦いにより曹操に降った際、居住していた場所。(曹操より賜った。)内院に甘・麋二夫人を住まわせ、自分は外院に住んでいたと言う。 関帝廟とも呼ばれるが、毎晩「春秋左氏伝」を読みふけった場所ということもあり、正式名称は春秋楼となっている。 建物自体は元代に建て始められ、時代とともに何度も修築・再建されている。昭烈皇后廟もちゃんとある。 |
||
|
最大の見所は余裕でガンタンクくらいの大きさはある関羽像。そしてひとまわり小さいが、周倉・関平・廖化・王甫と続く。正直関羽以外は皆かなりかっこいい。 大きさだけでは三国志遺跡ナンバーワン。一見の価値あり。(私は二回行ったが…。)(98年8月/04年5月/07年8月) |
||
|
許昌市中心。すぐ近くにマクドナルドがオープンした。 | ||
備考 | 門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:平地 / 見応え:でかい | ||
|
関羽 |
灞陵橋 | ||
|
河南省許昌市郊区石梁河上 | 【曹操・関羽レリーフ】 【灞陵橋】 |
|
城から八里のところにあった為、八里橋とも呼ばれていた。(中国語では発音がかなり近い。)関羽が曹操のもとを辞し、馬上にて錦袍を受け取った場所で、ここから関羽の千里行が始まるが、正史及び演義には灞陵橋の名称は記載されていない。元々は関羽の千里行の出発地は長安とされていたが、羅貫中が演義を書く際に地理的に大きな誤りがあるとして許昌郊外に変更したといわれている。 現在の橋は1990年に再建されたもの。橋のたもとには明末の武将・左良玉(1599〜1645)の書による「漢関帝挑袍処」の石碑がある。(割れて一部が欠損している。) |
|
|
不格好な関羽の石像が初めて訪れた98年からかなり強い印象として残っているが、近年は質の高いレリーフや像が新たに立てられたので、境内にある関帝廟とセットでゆっくり楽しめる観光地となっている。 記憶ではCCTVの「三国演義」で小喬を演じた女優がかつてここを訪れていたはず。三国志の登場人物を演じた俳優を招待する観光地があるが、灞陵橋は相応の資格(ネームバリューと設備)があるということか。(98年8月/04年5月/07年8月) |
|
|
5路のバスで「灞陵公園」下車。 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:市内バス / 地形:平地 / 見応え: | |
関連武将 | 関羽、曹操 |
許昌王允墓 | ||
|
河南省許昌市北郊外清yi河西岸 | |
|
『連環の計』によって三国志の名場面を演出した王允の墓。王佐の才ありと言われ見事董卓を謀殺するも、長安にて董卓軍残党の李カクによって殺されてしまった。 その後彼の死を悼んだ献帝の手によって許昌に墓が移されたという。 |
|
|
この王允墓こそ墓らしい墓と言えるだろう。墓碑は塚にうずもれた形になっているものの、塚の上の木や、変に手を加えられていない姿が墓マニアの心を揺さぶる。しかし万一河が増水したらこの墓は危ない…。河岸では程普墓のようにコンクリートコーティングが必要なのかもしれない。(04年5月) | |
|
清yi河にかかる八龍橋を渡らず、河の西岸に沿って北上。橋から徒歩10分程で到着。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:街のどこからでも徒歩可 / 地形:河岸 / 見応え:満足 | |
関連武将 | 王允 |
|
||
|
河南省許昌市将李集鎮塚劉村 | |
|
献帝の妻・伏皇后は名を寿といい、伏完の娘である。出身は諸葛亮と同じく琅邪(今の山東省・臨沂)。 曹操の暗殺を企てるも、事が事前に漏れ殺されてしまった悲劇の皇后。殺されてこの地に葬られた。 |
|
|
民家を通り抜けると一面に広がる畑にでかい塚が一つ。殺された皇后にしては規模が大きい墓だ。 あたり一面が畑となっており、雨でぬかるみになっていると近づくのが難しい。(03年1月) |
|
|
塚劉村(徐母墓からみて北東に位置する)の民家を、東に向かって突き抜けると見えてくる。 | |
|
伏皇后 |
毓秀台 | ||
|
河南省許昌市張藩鎮東2km | |
|
漢魏故城東南隅に位置する。建安3年(198年)、曹操が献帝の為に造った祭壇。献帝は毎年秋分に文武百官を引き連れて天に祈りを捧げた。 高さ15mの台上には天爺廟がある。 |
|
|
許昌郊外のシンボル的遺跡。張藩には多くの遺跡があるが、歴史的由来もはっきりしており、遠くからでも確認できる為、真っ先に訪れたい。 ここを基点に数ある張藩の遺跡を攻略せよ!(98年8月/06年7月/07年8月) |
|
|
許昌汽車東站より201路に乗り、張藩の中心を過ぎて古城で下車。右手に見える。(漢魏許都故城遺址の巨大な牌坊が建てられたのでさらに分かりやすくなった。) | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:畑 / 見応え:許昌の遺跡捜索はここから始まる。 |
|
関連武将 | 献帝、曹操 |
張公祠 | ||
|
河南省許昌市張藩鎮門道張村 | |
|
別名、張飛廟。劉備・関羽・張飛が献帝に謁見する際に駐在した地。張飛を祀る廟であるが、劉備・関羽、そして清代には包公も祀られることとなり、そのため包公寨とも呼ばれた。 山門(正面の黄色い門)の中の両脇には、伝説の“風雨石”がある。張公殿前にある明・清時代の“地震碑”も有名。 |
|
|
三兄弟が駐在した地なのに、主役は主君の劉備でも中華の英雄関羽でもない。なぜ張飛廟なのか?元々は三兄弟を祀る廟であったのだが、張飛殿以外は大風で破壊されてしまったことに由来していると聞いたことがある。 山門の“風雨石”は石の様子から天候が分かるというスーパーアイテムであり、この石を手に入れた張飛が諸葛亮に代わり赤壁の戦いで東南の風を呼んだという民間伝承もある。よもや風雨石の持ち主・張飛だけは大風の難を逃れることができたのではあるまいか? 98年当時は写真を撮っていないため直接比較はできないが、廟全体がボロボロだった記憶がある。04年に修建されたそうだが、全体的な印象は再訪時もあまり変っていない。 (98年8月/06年7月/07年8月) |
|
|
許昌汽車東站より201路に乗り、張藩の中心を過ぎてすぐの段庄で下車。東端にある「段庄」の標識がある場所から農道を約1km北進、突き当たりにある。途中、池が右手にある。98年に初めて訪れた際は、方言攻撃をもろにくらいこの池付近をぐるぐる周り捜索が難航。結局村人に連れて行ってもらった。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス+徒歩 / 地形:高台 / 見応え:もっと投資を! | |
関連武将 | 張飛 |
徐晃墓 | ||
|
河南省許昌市張藩鎮城角徐村東北1km | |
|
徐晃の府第(貴族等の屋敷)があったとされる場所。許都古城の東北隅に位置すること、以後、徐晃の子孫も居住していることから、城角徐村という名前がつけられた。かつては6mの高さを誇っていたといわれる。 | |
|
農地の真っ只中にあるのが災いしたか、今では塚がかなり削られてしまっている。真夏は農作物が生い茂っており、詳細な場所がわからないと捜索が難しい。墓が見えているのに到達が困難なのは、かつての晏嬰墓と同じか。 規模は小さいながらも新しい碑が立てられており(97年立)、曹魏の武将の墓としては貴重な存在である。(06年7月) |
|
|
許昌汽車東站より201路に乗り、張藩の中心を過ぎ盆李で下車。小さい関帝廟の横を北進。暫く行くと東へのびる道が現れるので右折。更に数百mで城角徐村に入る。徐晃墓はこの村の東北約1kmに位置する。作物が生い茂る夏は村人に詳細位置を確認するか、近くまで連れて行ってもらった方が無難。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス、徒歩 / 地形:畑 / 見応え:夏は迷路と化す。 |
|
関連武将 | 徐晃 |
地図 | 区間 鄭州⇔許昌 許昌⇔白沙 鄭州⇔禹州 |
手段 火車 バス(普) バス バス |
距離 80km 60km 80km |
所要 1h 2.5h 3h |
||
・鄭州⇔許昌は時間さえあえば火車の方が速い。ただバスは本数が圧倒的に多く、高速利用豪華バスであれば時間的にも遜色なし。鄭州火車站前の汽車站より発車。 ・許昌⇔白沙は基本的に許昌⇔洛陽のバスを利用することになり、途中乗車・下車が多い為、時間がかかる。 ・鄭州⇔禹州バスもそれなりにあるが、許昌を拠点にするなら、許昌経由がお薦め。 |
||||||
関連武将 | 関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲 |
南陽武侯祠 | ||
|
河南省南陽市(市内南西) | 【武侯祠正面】 【草盧】 |
|
臥龍崗の上に元代大徳年間(1297〜1307)に建てられた武侯祠。劉備が諸葛亮を三顧の礼で迎えた場所とされるが、これに関しては襄樊の古隆中にやや分がある。(古隆中武侯祠はさらに古く西晋の築。)「出師表」の記述“躬耕于南陽”に基づいているわけであるが、逆に言えば根拠はこの出師表のみ。 境内には古隆中に対向した“十景”があり、本殿の他に三顧堂、関張殿などで三兄弟の像も拝むことができる。 |
|
|
古隆中は猛暑で体調不良の中参観した記憶があるのだが、ここ南陽武侯祠を訪れた時はあいにくの大雪。だが三顧の礼の二度目も大雪、雰囲気は最高であった。 本殿には諸葛亮・諸葛瞻・諸葛尚の三代、三顧堂に劉備・諸葛亮の主従、そして関張殿に関羽・張飛も祀られており、三国志ファンなら誰でも楽しめる地。さすが五大武侯祠の一角を担うだけのことはある。 惜しむらくは武侯祠近くのロータリーに立つ有名な諸葛亮像が無くなっていたこと。新たな像を制作中なのか、ただ単に壊れてしまったのか…。真相は分からないが強く復活を望む!(04年12月) |
|
|
市の中心から見て南西に位置する。火車站からも複数のバスが出ており、臥龍崗もしくは武侯祠で下車。 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:市内バス / 地形:丘 / 見応え:大満足 | |
関連武将 | 諸葛亮 |
|
||
所在地 | 河南省新野県 | |
解説 | 関羽が自ら植えたと伝えられる桑の木。明代に木の周りをレンガで囲み“城”に進化。世界最小の城と言われている。 | |
現況 | いにしえの人物が自ら植えたとされる木は数多く残されているが、ここまで厚く保護されている例は他にない。木の周りを囲んで城化させるとは驚きであるが、見方によっては非常にセンスがいい。 国慶節で学校が休みだったが、何度も呼んで管理人をつかまえることができた。(06年10月) |
|
交通 | 新野長距離バス停より漢城中路を西へ徒歩約15分。漢桑城小学内。 | |
備考 | 門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:学校 / 見応え:古木 | |
関連武将 | 関羽 |
|
||
|
河南省洛陽市南郊外 | |
|
関羽の首が埋葬されている場所で中国三大関帝廟の一つ。関羽の首は孫権に切られた後、曹操のもとへ送られた。清の道光年間に「関林」と改称している。ちなみに「林」の字は特別な人物にのみ使い、墓を表す。孔子の「孔林」と関羽の「関林」の2ケースしかない。この二人はいつのまにか皇帝になっているのである。 |
|
|
敷地の奥のほうに関羽の首が埋められているとされる塚があり、関林の建物の横には関羽所有の巨大青龍偃月刀(約2m)も展示されている。普通の人間は絶対持てない、持てても重すぎて使い物にならないと誰でもわかるが、純粋に感動しよう。爆笑だったのが、ハイテクロボ「雲長くん」。箱の中に1元コインを入れると、なんと関羽様が起き上がって我々に挨拶してくれるのだ!さすがは中華人民共和国、恐るべし!木彫り関羽人形や三国志トランプがお土産にはお勧め。(97年3月) | |
|
53路又は60路バスで「関林」下車。関林路をまっすぐ進み(10分くらい)、突き当りを左に行くと到着。最後の最後で少し迷ったが、一番奥まで行ってから左に曲がる。 | |
|
関羽 | |
|
三劉度15:中国三大関帝廟の筆頭。 見応え4:一番の見所はハイテクロボ「雲長くん」…、ではなく首塚。 遺跡価値4:関帝廟の総本山。首塚もありその価値は高いが、遺跡というよりは格式ある寺院。 到着難易度2:バスで行けるけど、市内バスではなく、近郊バスを利用。 地元密着度5:現代の中国で最も有名な三国志人物、それが関雲長! |
|
||
|
河南省偃師県杜楼村 | |
|
呉を滅ぼした“左伝癖”晋の杜預。唐の詩人・“詩聖”杜甫。実はこの二人、13代の時を経て繋がっているのである。杜甫の墓は少なくとも8つはあるそうなのだが、二人の墓が同一境内にあるのが面白い。「晋当陽侯杜公諱預之墓」の墓碑は清の乾隆年間のもの。 | |
|
地元では杜甫墓として有名だが、同境内にあるので保存・整備状況は良好。しかも中学校と併設されているので言うことなし。残念なのは肝心の塚がないことか。 普段は門に鍵がかけられているので、見学時は学校の先生にお願いして見せてもらおう。日本から来たと伝えたら親切に対応してくれた。(04年5月) |
|
|
洛陽の白馬寺・漢魏洛陽故城よりさらに東へ。偃師県杜楼村の中学校内にあるのだが、村の名前が地図に載っていないため結構苦戦するかも。(公路上に標識あり。首陽山鎮と偃師市の中間辺り。)杜甫墓は村人以外は知らないので、村名で捜索すべし。(杜預墓での捜索は死を意味します!)村の場所さえ押さえられればバス&徒歩で捜索可。かく言う私はタクシーで到達…。 | |
備考 | 門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:平地 / 見応え:感動 | |
|
杜預 |
思陵塚 | ||
|
河南省淮陽県王店郷葉楼村 | 【Mk-T】 【Mk-UVW】 |
|
名称からも分かる通り陳思王・曹植の衣冠塚である。思王陵、八斗陵とも言われる。(曹植はよく“才高八斗”<才識の豊かさを指す>と評される。) 陳は淮陽の旧称であり曹植の臨終の地であるが、本物の墓は山東・東阿にあることが考古学的にも判明している。とは言え、一時的にこの地に埋葬された、もしくは埋葬する準備をした可能性は捨てきれない。 計4つの塚(北から12・4・7・15m)があり思陵塚は南端の最も巨大な塚とされるが、疎まれていた兄・曹丕の手から曹植の遺体を守る為に、4つ同時に出棺したと言われている。 また別の説では元々この地には盗掘を防止する為に99もの塚があったと言う。父・曹操の埋葬に対する考えを受け継いでいる曹植(実際に曹植は埋葬に対して当時の固定概念を覆すような考えを持っていた。)らしいと言えばらしい。ちなみに思陵塚には盗掘の跡が残されており、かつて警察沙汰になったことがあるとのこと。 |
|
|
衣冠塚か本物の墓かはこの際重要ではない。むしろ衣冠塚でこの規模を誇っていることが驚愕に値する。南端の思陵塚は孫堅墓(高陵)に匹敵する大きさだ。 県の革命委員会が1978年に立てた碑も必見。70年台の碑は意外に少ない。(06年6月) |
|
|
淮陽汽車站(西関)より王店方面バスに乗り葉楼付近で下車。葉楼村の中心より約500m北東に位置する。淮陽南門から1.5km。徒歩でも十分可。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:平地 / 見応え:巨大×4 | |
関連武将 | 曹植 |
|
||
|
河南省焦作市温県招賢 | |
|
三国志の真の勝利者、司馬懿のふるさと。(河内郡温県)当時、司馬氏が招賢館を設けて、全国の賢者を招いたことから、“招賢”の地名が残っている。 | |
|
司馬懿故里の敷地にあるのは彼の塑像のみ。ちょっぴり寂しいが、実はこの像かなり出来がいい。(私のイメージする司馬懿像とはちょっと違うけど。) 焦作辺りでも人民に聞けば大抵は知っている。地図にも載ってるし。敷地自体は広いので、更なる拡張の可能性はある。それは全て司馬懿研究会会長・程斉先生の双肩にかかっている。(03年1月) |
|
|
鄭州→焦作→温県とバスで移動。温県からは孟州方面へ行くバスに乗り招賢付近で途中下車。“司馬懿故里に行く”と言えば、降ろしてくれる。公路沿いにあるので、わかりやすい。 実は直線距離では虎牢関から非常に近い。(黄河越えが難点) |
|
|
司馬懿 |
鄴城遺址 | ||
|
河北省臨漳県三台村 | 【金鳳台】 【転軍洞】 |
|
鄴城は春秋時代・斉の桓公の時代に建てられたのが始めとなる。三国時代では曹操が袁紹を破った後にここを都城としている。曹操が建てた銅雀、金鳳、冰井の三つの台があったことから三台が村の名前として残っているが、現在では銅雀、金鳳の二台の基が残っているのみである。 曹操が曹丕・曹植に賦を作らせた銅雀台(当時は高さ33mもあり、3mもの銅雀が据え付けられていた)が最も有名であるが、展示物等があり今でも立派な台基を残しているのは金鳳台(現存の台基の高さは12m)である。ちなみに冰井台(ようは貯蔵庫)と銅雀台の大部分は明代に水没した。 転軍洞は曹操軍が閲兵を行った際、兵数を多く見せる為に洞内を何度も通させたと言う。 |
|
|
金鳳台上の展示物は一見の価値あり。当地での発掘物の展示や三台そして曹操の解説などもある。 転軍洞は98年当時真っ暗闇だった所、同行の墓マニアンの懐中電灯で何とか突破。二度目はこれだけのためにペンライトを買って行ったが効果なし。ちょっとだけ灯りが備え付けられているので、何もなくても突破可能になった。 ちなみに入り口の楼閣・文昌閣には文姫帰漢の画がある。当時曹操は蔡文姫を銅雀台で出迎えたと言う。 隣のちゃちい像は6年の歳月を経て尚健在。若干像の数が減ったような気がするが気のせいか?(98年8月/04年6月/07年6月) |
|
|
邯鄲から安陽行きのバスに乗り漳河橋下車。東約5kmの習文を経て、北へ3km行くと三台村に到着。村の北北西にある。 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:徒歩可(気合でカバー) / 地形:平地 / 見応え:大満足 | |
関連武将 | 曹操 |
|
||
|
河北省邯鄲市臨zhang県倪辛庄郷jin城村東 | |
|
又の名を古漢柏。高さ22.5m、周囲5.6mの推定樹齢1,000年以上の巨木。(三国時代にあったとすれば1,800年以上でないと…。) 曹操が水軍を訓練した玄武池があった地であり、水陸軍の閲兵・訓練を行った際に馬をつないだ木とされている。 ギョウ城南門の朱明門から1.5kmの場所にあたり、北朝晩期には仏教が栄えた場所であった為、本来寺廟の境内にあった柏とも言われている。 |
|
|
遠くからでも目立つ程の巨木。樹齢は少なくとも1,000年以上らしく、その巨大さから見て、三国時代に存在していたとしても全く不思議ではない。(04年6月) | |
|
Zhang河橋から習文まで東へ約5km。三台村方向(北)に行く道が現われるが、(ここに“ギョウ城遺址”の碑がある)さらに東へ約2km進んだ所で南下。約2kmで到着。近くまで辿り着ければその巨大さからすぐに分るはず。 | |
備考 | 門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:zhang河橋から徒歩も可 / 地形:平地 / 見応え:なかなか | |
|
曹操 |
|
||
|
河北省涿州市楼桑廟村 | |
|
唐代に『昭烈帝廟』として建立されたのが始まり。今の『三義宮』はつい最近修建されたものである。宋・明・清代に修建され、文化大革命によって破壊された経緯があるが、21世紀にも劉備の廟は存在し続けるのである。そう、永遠に! | |
|
いかにも最近建てられた感じのある『三義宮』。それでも、劉備をはじめとする蜀将像を見れば、誰でもここが三国遺跡の聖地と感じるはずだ。観光客はまばら(というか、他に一組しかいなかった…。)で、私が行った時は門さえ閉まっていた。偶然い合わせた劉備熱烈ファン(と思われる。)の人民と協力して開門させ、無事見学。当時は20cmくらいの三兄弟の素晴らしい人形がお土産として売られていた。(98年10月)二度目の訪問では人形がカラー化したりと、きれいに整備されていた。記念リボンを10元で買って、中央の鉄釜に結んでみたりした。(03年1月)殿内には怪しい道士がいるので注意。(06年6月) | |
|
涿州の市街地から約6km。涿州から保定に向かう街道をひたすら南に歩く。最後は左折を二度して直進。この左折ポイントに涿州の三国関連遺跡の地図看板が建っている。二度目は涿州火車站前からレンタチャリで到達。火車站より7路バスですぐ近くの三義広場まで行ける。(06年6月現在) | |
|
劉備、関羽、張飛 | |
|
三劉度14:三国遺跡三大聖地の一つ! 見応え4:新たに生まれ変わった三義廟が君を満足させる! 遺跡価値3:ここら辺一帯が劉備の故郷であることは間違いない。唐代創建で歴史もある。 到着難易度3:涿州の火車站から歩いたためにちょっと苦戦。 地元密着度4:涿州人民は劉備と三国志を誇りに思っている!その気合がこの廟に現われている。 |
|
||
|
河北省涿州市大樹楼桑村 | |
|
劉備が生まれ育った地。劉備の年少時、家の前に大きな桑の木があり、「この家から貴人が出る。」と言われた。この桑の木よりつけられた村名が、かの有名な楼桑村である。 | |
|
かつては劉備家廟があったらしいのだが、現在残るのは“漢昭烈皇帝劉備故里”の碑のみ。 三義廟のある楼桑廟村からは距離が6kmもあるが(資料では6km。実際は4〜5kmか?)、こちらが正真正銘の劉備故里・楼桑村と言われる。但し、周辺に“楼桑”の名がつく村がやたらにあることも追記しておく。(03年1月) |
|
|
火車站よりレンタチャリが一番便利。三義廟より見て南南東の方角。故里碑は村内の小学校横にある。涿州には見た目はチャチだが立派な地図があるので、ゲットすべし。(03年1月当時火車站で入手) | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:チャリ / 地形:平地 / 見応え:昭烈帝、万歳! | |
関連武将 | 劉備 |
|
||
|
河北省涿州市盧家場村 | |
|
劉備の学問の師・盧植もまた涿郡涿県出身。 曹操が建安12年(207年)の北征(烏丸討伐)時、涿郡を通過する際に盧植墓苑を掃き清め供養をしている。 |
|
|
この盧植墓自体は近年になってたてられたものと思われるが、盧植がこの地に埋葬されたことは間違いない。(06年6月) | |
|
涿州火車站前より4路の影視城行きバスに乗り盧植故里にて下車。盧氏宗祠内。 | |
|
門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:平地 / 見応え:コンパクトできれいな墓 | |
関連武将 | 盧植 |
|
||
所在地 | 河北省正定県 | 趙雲故里廟門 |
解説 | 清の道光年間に建てられた廟を修建して1997年に復活オープンした趙雲をまつった廟。そう、ここ正定は“常山の趙子龍”の故郷なのだ。趙雲故里は主に廟門・四義殿・五虎殿・君臣殿・順平侯殿から構成されており、一番奥の順平侯殿内には、清代の“漢順平侯趙雲故里”の碑が残っている。 |
現況 | 三国武将の故里の中で最も規模が大きく、整備されているのがここ趙雲故里。その分、遺跡としての雰囲気にかけるが、しっかり清代の碑が残っているのはうれしい限り。まぁ、観光集客の打算も多少あるのだろうが、地元の気合の入れようは並大抵ではない。なんたってここは“国家級AA(だぶるエー)旅遊区”なんだから! でも五虎殿・君臣殿の趙雲像の位置は一番端。律義に序列守ってる場合じゃないと思うんだけど…。(02年12月) |
趙子龍像 |
交通 | 石家庄火車站前から201路バスで正定まで行ける。正定の汽車站からは1路バスに乗って、終点近くで下車。廟近くの十字路に看板が立っているので目印になる。 |
地図 | 区間 石家庄⇔正定 正定汽車站⇔趙雲廟 |
手段 201路バス 火車 1路バス |
距離 15km 5km |
所要 30分〜50分 20分 20分 |
|
・石家庄⇔正定は一応火車もあるが、普通はバス利用。201路バスは正定汽車站に到着し、ここから趙雲廟行きの1路バスが出ている。 | |||||
関連武将 | 趙雲 |
|
||
所在地 | 河北省正定県汽車站南 | |
解説 | 正定の誇り“趙子龍”はまさに街の顔。正定の入口には“子龍故里”と刻まれた大門が建てられており、その道の脇には趙雲像もある。 | |
現況 | 始めは趙雲廟と勘違いしてしまったが、大門前の広い敷地にあるのは趙雲像ともう一人正定出身の有名人の像だけ。こんなに広いんだから趙雲関連で何か建てて欲しいと思うのは私だけだろうか? | |
交通 | 正定汽車站南。徒歩約5分。(上記地図参照) | |
関連武将 | 趙雲 |
|
||
所在地 | 河北省滄州市滄県高川郷前高龍華村 | |
解説 | 正式には村の名前をとって「前高龍華古墓」という。言い伝えによると袁紹墓とされるが、漢代の墓であることに間違いはないらしい。 元々は大小二つの墓が存在していたらしいが、小墓の方は残念ながら既に消滅済み。大墓は93年に省級文物保護単位に指定された。 |
|
現況 | さすがは省級文物保護単位に指定されただけのことはある。墓としての規模はかなりのものだ。ただ肝心の碑がない。いや石碑の台座のみ残っていたが無残にも倒されていた…。この国では文物保護単位に指定されていても、油断してはいけない。“気付いたらなくなってしまいました”的な遺跡はいくらでもあるのだ。 いずれにせよ、袁紹ファンにはたまらない遺跡。拝めるうちに墓参りすることを薦める!(05年1月) |
|
交通 | 滄州より献県行きのバスに乗り崔爾庄下車。約10km南下して到着。前高龍華村の北東約700mに位置する。本数は少ないが滄州⇔高川郷のバスもある。 | |
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:国道より徒歩 / 地形:平地 / 見応え:規模はでかい | ||
関連武将 | 袁紹 |
済南関帝廟 | ||
|
山東省済南市内 | 【済南関帝廟】 【関羽像】 |
|
創建年代は不明だが、元代という説がある。 七十二名泉に数えられる西蜜脂泉が境内にあり、大殿内には明・清時代に描かれた関羽の生涯をたどる壁画がある。 門前の唐獅子は赤兎馬バージョン。馬の耳と尾になっている。 |
|
|
境内は非常に狭いが、名泉、かっこいい関羽像、三国志グッズ、各地の関帝廟の紹介などがあり、かなり楽しめる。 特に境内左奥にある関羽像は必見。写真の一体は美術学院の製作で、重厚感があり非常に完成度が高い。もう一体の春秋を読んでいるブラック像は関羽の故郷で購入したもので、こちらは渋い作りだ。(05年1月/06年9月) |
|
|
済南市内で最も有名な観光地・趵突泉の北門から西へ数十メートル。 | |
|
門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:趵突泉から徒歩 / 地形:平地 / 見応え:非常に楽しい関帝廟 | |
関連武将 | 関羽 |
広饒関帝廟 | ||
|
山東省東営市広饒県城北西 | 【広饒関帝廟】 【廟内壁画】 |
|
南宋の建炎二年(1128年)の築。山東省で唯一の宋代の木造建築であり、重点文物保護単位に認定されている。明・清代、70年代、そして97年に修築されている。 | |
|
大抵の関帝廟は明・清代に建てられているのだが、ここ山東省広饒に南宋時代の関帝廟があるのは驚きだ。広饒は孫武の故郷として有名で、関帝廟の手前には孫武祠が、そして隣には歴史博物館が併設されている。歴史的にはそれなりに有名な街ではあるのだが。 前から見ると立派な廟で、廟内の壁画もきれいな色彩が素晴らしい。裏手に回ると文革時代に書かれたらしいスローガンの跡がうっすらと見える。ぶっ壊されなくて本当によかった!(04年7月) |
|
|
青島→Wei坊→広饒(濱州行き)とバスで移動。街の西北に位置しており、東営歴史博物館、孫武祠と併設されている。月河路沿いにあり街の中心からすぐ。 | |
|
門票:3元 / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:広饒に街に着けば徒歩可 / 地形:平地 / 見応え:古建築、見応えあり | |
関連武将 | 関羽 |
|
||
所在地 | 山東省臨沂市人民広場内 | |
解説 | 山東が、臨沂が誇る偉人・諸葛亮の像。言うまでもなく、諸葛亮の出身は現在の山東省臨沂市沂南。 | |
現況 | どこの都市にもある普通の人民広場。が、よく見ると臨沂出身人物の塑像がひしめいている。 諸葛亮を筆頭に、劉洪・匡衡・荀子・曽子・王羲之・蒙恬・左宝貴・王祥・願真卿。そうそうたる顔ぶれである。(04年2月) |
|
交通 | 臨沂長距離バス停から南東へ徒歩10分。沂蒙路上の人民広場内。 | |
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:臨沂長距離バス停より徒歩 / 地形:平地 / 見応え:偉人の中の偉人 | ||
関連武将 | 諸葛亮 |
王祥故里 | ||
|
山東省臨沂市蘭山区白沙埠郷西孝友村 | 【王祥像】 【“臥氷求鯉”亭】 |
|
二十四孝の一人・晋の王祥の故里。(ケ艾・鍾会が蜀討伐に向かう際、見送っている。)即ち“臥氷求鯉”処。(継母の為、真冬に服を脱いで氷の上に臥し、鯉を求めた。) 故事の舞台となった孝河はかつて王祥河、或いは孝感河と呼ばれ、古琅璑八景の一つにもなっている。 |
|
|
孝河公園内に王祥塑像、二十四孝のレリーフ、“臥氷求鯉”亭、孝友祠等の見所がある。来る前に二十四孝について予習をしておくと楽しさが倍増する。 鯉を持った王祥像はなかなか可愛いが、同時に捨て身の孝行をするオーラも放っている。 真冬は伝説のこの河も凍るはずなので、“臥氷求鯉”を身をもって体験するのもいいかもしれない!?(06年12月) |
|
|
臨沂汽車総站の北側(通達路上)から21路等に乗り西孝友下車。孝河公園は公路沿いにある。 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:公園 / 見応え:二十四孝の全てがわかる! | |
関連武将 | 王祥 |
|
|||
所在地 | 山東省沂南磚埠鎮黄tuan村 | ||
解説 | 諸葛亮の出身地は琅琊郡陽都。(黄tuan村一帯に陽都城遺址がある。)諸葛亮の祖先はもともと琅琊“諸”県の人で、姓は“葛”であったが、陽都に移った時、他の葛氏と区別する為に“諸葛”と改めたという。 諸葛亮はこの地で13歳まで暮らし、叔父諸葛玄に連れられ、弟諸葛均と共に荊州へ向かう事になる。 ちなみにここは言うまでもなく、諸葛瑾故里でもある。 |
【諸葛亮塑像】 |
|
現況 | 諸葛亮故里記念館内には諸葛亮関連の石碑、諸葛亮像がまつられている堂があり、静かで雰囲気もなかなか。管理人はしっかりと解説付きで案内してくれる。 敷地内には陽都城遺址の簡易地図もあり、曹嵩墓の所在が記載されており、曹嵩墓の壁画(復元)はここでも見る事が出来る。(02年8月/04年11月/07年5月) |
【諸葛亮故里・山門】 |
|
交通 | 臨沂⇔沂南のバスに乗り、磚埠郷黄tuan村付近で下車。(高速道路と交差する付近。バスの運転手に聞いたほうがいい。)高速道路の南端に沿って沂河を渡ると村に到着。後は聞きこみでカバー。 | ||
関連武将 | 諸葛亮 |
|
||
所在地 | 山東省沂南磚埠鎮黄tuan村北陽都故城 | |
解説 | ここがまさに諸葛亮が幼少時代に住んでいた場所とされる。現在、諸葛亮故里として有名なのはあくまでも故里“記念館”であり、こちらが正真正銘ということか。 | |
現況 | 実はこの碑は2003年8月に立てられた新しいもの。とは言え陽都故城内に位置するので、こちらの方が故居としてふさわしいと言うことか。以前、碑はなかったものの、急遽仕立てあげたわけでもなさそうだ。故里記念館内の地図に記載されている。(04年11月/07年5月) | |
交通 | 諸葛亮故里記念館より北北西へ1km以内で到着。日東高速の北側すぐに位置する。 | |
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:国道より徒歩 / 地形:平地 / 見応え:碑一つ | |
関連武将 | 諸葛亮 |
|
||
所在地 | 山東省沂南県臥龍源公園内 | |
解説 | 諸葛亮の出身地付近の沂南・臨沂・沂水には、かつて諸葛亮関連の遺跡が数多くあった。この沂南の諸葛亮像は、消えゆく遺跡とは逆に近年(1994年)造られたもの。 | |
現況 | 諸葛亮旅遊内にある巨大諸葛亮像。おなじみの車に乗った姿だが、立つと蘭渓諸葛村の諸葛亮像と同じくらいになるだろう。 境内には像が一体あるだけだが、将来は諸葛亮テーマパークになると思われる。(02年8月)→着々とテーマパーク化進行中。(04年12月/05年9月/07年5月) |
|
交通 | 臨沂⇔沂南までバスで移動。バス停から北西方向の山のふもとの諸葛亮旅遊地区内にある。無料。(05年9月現在、臥龍源公園と改名。有料となった。07年5月に諸葛亮旅遊文化節が開催されAAA旅遊区に認定された。) | |
関連武将 | 諸葛亮 |
諸葛宗祠 | ||
|
山東省沂南県臥龍源公園内 | 【諸葛宗祠】 【諸葛亮像】 |
|
宗祠とは祖廟のこと。つまり諸葛一族の祖先と祀る廟である。臥龍源公園のテーマパーク化に伴い満を持して05年にオープン。 殿内には諸葛亮を中心に、豊・珪・玄・瑾・均・誕らの塑像が祀られており、黄月英をはじめとする諸葛一族の女性陣や諸葛京など子孫の石画もある。 |
|
|
04年12月に訪れた際には建設中であったが、完成の報を受け約1年後に再訪。どうやら落成式の模様が地元TV局で大々的に放送されたらしい。 ここに来れば諸葛一族の全てがわかると言っても過言ではない。浙江省の諸葛八卦村のように観光地化されておらず、訪れる者もまばらだが、内容の豊富さでは全然負けていない。むしろ諸葛瑾や諸葛誕の巨大塑像まで祀られていることに衝撃を受けた。(05年9月) |
|
|
臨沂汽車総站→沂南までバスで移動。バス停から北西方向の山のふもと臥龍源公園内にある。 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:山麓 / 見応え:諸葛一族の全てがわかる! | |
関連武将 | 諸葛亮(諸葛一族) |
東阿曹植墓 | ||
|
山東省東阿県魚山西麓 | 【曹植像】 【曹植墓】 |
|
曹操の第三子、曹植の墓。故郷・沛でも最後の封地・陳でもなく、何故ここ東阿に墓があるのか?兄・曹丕に疎まれ東阿王に封じられた際、曹植はよくここ魚山に登り、思い入れも強かったという。結局、曹植本人の遺言により魚山に葬られたのである。 墓はもちろんであるが、隋開皇13年(593年)に立てられたと言う「曹子建墓碑」は歴史的価値が高い。大清河(黄河)に沈められていたのを清代に引き上げたと言われている。 |
|
|
境内には墓の他に記念館(曹植像あり)、隋碑亭などがあり、魚山上からの眺めも素晴らしく、黄河も見渡せる。果たして曹植が見た景観と同じかはわからないが、彼がよく登りにきたというのはうなずける。 書に興味(というか知識)がない私でもこの隋代の墓碑を見てみようと思ったが、隋碑亭は門が閉ざされ中も暗く、文字までは確認できない状態。もともとは横にあるボロ小屋に碑が保管されていたらしいが、現在はただの物置となっている。ボロと言ってもこれだけで文化的価値がありそうだ。管理人にお願いしてこちらの中は見せてもらった。(03年12月/06年9月) |
|
|
済南から濮陽行きバスに乗って東阿県で途中下車。(黄河を挟んだ対岸に東阿鎮もあるので要注意)東阿県バスターミナルのすぐ南から出ている単庄行きに乗り換える。客が少なかったせいか曹植墓まで連れて行ってもらえた。(但し帰りはかなり歩く羽目になったが…。) | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:山 / 見応え:陶酔 | |
関連武将 | 曹植 |
華歆墓 | ||
|
山東省高唐県固河鎮大華村北 | 【華歆墓】 【華歆墓碑】 |
|
華歆の出身は平原郡高唐県。墓は高さ3m、直径7mと決して大きくはないが(現在ではひとまわり小さくなっている。)、華氏の始祖墓として地元の厚い保護を受け今に至る。大華村の“華”はもちろん華歆が由来となっている。 | |
|
規模は小さいものの、上部から墓室ものぞけるという墓らしい墓。(今は上部をセメントで保護しており中はのぞけない。) 2001年立の碑が立てられており、しっかり保護されているのもうれしい。(市重点文物保護単位)この碑の後ろにはかつて立てられていたはずの古い碑の土台のみ残されている。もしかしたら高唐の博物館に保管されていると思い訪れたが、現在改装中で展示物は一切なかった。(06年7月) |
|
|
高唐バスターミナルより固河行きのバスに乗車。大華村は固河の北約1km。華歆の墓は大華村の北北西数百mの畑の中にある。ちなみに固河のかつての名前は涸河(干上がっている河。)縁起が悪い名前の為、改名したか通常は固河を使用していると思われる。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:畑 / 見応え:これぞリアル墓! | |
関連武将 | 華歆 |
|
||
所在地 | 山東省高密市双羊鎮 | |
解説 | この地のヒーロー鄭玄の像は2002年に造られた新しいもの。当代きっての大学者であった鄭玄は時代を超えて人民に愛されているのである。 |
|
現況 | 高密鄭玄祠へ続く道、入り口に立つ渋い奴。彼こそこの街の新しい顔なのだ。街の西端にある為、周りはちょっと寂しいが、人民の憩いの場になっている。(いや、これからなる予定か?)(04年7月) | |
交通 | 青島→高密(バス約2時間)→双羊(バス約30分)。街の西端、鄭玄鎮へ続く道の入り口 | |
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:双羊下車後、徒歩 / 地形:平地 / 見応え:渋い | |
関連武将 | 鄭玄 |
鄭玄廟 | ||
|
山東省高密市双羊鎮后店村西(鄭公村) | |
|
唐代(貞観年間)、鄭玄の故郷であるこの地に彼を祀る廟が建てられた。幾度もの修築・再建を経ており、最後に修築されたのは1993年。本殿には鄭玄の他、彼の子と孫の像が安置されている。 ちなみにこの地の“鄭公”という地名は、かの北海の相にして建安七子に数えられる孔融によって命名された。 |
|
|
とにかく本殿の外観が素晴らしく、気に入ってしまった。高さが8.1mもあり本殿に入るにはかなり急な階段を登ることになるのだが、私はこれほど高さのある廟を他に訪れたことがない。 境内には他に鄭玄が自ら植えたとされる柏の木もあるが、こちらは曹操の天下第一柏と違って巨木ではなく、既に枯れている…。(04年7月) |
|
|
双羊鎮の鄭玄像からまっすぐ西へ約6〜7kmで鄭公村に到着。村の西にある峡山ダムに出たら北上(約1km)して后店村へ。村の西に位置する。 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:双洋鎮から徒歩orボリタク / 地形:平地(河岸) / 見応え:感動の嵐! | |
関連武将 | 鄭玄 |
鄭玄墓 | ||
|
山東省高密市双羊鎮后店村西(鄭公村) | |
|
鄭玄は西暦200年、官渡の戦いで袁紹に従軍を迫られたが、途中現在の河北省辺りで病死。死後は現在の青州市鄭母鎮に葬られたが、後に故郷であるこの地に移葬された。 | |
|
鄭玄廟の境内にある為、碑もありしっかりと保存されている。廟があまりにも素晴らしい為、墓の方は自然と注目度が下がってしまうが、元々は墓が主役。昔は塚の高さが6mもあったようだが、現在は半分以下になっている。(04年7月) | |
|
鄭玄廟内 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:双洋鎮から徒歩orボリタク / 地形:平地(河岸) / 見応え:保存状態良好 | |
関連武将 | 鄭玄 |
桓台五賢祠 | ||
|
山東省淄博市桓台県馬踏湖 | 【五賢祠】 【諸葛亮像】 |
|
清の乾隆年間に三賢祠として建てられたのが始まり。三人の賢人とはすなわち魯仲連、蘇東坡、そして諸葛亮である。魯仲連(戦国・斉の学者)は近くの華溝村に居住、蘇東坡と諸葛亮はかつて馬踏湖を遊覧したことがあるという。 新中国成立時には既に破壊されていたが、1985年に華溝村民により五賢祠としてパワーアップ再建された。再建時に新たな仲間となったのは、顔躅(戦国・斉の人。かつてこの地に隠居した。)とYuan【へん:車/つくり:袁】固(前漢の学者。近くの田庄鎮が出身地。)の二人。 |
|
|
向かって左より顔躅・諸葛亮・魯仲連・蘇東坡・Yuan固と並んでいる。残念ながら中央に座するのは、我らが諸葛亮ではなく魯仲連。さすがに遊覧したのみでは、地元の名士には敵わないようである。(臨沂五賢祠では諸葛亮が中央に祀られている。) それにしても諸葛亮はいつこの馬踏湖を遊覧したのであろうか?13歳で陽都(臨沂・沂南)を離れ、その後は山東の地を踏むことはなかったと思われるが…。(04年2月) |
|
|
淄博→桓台→起鳳方面とバスで移動。馬踏湖の南約3kmの地点までバスで行ける。あとはダッシュで到達可。 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:湖 / 見応え:像はイマイチだが廟は素晴らしい |
|
関連武将 | 諸葛亮 |
亘古清泉 | ||
|
山東省鄄城県老城区崇興南路 | |
|
曹操軍がこの地に駐屯した際、兵馬の飲用水を確保する為に井戸を掘り「亘古清泉」と名づけたとされる。“亘古”は“古きに亘り”という意味だが、古来あったとされる泉を、地元農民の情報を手がかりに兵士達が掘り当てたのである。 また、この地に封ぜられた鄄城王曹植は、亘古清泉の水で醸造した酒を飲み詩を賦した。 県重点文物保護単位。 |
|
|
元々は大きな井戸であったが、道から近過ぎる為に井戸の口をセメントで覆い、今では直径約50cmの口になっている。 井戸の後ろには明の万歴48年(1621年)に立てられた“亘古清泉”の碑があり、文字はかすれているが近づいて見ればちゃんと確認できる。 雑多とした細い道にあるので、一度目は通り過ぎてしまった程だが、よく見るとものすごいオーラを放っている。(06年8月/07年4月) |
|
|
鄄城長途汽車站より西へ数百mの大通り鄄二路を北上約1.5km。河を渡って老城に入ると細い道になり名前が崇興南路に変わる。左手にある。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:平地 / 見応え:果たして今も泉があるのだろうか? | |
関連武将 | 曹操、曹植 |
曹植読書台 | ||
|
山東省鄄城県旧城鎮北(杏花崗) | |
|
曹植が鄄城王であった時にこの地に台をつくり、読書や詩を賦したとされる。「陳王読書台」、又は略して「陳王台」、「陳台」とも呼ばれる。 度重なる黄河氾濫の影響により(読書台から黄河は非常に近い)次第に原形が失われていったものの、何度も修復が行われた。 1940年代までは台が残っていたらしいが、今ではほとんど平らになっている。 |
|
|
実は「曹植読書台」を知る村人は碑の前でくつろいでいた人も含め一人もいなかった。(わざわざ1kmも離れた場所にある西風台を教えてくれた。)何気なく歩いていた時に“陳王読書台遺址修復記念碑(1996年立)”を発見。資料によれば台はここからもう少し東側にあるはずだが…。(06年8月) | |
|
鄄城の郷鎮バス乗り場(長途汽車站から約200m西)から旧城行きバスに乗車。旧城到着後、数百m北に行けば到着。橋の傍・西側に碑が立っている。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:平地 / 見応え:台はいずこ? | |
関連武将 | 曹植 |
羊祜故里 | ||
|
山東省新泰市羊流鎮 | |
|
晋の名将・羊祜の故里(泰山郡出身)。羊氏が地元の名族であることは、地名からも分かる。 | |
|
かつて羊公墓(羊祜の先祖らの墓)や羊公祠等、羊祜と間接的に関係のある遺跡があったが、今ではいずれも完全な形で拝むことはできない。(羊公墓は既に平らに…。羊公祠記は鎮政府内にある。墓誌がある新泰市博物館の方が楽しめるかもしれない。) とは言え、渋い羊祜像の為だけでも彼の地を訪れる価値は十分にある。(06年12月) |
|
|
泰山→新泰行きのバスに乗り羊流下車。塑像は省道103号線から一本北側の道(ロータリー)、鎮の中心付近にある。(新泰からは羊流行きのバスが出ている。) | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:平地 / 見応え:「羊祜薬店」も見逃すな! | |
関連武将 | 羊祜 |
羊祜故城遺址 | ||
|
山東省新泰市天宝鎮古城村 | |
|
晋の名将・羊祜が封ぜられた地。晋武帝・司馬炎により南城郡侯に任命され、梁父(泰山麓にある山)が領土にあった為、梁父城とも呼ばれた。 北側の城垣が高さ1〜3m、長さ約500mの規模で今でも残っている。 |
|
|
土ではあるが、かつてここに城があったことがはっきりと分かる。古代の城壁跡をいくつか訪れたことがあるが、その規模は他と比べても遜色がない程立派。(06年12月) | |
|
新泰から天宝行きのバスが出ている。天宝鎮到着後、省道244号を3〜4km南下。村の名前を示す「城東」の石碑がある所で西へ1〜2km程で到着。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:天宝鎮から徒歩 / 地形:平地 / 見応え:いにしえの雰囲気を感じとれ! | |
関連武将 | 羊祜 |
碣石山 | ||
|
山東省濱州市無棣県大山鎮 | 【曹操点将台】 【碣石山遠景】 |
|
建安11年(206年)秋8月、曹操が楽進・李典等を引き連れ青洲の海賊管承を討伐した際、この碣石山に登り《観滄海》の詩を賦したとされる。 | |
|
曹操は海を眺めて詩を賦したと言われるが、現在は地形の変化により海は望めない。(三国時代の地図を見ると、この付近はちゃんと海岸線沿いに位置している。)とは言え、山上から眺める景色はなかなかのもの。 曹操点将台には曹丕・曹植・孔融・楊修・郭嘉・張遼・楽進・張郃・徐晃・李典の塑像が一堂に会しているが、肝心の曹操像がない!以前は中央に曹操像がひかえていたようだが、人民に破壊されたのかもしれない…。 曹魏・東呉・西蜀の名を冠した“観海閣”からの眺めは最高。(07年7月) |
|
|
濱州→無棣とバスで移動。無棣汽車站から埕口方面バスに乗り換え、大山鎮の中心で下車。左手に碣石山が見える。 | |
|
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:山 / 見応え:海は見えずとも景色は素晴らしい。 |
|
関連武将 | 曹操 |
魏王廟 | ||
|
山東省楽陵市大顧家村北 | |
|
曹操の廟。曹操が一時期滞在した楽陵の魏王城遺址内に建てられている。 | |
|
魏王城遺址の長大な土の城壁内でひときわ存在感を放っている。城壁だけでも一見の価値ありだが、曹操の廟ということでファンにはたまらない地。 惜しむべきは廟の扉が閉ざされているということ。一面畑で時間もなかった為、管理人を探し出すのは断念した。殿内にはちゃんと曹操像がひかえている。(07年7月) |
|
|
楽陵の公安局から8路の花園行き(右まわり)に乗り劉武官下車。北西にある大顧家村の北。楽陵の汽車站から花園行きバス(左まわり、省道248号を通る)も出ているが、花園から歩くとまだ距離がある。 | |
|
門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:畑ダッシュ / 地形:畑 / 見応え:廟会の時に行けば入れるかも? | |
関連武将 | 曹操 |
|
|||
|
山西省忻州市木芝村 | 【関羽と貂蝉】 【貂蝉墓】 |
|
|
三国随一の美女にして中国四大美女の一人貂蝉。彼女は演義上の創作人物とされているが、実在の人物とする見方もある。姓は仁、字は紅昌と言い、15歳にして宮中入り。その後は大筋演義で知られている通りだ。(数々の民間伝承があるが。) ここ木芝村は貂蝉の故郷とされている場所であり、“連環計”の後、三兄弟によって故郷にかえされ、天寿を全うしてこの地に葬られた。(とする民間伝承がある。) 村には元々王允街や貂蝉墓、貂蝉戯台などがあったが、時代の変遷と共に廃墟となってしまった。現在の陵園は再築されたものである。 |
【貂蝉像】 |
|
|
陵園内には貂蝉墓、貂蝉像の他に、貂蝉の一生を人形で紹介する貂蝉彩塑館がある。(真っ暗で既に機能していないが、サルが懐中電灯を手に進入。)正面の門は閉ざされているが、裏手に管理人の住まいがありそこから中に入れてもらえる。 現在では観光客もほとんどいないようで、園内は羊の住まいと化している。(04年1月) |
||
|
忻州市内からボリタクで約20分。直線距離で見ると木芝村は忻州から南東約3kmだが、まっすぐ行けない為、徒歩での到達はかなり気合が必要である。ちなみに近くの西張行きのバスならある。(本数は多くないと思われる。) | ||
備考 | 門票:10元 / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:ボリタク / 地形:平地 / 見応え:十分満足 | ||
|
貂蝉 |
|
|||
|
山西省太原市清徐県 | 【羅貫中像】 |
【本殿】 |
|
『三国演義』をはじめ、『水滸伝』、『残唐五代史演義伝』などの数々の名著を生み出した羅貫中の記念館。 羅貫中の21代目子孫の融資によって、三国演義城の対面に建設された。 |
||
|
サルが98年に三国演義城を訪れた際にはまだなかったらしい。どうやら1999年築のようだ。 境内は羅貫中像の他に、本殿には羅貫中に関する資料が展示されている。中には羅一族の墓碑も展示されているので、思いのほか楽しめる。(04年1月) |
||
|
清徐三国演義城対面。 | ||
備考 | 門票:6元 / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:近距離バス / 地形:平地 / 見応え:満足 | ||
|
羅貫中 |
|
|||
|
山西省祁県西北修善村西 | ||
|
祁県は昔からエリート貴族の街として有名で、王允一族も地元では超有名な一族の一つ。ここ祁県には今でも貴族の残した建築物等が残っている。 この墓は王允の故郷につくられた、いわば衣冠塚。以前は長さ25m、幅20m以上はあったというが…。 |
【王允墓碑】 |
【王允墓塚】 |
|
東南アジア(シンガポールかマレーシア)に移住した王允子孫の投資によって、数年前に整備されたらしい。が、今となっては墓周辺が瓦礫の山…。足の置き場がないくらいだ。(どうやらここ数年で荒れ果てたらしい。)墓碑は立派だが、塚は小さく、もう一つの石碑は倒されたまま。このままではやられる!?させるか!!(04年1月) | ||
|
祁県火車站から約9km西北。修善村は里村郷の西に位置する。やむなくボリタクを利用したが、たまたま運ちゃんが修善村の人だったんで、ずばり賞ゲット。気合を入れれば站から徒歩も可能だろうが、かなり苦労すること必至。 | ||
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:ボリタク / 地形:平地 / 見応え:満足 | ||
|
王允 |
平遥武廟 | ||
|
山西省平遥古城内 | |
|
武廟とはすなわち関帝廟のこと。明〜清代にかけて全国各地に盛んに関帝廟が建てられたが、平遥の関帝廟もそのうちの一つだろう。昔の城内には大抵“武廟””文廟”“城隍廟”があった。 | |
|
例の如く平遥の武廟もかなり荒れ果てている。廟内は物置となっており、御神体等は一切ない。それでも外観はかなり立派で復活の兆しを見せている。 そう、平遥武廟は近い将来、改築される予定なのだ。(04年1月) |
|
|
世界遺産の平遥古城内。(城内南側) | |
|
門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:平遥城内から徒歩 / 地形:平地 / 見応え:イマイチ | |
関連武将 | 関羽 |
|
||
|
山西省運城火車站前 | |
|
三国武将で最も人気のある(と言うよりも別格)関羽。関羽の故郷・解州への窓口である運城も、もちろん関羽一色。この像は関羽を記念して1992年に造られた。 | |
|
関羽故里としての人民の気合・熱意・プライドが伝わる作品。大きさでは亳州站前の曹操像に一歩及ばないが、運城+解州VS亳州の故里対決では、運城連合軍に軍配が上がるのでは。站前には“関公大酒店”というホテルもあった。 亳州の曹操像の時と同じく、真夜中に站に到着。暗闇の中の巨大関羽に感動!(04年1月) |
|
|
運城火車站前 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:站前 / 地形:平地 / 見応え:迫力あり | |
関連武将 | 関羽 |
解州関帝廟 | |||
|
山西省運城市解州鎮 | ||
|
関羽の故郷に建てられた三大関帝廟の一つにして、(589年=隋代の創建)現存する関帝廟の中では最大規模を誇る。 端門、雉門とくぐると午門付近に50年代に描かれた素晴らしい壁画がある。見所は宋の徽宗皇帝に祟寧真君として追封されたことを記念した祟寧殿と本殿にあたる春秋楼(明代創建)。春秋楼一階には関羽像が安置され、楼閣は有料で登ることもできる。 廟は南北二つに分かれているので、三義閣、君子亭などがある南側(北側とは入り口が異なる。)もお見逃しなく。 |
【春秋楼】 |
【関羽の歴史をたどる壁画】 |
|
三大関帝廟の中では最もアクセスが悪い為、(というか、他に見るべき観光地が少ない為、)関林・関陵は行っても解州関帝廟はまだという人は結構いると思う。私も例外ではなく、ようやく長年の夢・三大関帝廟制覇を達成できた。 ここは墓ではないが、楼閣、壁画・門など全てにおいて完成度が高く、その規模の大きさにも目をみはる。さすがは関羽故里と言うべきだろう。ちなみに旧正月の元旦に行ったこともあり、境内は人民であふれていた。(04年1月) |
||
|
運城火車站前より11路バスで終点下車。所要約1時間。 | ||
備考 | 門票:30元 / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:郊外バス / 地形:平地 / 見応え:大満足 | ||
|
関羽 |
常平関帝家廟 | |||
|
山西省運城市常平郷常平村 | ||
|
関帝祖祠とも言い、他の関帝廟との最大の違いは関羽の祖先なども含め、関羽一族が祀られている点だ。それもそのはず、この常平村こそ関羽が生まれたとされる地なのである。 廟は金代の築、現存する廟は清代の再建。入り口には“関王故里”を掲げる門があり、廟は主に関帝殿(関羽)、娘娘殿(関羽夫人)、太子殿(関平・関興とその夫人)、聖祖殿(曽祖父・祖父・父とその夫人)からなる。 また境内にある祖宅塔は、一説によれば184年(後漢・中平元年)創建、1177年(金・大定17年)の再建。関羽が亡命した際に、関羽父母がここの井戸に身を投げたといわれ、二人を記念して建てられた。塔の前には、以前関羽父母の塑像を祀った小屋があったという。 |
【祖宅塔】 |
【関王故里大門】 |
|
規模的には解州関帝廟より一回り小さいが、こんな田舎に世界一の関帝廟(=解州関帝廟)に迫る廟があるのが驚き。さらには他の関帝廟と違い一族が祀られており、特色ある廟と言える。四大関帝廟という言い方があるが、個人的には是非常平関帝家廟を入れてほしいものだ。(04年1月) | ||
|
解州関帝廟よりボリタクで約20分。(距離=約10km)以前は21路バスで直接行けたが、03年のSARS騒ぎ以降、この路線は廃止された。 | ||
備考 | 門票:20元 / 塀:あり / 土産物屋:線香程度 / 推奨交通手段:ボリタク / 地形:平地 / 見応え:大満足 | ||
|
関羽 |
関帝祖塋 | ||
|
山西省運城市常平郷常平村 | |
|
“塋”は墓の意味。すなわち関羽の祖父の墓である。墓碑には“漢寿亭侯関公祖考石磐公之墓”と刻まれている。 | |
|
最近中国の各地で見かけるようになったテレビドラマ用の撮影基地“漢城”の敷地内にある。と言っても撮影基地は最近になってつくられたものだが。ここで、関羽が亡命した時代を背景にしたドラマを撮影したらしい。 関帝祖塋までは漢城の門をくぐってから徒歩で約20分。山道を行くので、時間さえあればハイキングを楽しむのもいい。 ちなみにここも春節に行ったからか、人民でごった返していた。決してアクセスがいいわけではないのに…。(04年1月) |
|
|
常平関帝家廟からまっすぐ南下。約1.5km。 | |
|
門票:20元 / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:常平関帝家廟からは徒歩でも可 / 地形:山 / 見応え:満足 | |
関連武将 | 関羽 |
劉備廟 | ||
|
山西省陽泉市郊区蔭営鎮坪上村劉備山上 | 【劉備廟】 【劉・関・張塑像】 |
|
創建年代不詳。言い伝えによれば、劉備・関羽・張飛が卜占を行った地とされ、後世になって劉備廟が建てられた。一説によるとその昔、熱烈な劉備ファンである王十万という資産家が劉備が関羽、張飛らと酒をのみ大事を語る夢を見たことから、劉備廟を建てることにしたという。 過去何度も再建されたようだが、1930年代に戦火に遭い消失。2002年6月、人民の募金活動により再建。2003年7月に竣工された。 廟内には劉備・関羽・張飛に加え、張包・関興の塑像が祀られている。 |
|
|
この劉備廟は山麓から眺めることができる。が、ここからの道がなかなか険しい。山頂にある廟まで徒歩で約1時間半。廟は見えているのに、何度も迂回せねばならず、登山中はあとどれくらいで着くか全く検討がつかなかった。おまけに強風、極寒に襲われ…。 しかしさすがは三国志の主人公・劉備の廟!山頂からの眺めは素晴らしく、更には蜀の五武将が我々を待っていてくれた!極寒+疲労=感動の嵐となった瞬間であった。 天気が良ければ、陽泉市内の関王廟と張飛廟を一望できるという。(04年1月) |
|
|
5路のバスで『車管科』下車。この時点で前方に劉備廟が見える。後はひたすら歩きまくれば到着。 | |
|
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:麓から徒歩 / 地形:山 / 見応え:感動 | |
関連武将 | 劉備 |
晋祠関帝廟 | ||
|
山西省太原市晋祠内 | |
|
もとは呉天神祠といい、1795年(清・乾隆60年)に拡張された関帝廟。廟内には御神体の関羽像の他に、関羽の一生を描いた壁画がある。 | |
|
太原最大の観光地・晋祠の中にある。晋祠内にある他の建築物が素晴らしすぎて、関帝廟の存在はぱっとしないものがあるが、晋祠内で保護を受けたからか、壁画は一見の価値あり。(04年1月) | |
|
晋祠内 | |
|
門票:40元 / 塀:あり / 土産物屋:あり(晋祠) / 推奨交通手段:バス / 地形:平地 / 見応え:イマイチ | |
関連武将 | 関羽 |