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湖北省武漢市内 | ![]() |
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別名魯粛山。魯粛の息子がこの地に駐屯した時に父を記念して魯粛墓を造ったらしい。その後魯粛祠が建てられたらしいが今はない。 | |
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魯粛墓があるようなことが公園内の案内図に書いてあるが、みつからず。その代わりに、三国志の武将像が山中にずらりと並ぶ。その数100体以上で見ごたえ満点!!しかし我らが甘寧の像がない!!なぜだ!!責任者出てこい!!!(97年3月/00年12月/03年10月/06年10月) ※後にネームプレートが外れていた一体が甘寧と判明。(03年10月/わた) ※劉備、関羽、張飛、曹操、孫策、孫権像以外は撤去…。(06年10月/わた) |
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武漢市内の亀山公園。 | |
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魯粛 |
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湖北省武漢市内 | ![]() |
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1955年長江大橋が建設された時に、この地に移された魯粛の衣冠塚。別名魯粛山と言われる亀山に移されたというわけだ。 | |
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97年3月に発見できなかったのがすなわちこの魯粛衣冠塚。“こんなアクセスのよい場所にあるのに、なんで?”と自分でも思うが、墓碑がいかにも新しい。碑には光緒26年とあるが、もしかしたら97年以降に修建された可能性も。三国志テーマパーク化がすすむ亀山の今後の展開に期待! (00年12月/06年10月) | |
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武漢市亀山公園内。 | |
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魯粛 |
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湖北省武漢市亀山公園内 | ![]() |
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1999年12月20日に開館したばかりのこの赤壁大戦全景画館。360°スクリーンに赤壁の戦いが詳細に表現されている。 | |
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いくつもの絵で赤壁の戦いを再現したものと思いきや、絵はたった一つ。ただその絵がバカでかい。描かれた烏の数の多さが見所の一つらしい。(00年12月/06年10月) | |
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武漢市亀山公園内。 |
卓刀泉 | ||
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湖北省武漢市洪山区 | ![]() 【2003年】 ![]() 【2015年】 |
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208年、関羽が武昌の伏虎山に駐屯しており水不足に悩んでいた際、刀を地につきたてたところ、水が湧き出て泉となった。その後、宋代には寺廟が建てられ現在に至る。 | |
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現役の泉の他に関聖殿等の見どころがあり、関羽が祀られている。記憶があいまいだが、2003年当時は泉の傍にバケツが置いてあって、常時水が汲み上げられているようだった。(03年10月/わた、15年9月/サル) | |
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地下鉄「虎泉」駅から徒歩数分。 | |
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門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:地下鉄 / 地形:平地 / 見応え:癒し系井戸 | |
関連武将 | 関羽 |
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湖北省当陽 | ![]() |
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荊州を制圧した曹操が劉備を追撃したときに長坂坡で追いついた。趙雲大活躍。 | |
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古戦場公園となっている。ごちゃごちゃとしていて、個人的にはあまり印象の良かった所ではない。全体的に雑。(98年7月/サル) 趙雲像以外の像はちゃちくてがっかりかも。それでも趙雲ファンにはたまらない地だ。(03年10月/わた) |
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私はバイクタクシーを一日借りきって行った。市の中心部。バスターミナル横。 | |
関連武将 | 趙雲 |
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湖北省当陽 | ![]() |
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趙雲の像。 | |
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街の中心部のロータリーに黒い騎馬武者の像が。これぞまさしく趙子龍!(98年7月/サル) 天気が悪かった為、ブラック趙雲がさらにブラックに…。像の出来はピカイチ。三遊洞の張飛か、当陽の趙雲か。(03年10月/わた) |
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長坂坡のすぐ前。でかいのですぐわかる。 | |
関連武将 | 趙雲 |
太子橋 | ||
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湖北省当陽 | ![]() |
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元の名前は玉陽橋。趙雲、最大の見せ場の一つ。阿斗を救い単騎奮戦して曹軍の包囲を突破した後、劉備に阿斗を返した場所とされている。 劉禅(阿斗)が太子に立てられた後は太子橋と名称変更され、清代末には石碑が立てられた。 |
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正直な感想として、故事にあわせて無理やり橋をつくった感は否めない。太子橋の周辺はちょっとした公園となっており、解説つきの碑もある。でも橋の下にゴミを捨てるな、人民よ。(03年10月) | |
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長坂坡から関陵方面へ向かって北西へ。少し歩いて“太子橋”の名前をつけた店がちらほらと見え始めたら左折。左手にある。道さえ知っていれば長坂坡より全力ダッシュで5分もあれば十分。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:長坂坡から徒歩 /地形:平地 / 見応え:イマイチ | |
関連武将 | 趙雲、劉禅 |
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湖北省当陽(市中心から北東約5km) | ![]() |
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張飛の長坂橋の仁王立ちの現場とされる。清の雍正年間に張飛の子孫がこの地を訪れ碑を立てた。亭は1984年築。 | |
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今は碑石が一つ残るのみ。(98年7月/サル、03年10月/わた) | |
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周りは田んぼ。市内から少し外れる。私はバイクタクシーを利用した。(サル) 街の北東、沮河にかかる二橋を渡って前方約1km。趙雲像より徒歩約1時間。周りは田んぼではなくなっていた…。(わた) |
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張飛 |
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湖北省当陽郊外 | ![]() |
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関羽の霊が神になったのがこの寺。 | |
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玉泉山公園内の玉泉寺に関羽の像がまつられている。また、玉泉山には関公最先顕霊処という碑もある。(98年7月/サル、03年10月/わた) | |
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玉泉山公園内。当陽郊外20キロほど。途中の道はまともに舗装されていない部分もある。バイクタクシーをつかった。 | |
関連武将 | 関羽 |
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湖北省当陽県古ショウ郷 | |
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呉軍によって捕らえられた関羽の胴体が葬られた地。中国三大関帝廟の一つ。南宋淳煕十年(1183年)には墓前に祭祀亭が建てられ、元代には神道坊門、明代に廟と時を重ねるごとに規模が大きくなり、清代にも再建・拡張されている。 陵墓自体は高さ7m、周囲約70mと関林の首塚よりひとまわり小さい。 |
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関羽をまつった殿がいくつもあり、非常に勇壮な作り。惜しむらくはここも相当の田舎であることか…。(98年7月/サル) 陵墓・廟のつくりはさすが三大関帝廟に数えられるだけのことはある。当陽の市街地からそれほど遠くはなく、相当の田舎からは脱却したようだが、三大関帝廟の中では明らかに参拝客が少ない。常平家廟の方が賑わっていた。三大の座危うしか?(03年10月/わた) |
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ここもバイクタクシー利用。ここ当陽の町には市内地図がないので苦戦する。(サル) ブラック趙雲像前のバス停より4路で到着。(わた) |
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関連武将 | 関羽 |
周倉墓 | |||
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湖北省当陽県郊外東南約15km | ![]() 【周倉像】 |
![]() 【周倉墓】 |
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「三国演義」つまり物語上の人物・周倉の墓。以前は田んぼの中に塚と墓碑があっただけだそうだが、像と廟が建てられ観光用として整備された。碑には「漢武烈侯周将軍諱倉之墓」と刻まれている。 | ||
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関羽像ある所に周倉像あり。恐らく世界中で2番目に像が多い三国武将は周倉であろう。しかし彼は主役にはなれなかった。そう、いわばガンダムMk-U的存在だ。 そんな彼が堂々と主役をはる舞台、それがこの周倉墓。架空だの、伝説だのそんなことには目もくれずに周倉墓はただの盛り土から進化を遂げた。(03年10月) |
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当陽→荊州(沙市)方面行きのバスに乗りLiang河鎮付近で下車。周倉墓は公路沿いにある為、あらかじめ運転手に伝えておくとよい。(経由するかは要事前確認)私は時間の関係でやむなくボリタク利用…。 | ||
備考 | 門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:平地 / 見応え:満足 | ||
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周倉 |
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湖北省宜昌市西陵山 | ![]() |
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張飛が宜都の太守であった時に、兵士の訓練をする為に台を作って太鼓をたたいたとされる場所。 | |
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長江沿いにある三遊洞という名勝の中にある。太鼓をたたく張飛の像がある。(98年7月/サル) 荒削りだが超かっこいい張飛像が長江を見据える。対岸には関羽の像もつくられたらしい。(03年10月/わた) |
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宜昌市の北外れのほう。市内バスが通っている。火車付近から出ている10路バスで『三遊洞』下車。 | |
関連武将 | 張飛 |
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湖北省宜昌市郊外 | ![]() |
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古戦場。劉備が陸遜の火計に敗れた。 | |
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猇亭古戦場として整備されている。長江沿いでごちゃごちゃしている。黄忠、馬良などの像がある。蜀に好意的な作りとなっていて呉は悪役。(98年7月/サル、03年10月/わた) | |
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宜昌から東方面へ出ている長距離バスに乗る。30分から一時間ほどで道の右手に見える。 | |
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劉備、陸遜、馬良など |
古隆中 | |||
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湖北省襄樊市西郊外 | ||
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諸葛亮が晴耕雨読の生活をしていた場所で、三顧の礼の舞台となった。西晋時代に碑が立てられ、その後武侯祠・三顧門・隆中書院と次々に建築。 現在は武侯祠・三顧堂及び“十景”が残されている。 |
![]() 【草盧】 |
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一つの山となっておりそこに武侯祠や草庵などが点在する。最初に入り口で入場料をとられるがその後武侯祠などは別料金になっているのがこすい。(98年7月/サル、98年8月/わた) 武侯祠も古隆中の入場料で見学できるようになった。八卦陣の迷路も健在なのでチャレンジするのもいい。当時の襄陽名士(龐徳公・司馬徽・龐統・徐庶・崔州平・黄承彦・王粲・蔡瑁)の故里を示す地図等、展示も素晴らしい。諸葛亮広場のミニチュア諸葛亮像はファンなら是非手に入れたい一品。(06年10月) |
![]() 【古隆中牌坊】 |
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襄樊駅前から512路で終点下車。入り口までは進行方向に徒歩約10分。 | ||
備考 | 門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:バス / 地形:観光地 / 見応え:孔明ワールド | ||
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諸葛亮、劉備 |
襄樊諸葛亮像 | |||
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湖北省襄樊市 | ![]() |
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襄樊市が2001年に満を持して投入した対南陽市戦略のファイナル・ウェポン。(南陽のブラック孔明像が消滅した今、勝利は確実なものとなった。)高さ14mの銅像は間違いなく世界一巨大な諸葛亮像である。 | ![]() |
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既に伝説となっている許昌・春秋楼の関羽像に唯一対抗できる巨大さを誇り、像の完成度もピカイチ。 写真では伝わらない巨大さ・かっこよさ・渋さを襄樊・諸葛亮広場で味わうことができる。 夜はライトアップされておりまさに街のシンボルとなっている。(06年10月) |
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街の中心「解放橋」から38路バスで「諸葛亮広場」下車。火車站からなら徒歩約20分。(火車站の西方) | ||
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:広場 / 見応え:感涙! | ||
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諸葛亮 |
徐庶廟 | ||
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湖北省南漳県 | ![]() 【徐庶廟】 ![]() 【徐庶像】 |
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徐庶がかつて隠居していた場所で、徐庶故里、単家庄とも呼ばれる。廟は清の嘉慶元年(1796年)に建てられ、正殿には徐庶像が安置されている。 門前の嘉慶17年(1812年)“漢徐庶故里”石碑は1981年に複製されたもの。 |
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入り口が閉っているので管理員に開けてもらおう。狭いが中に徐庶像がちゃんとある。(98年7月/サル) 国慶節期間中だったこともあり、管理人(奥の博物館の人)をつかまえるのに苦労した。水鏡庄に比べると活気がないが、小ぢんまりとしていてまとまりのある廟だ。(06年10月/わた) |
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襄樊から南漳行きのバスに乗る。バスターミナルの近く。(長距離バス停東の徐庶路を北上数百メートル。) | |
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門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:長距離バス停から徒歩 / 地形:平地 / 見応え:元直ファンはまずここへ | |
関連武将 | 徐庶 |
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湖北省南漳県 | ![]() 【司馬徽像】 |
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水鏡先生こと司馬徽が隠居生活をしていた白馬洞という洞窟が残る。楼閣が建てられたのは乾隆7年(1742年)。 | ||
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ちょっとした岩山のようなものがあり、山腹に殿がある。また洞窟もあり、水鏡がここにいたというが本当だろうか。入り口近くには水鏡先生の像がある。他の三国志関連の場所とは少し毛色が違って楽しい。(98年7月/サル) 白馬洞を抜けると裏の玉渓山上に出て、南漳の街を一望できる。水鏡庄前には河もあり、つり橋がかけられており、雰囲気がよい。(06年10月) |
![]() 【水鏡庄大門】 |
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南漳の西はずれ、玉渓山の麓。バスターミナルの南を通る水鏡路を西に約1.5kmで水鏡庄の近代的牌坊にでる。そこから数百m南下。 | ||
備考 | 門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:長距離バス停から徒歩 / 地形:山麓 / 見応え:ベストオブ隠居地 | ||
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司馬徽 |
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湖北省荊州市 | |
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荊州城の城壁。 | |
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城壁は高くて立派。特に三国志関連で何かがあるわけではない。(98年7月/サル、03年10月/わた) | |
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町の西側=荊州(東側は沙市)が城壁で囲まれている。城壁で囲まれたゾーンには関帝廟や博物館など注目に値する場所がある。 | |
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劉備、諸葛亮、関羽、孫権など |
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湖北省荊州市 | ![]() |
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荊州の太守を勤めた関羽の廟。 | |
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風格のある建物で、中には3つほどの殿があり、関羽像が安置されている。見ごたえあり。(98年7月/サル、03年10月/わた) | |
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荊州城内 | |
関連武将 | 関羽 |
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湖北省荊州市 | ![]() |
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最近できたもののようで、特に歴史的由来はないと思われる。 | |
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入り口には三兄弟の像が我々を迎える。基本的には普通の池のある公園。(98年7月/サル、03年10月/わた) | |
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荊州城内西側 |
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湖北省荊州市 | ![]() |
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博物館。三国志関連の展示あり。 | |
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博物館はいくつかの建物に分かれており、その中の一つが丸々三国志関係のものとなっている。また、古代の音楽が聞けるコーナーもある。三国人物の木彫り人形が売っている。(98年7月/サル、03年10月/わた) | |
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荊州城内西側。西門の近く。 |
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湖北省荊州城内荊州中心医院内 | ![]() |
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関羽が襄陽攻めで毒矢を食らった際、神医華佗に骨を削って解毒をしてもらった場所。 | |
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馬良と碁を打ちながら華佗に治療をしてもらう関羽。演義で有名なワンシーンをしっかりと再現している。このシーンの主役は関羽だろうが、病院と華佗は切っても切れない関係であり、ここの主人は華佗と言っても過言ではない。(03年10月) 荊州中心医院は、昔中央電視台で見たことがあったが、きれいに改装されたようだ。 |
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荊州中心医院内(荊中路72号) | |
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関羽、華佗 |
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湖北省荊州市郊外 |
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関羽が樊城攻略の前に閲兵点将を行ったところ。 |
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郊外の農村の田舎道沿いに丘があり、付近住民によるとそこであるとのこと。しかし碑などはなく何がなんだかわからない。(98年7月) |
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荊州城の西側の道を北上。ローカルな長距離バスが走ってはいるが、「関羽点将台」と言っても通じない。市内地図に一応載っているが…。 |
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関羽 |
呉王城遺址 | ||
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湖北省鄂州市城区 | |
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221年、魏の曹丕から呉王に封ぜられた孫権は同年この地に呉王城の建設を始める。“以武而昌”から鄂県を武昌と改名した。 かつては武昌城と呼ばれており、東西1,000m、南北500mという城の規模であった。現在は南側の土城壁の一部が残っている。 1992年に省級文物保護単位に指定。 |
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今はきれいに整備されており、呉王城遺址を示す碑と亭がある。きれい過ぎて故城の雰囲気には欠けるがそれは贅沢というものか。(07年2月/12月) | |
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古城路北段一帯。鳳凰北路と武昌大道(中段)が交差するあたり。西山風景区から徒歩約30分。 | |
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門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:平地 / 見応え:城址マニア必見の地 | |
関連武将 | 孫権 |
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湖北省鄂州西山 | |
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孫権の離宮があったところ。 | ![]() |
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秀園と呼ばれる庭園になっている。以前あったとされる孫権の殿、像はなくなっていたようで発見できず。(98年7月) | |
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西山は鄂州では有名な観光地。市内バスで入り口まで行ける | |
関連武将 | 孫権 |
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湖北省鄂州西山 |
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不明。剣の切れ味でも試したと言うことか? |
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碑とそれらしき石がある。(98年7月) |
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西山山中。頂上の近くだったと思う。 |
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孫権 |
鳳凰台 | ||
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湖北省鄂州市城区 | ![]() ![]() |
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209年、孫権、周瑜、魯粛、張昭が虎頭山で建都の大計について協議している時に鳳凰の鳴き声を聞いたことから、この地に鳳凰台が建設された。 | |
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この鳳凰台は中に入ることができ(確か室内ローラースケート場)、人民の憩いの場となっている。 一見ただの広場に見えるが、その起源は孫権の時代に遡る。(08年1月) |
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市政府となり。鳳凰広場内。市内バス3路で行ける。 | |
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門票・塀・土産物屋:なし。 / 推奨交通手段:市内バス / 地形:広場 見応え:鳳凰の舞を見逃すな! |
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関連武将 | 孫権、周瑜、魯粛、張昭 |
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湖北省蒲圻県赤壁古戦場 | |
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改めて説明するまでもない歴史に燦然と輝く超有名な古戦場。劉備・孫権連合軍が火攻めで曹操を破った地。ここでの功労者はなんと言っても周瑜だ。赤壁の戦いはなかったという説もあるが、演義ほどの規模はないにしても、ここで戦があったのは間違いないだろう。 | ![]() |
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よく旅行書に載っている"赤壁"の二文字がある崖は思ったほど高さがなく、字もさほど大きくない。成都武侯祠と並ぶ三国志の聖地にしては、土産物屋の数も少ないのには残念。そして聖地で一泊する予定が、赤壁唯一のホテルに宿泊を拒否されたことから、我々の悲劇は始まったのであった…。(2000年2月) | |
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それなりにひらけている蒲圻から赤壁行き(もしくは経由)バスが出ている。 | |
関連武将 | 孫権、周瑜、諸葛亮など |
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湖北省蒲圻県赤壁南屏山上 | ![]() |
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又の名を『武侯官』という。明の洪武16年(1383年)、呉王孫権をまつる呉主廟がこの地に建てられた。ところが、明の崇禎16年(1643年)に、赤壁の戦いで風を呼び起こした諸葛亮をまつる廟にかわったのである。殿内には赤壁の戦いや諸葛亮の活躍を解説する資料などがある。 | |
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孫権をまつる廟がいつの間にか諸葛亮のものになっているのは、今までの二人の人気を比べて見れば納得できる。まぁ、呉ファンの人には残念だろうけど。この拜風台はちょっとした山の上にあり、十分に演義の雰囲気を楽しむことができる。(2000年2月) | |
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三国赤壁観光地内。 | |
関連武将 | 諸葛亮、孫権 |
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湖北省蒲圻県赤壁南屏山上 | ![]() |
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拜風台の左隣にある円形の楼。赤壁の戦いの時に、孔明が東風を呼んだ故事に由来する建物である。 | |
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まぁ、この建物は隣の拜風台の副産物的存在だ。扉はしまっており中に入ることはできない。皆さんもここで風を呼んでみよう!(2000年2月) | |
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三国赤壁観光地内。 | |
関連武将 | 諸葛亮 |
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湖北省蒲圻県赤壁古戦場 | ![]() |
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魯粛の名前をつけた池。特に何かがあるわけではない。 | |
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はっきり言ってただの池。(2000年2月) | |
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三国赤壁観光地内。赤壁山を登る手前に位置する。 | |
関連武将 | 魯粛 |
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湖北省蒲圻県赤壁古戦場 | ![]() |
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赤壁にある巨大な周瑜の像。赤壁の戦いの英雄はなんと言っても周瑜なのだ! | |
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上半身だけだと滅茶苦茶かっこいい像だけど、全体を見るとなんかなぁ。山の下のお土産屋で、ちっちゃな周瑜像が売られている。ちょうど子供が店番をしていたんだけど、サル君が買った時にボッタくるのを忘れたその子は、後でお母さんに怒られていた…。恐るべし、中華人民共和国の教育方法!(2000年2月) | |
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三国赤壁観光地内。赤壁山上。 | |
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周瑜 |
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湖北省蒲圻県赤壁古戦場 | ![]() |
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龐統が隠居をしていた庵。ここで兵書を読みふけっていた龐統は、赤壁の戦いの時もここを拠点としていた。赤壁の戦いで大功を立てた龐統のために廟が造られたのである。 | |
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春節の時期に訪れたこともあって、すごいにぎわいよう。ドサクサにまぎれて見学しようとしたら、“入場料払え!”ときた。しかも“小日本鬼子”ときたもんだ…。あらあら、名軍師龐統さんが泣いてるぜ!廟内には龐統の像がある。(2000年2月) | |
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三国赤壁観光地内。 | |
関連武将 | 龐統 |
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湖北省赤壁市城区 | |
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赤壁市内にある巨大な諸葛亮の像。2004年につくられた。 | |
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赤壁と言えば周瑜のはず?赤壁市は知名度で諸葛亮を選択したわけだが、レッドクリフ効果で周瑜像も作って欲しい。(08年1月) | |
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赤壁人民広場。公交2路で行ける。 | |
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:広場 / 見応え:完成度は高い。 | |
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諸葛亮 |
陸遜営寨 | |||
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湖北省赤壁市黄龍古鎮虎山林区 | 【陸遜像】 |
【陸遜拝将台】 |
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東呉の大都督・陸遜の営寨。陸遜はこの地で二度拝将を受け、軍の演習を行ったと言われている。 | ||
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かつては有料だったそうだが、現在は管理されておらず荒れている。ただ、門は開放されており、入り口すぐの凛々しい9mの陸遜像は健在。 陸遜拝将台、烽火台、陸遜の活躍を描いた長廊等が見どころ。(08年1月) |
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赤壁市から黄龍行きのバスが出ているので、陸遜営寨で途中下車。 | ||
備考 | 門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:山 / 見応え:入り口の陸遜像は見逃すなかれ! | ||
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陸遜 |
曹公祠 | |||
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湖北省洪湖市烏林鎮 | 【曹公祠】 |
【曹操像】 |
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烏林を敗走した曹操の廟。創建は明代だが、現在の廟は人々の募金により1995年に再建されたもの。 |
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資料によれば曹操、曹仁、李典、張遼、荀ケ、許褚、張郃の像が祀られているとある。実際に現場及び村人に確認したところでは、向かって左から荀攸、張郃、許褚、曹操、曹仁、李典、張遼という結論。村人は左端の像を“シェンヨウ(神優)”と言っていたが、これは荀攸(シィンヨウ)と思われる。 正直人形の出来が著しくイマイチなので、曹操以外は一見誰だか分からない。(08年1月) |
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赤壁の長距離バス停から洪湖行きに乗り胡范で下車。省道103号を北東へ約2km行くと烏林寨を示す看板があるので左折。約1km進むと到着。烏林寨の石碑のすぐそば。 | ||
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:胡范から徒歩 / 地形:平地 / 見応え:湖北では貴重な曹操の遺跡 | ||
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曹操 |
魯公台 | ||
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湖北省洪湖市烏林鎮黄逢 | |
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赤壁の戦いおよび周瑜の死後、軍権を引き継いだ魯粛がこの地に駐屯したとされる。 | |
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一面に広がる田園地帯の中に、ポツリと文物保護の石碑がある。その一角少しだけが田んぼになっていないのがせめてもの情けなのか?魯粛を感じるにはかなりの想像力が必要だ。(08年1月) | |
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赤壁古戦場の対岸へ出て、烏林鎮の幹線道路・省道103号を行く。料金所の500メートルほど手前で左折し、烏林鎮の中心部へと向かう道を直進。3キロくらいひたすら進み、地名が「黄逢」に変わる。大きな橋のすぐ手前の小道を右へ。ひたすら進むと道がなくなるが、すぐちかくの「安子廟」を目安に突き進む。廟からは100メートル圏内だが、石碑は非常に目立たないうえに人民の墓碑がたくさんあるので、とにかくしらみつぶしに探すこと。田んぼの一角にちょこんとある。 | |
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門票・塀・土産物屋:なし。石碑一つ / 推奨交通手段:徒歩(黄逢までのバスもあるようだ) / 地形:田園地帯 / 見応え:行かずには帰れない! | |
関連武将 | 魯粛 |
呉王廟(孫権廟) | ||
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湖北省洪湖市烏林寨東5km呉王廟村 | |
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呂蒙、陸遜(一説では魯粛)がこの地に駐屯した際、孫権が軍務視察を行った。これを記念して後に民によって廟が建てられた。後漢末もしくは晋代初期の創建。 何度も破壊され焼失したが、2001年人民の募金により再建された。 |
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廟内にはもちろん孫権の塑像がある。孫権の左が剣を持っている周瑜、右が魯粛。この二将は主に比べてかなり小さいミニチュア版。ちょっと威厳に欠けるか…。 しかし朱色の外観は素晴らしい。(08年1月) |
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赤壁の長距離バス停から洪湖行きに乗り胡范で下車。省道103号を北東へ約8kmで到着。右手に見える。 | |
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門票・塀・土産物屋:なし。 / 推奨交通手段:烏林寨から徒歩 / 地形:平地 / 見応え:外観が美しい。 | |
関連武将 | 孫権 |
草船借箭処 | ||
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湖北省嘉魚県魚岳鎮清水溝魚岳山 | |
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諸葛亮が船を出して曹操軍から10万本の矢を集めた場所。岩山に“取箭所”と刻まれている。エピソードの真偽はともかく、この地はよく長江を覆ってしまう程の濃霧が発生するらしい。 | |
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岩山に三文字刻まれているだけなので、結構見つけにくい。例えそれが演義のエピソードであっても、ここがかの有名な物語を生んだ場所なのだ。 資料によっては既になくなったと記載がある。この手の遺跡は一度埋もれるとそのまま忘れ去られる可能性が高いので、復活したのであれば本当によかったというべきだ。(08年1月) |
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嘉魚の中心からほぼ真西に3〜4km。護県洲という中洲の対面。長江沿いの永逸閘という水門のそば。陸渓鎮に向かう道路の下。嘉魚⇔陸渓のバスがそばを通る。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:嘉魚の中心から徒歩 / 地形:長江沿い / 見応え:エピソードの有名度に比べ控え目 | |
関連武将 | 諸葛亮 |
呉主廟(孫権廟) | |||
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湖北省嘉魚県陸渓鎮界石村 | ||
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呉軍が駐屯していた地に建てられた孫権の廟。又の名を呉王行祠、呉王廟という。明・洪武8年(1635年)の創建。清の咸豊年間に破壊されたが、同治3年に再建。清末、民国初年に修繕されたが、1968年に又も破壊された。現在の廟は1993年に建てられたもの。 ちなみに界石の地名は呉・蜀の間に石を置いて境界としていたことに由来する。 |
【呉主廟】 |
【孫権像】 |
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洪湖・呉王廟の塑像に比べるとはるかに迫力がある。孫権像以外にも周瑜・魯粛・諸葛瑾・張昭・陸遜・呂蒙・徐盛・丁奉ら臣下の塑像もあるのは非常にうれしい。(08年1月) | ||
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嘉魚から陸渓行きのバスがある。陸渓鎮の中心から長江に出て堤防沿いに下流へ約1〜2km。 | ||
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:陸渓から徒歩 / 地形:長江沿い / 見応え:塑像に注目 | ||
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孫権 |
靖江王廟(丁奉廟) | ||
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湖北省嘉魚県陸渓鎮 | |
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靖江王廟とは即ち呉の末期まで活躍した丁奉を祀った廟のこと。嘉魚一帯では毎年6/19に“王爺会”が開かれ、丁奉に感謝の意を表す。(富池の甘寧のように、水神的な存在。)廟には二体の丁奉塑像があり、一体は王爺会の際に人民達によって担ぎ出され、練り歩く。(これも富池の甘寧式) 丁奉はつぶての名手だったということもあり、丁奉塑像の手にはつぶてが握られている。 |
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呉王廟(孫権廟)を探している時に偶然に立ち寄ったのがこの廟。説明書きを読んで丁奉の廟と知った時は我々に激震が走った。 甘寧と同様局地的にではあるが、神と崇められている丁奉。晩年はその傲慢な態度から讒言もされているが、人民からはいつまでも愛される英雄なのである。(08年1月) |
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嘉魚から陸渓行きのバスがある。陸渓鎮の中心から長江(堤防)側に数百メートルで到達。98年の長江大洪水で沈んだ呂蒙城遺址の場所にある。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス下車後徒歩 / 地形:長江沿い / 見応え:地元に愛される廟 | |
関連武将 | 丁奉 |
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湖北省陽新県富池鎮 | ![]() |
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甘寧の、甘寧による、甘寧のための公園。このようなド田舎に甘寧テーマパークをつくりあげた富池人民の心の中には、今でも甘寧が生きている。園内には甘寧墓、甘寧提督像、甘寧寺、甘泉などみどころが盛りだくさん。 | |
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中国によくあるちゃちなテーマパーク(西遊記館、世界七不思議館など)とはくらべものにならないほど立派な公園。それでいて入場料は無料。地元人民もちらほら見受けられ、人民の憩いの場所となっている。(2000年12月、2007年12月) | |
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武漢→黄石→陽新→富池とバスで移動。富池到着後、直進して橋を渡り最後に右折。 | |
関連武将 | 甘寧 |
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湖北省陽新県富池鎮 | ![]() |
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甘寧が晩年太守を務めたこの地では、1800年の間地元のヒーローであり続けた。甘寧の遺体は失われてしまったが、いわゆる衣冠塚が建てられたのである。 | |
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はっきり言って超絶級の墓。その豪華さは軽く武侯墓クラスに達する。直線距離では近くにある程普墓とはえらい違いだ。ただ陽新の市街地で知っている人民はほぼ皆無。ついでに地図も参考資料も皆無状態。それでも目指そう!甘寧墓!!(2000年12月、2007年12月) | |
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武漢→黄石→陽新→富池とバスで移動。富池到着後、直進して橋を渡り最後に右折。甘寧公園内。 | |
関連武将 | 甘寧 |
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湖北省陽新県富池鎮 | ![]() |
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甘寧墓の墓上に立つミニ甘寧像。今まで各地の墓参りをしたけど、墓の上に像があるケースは甘寧墓以外見たことがない。 | |
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甘寧提督像と比べ可愛らしい甘寧像。墓の上に像を建てるセンスが気に入った。(2000年12月、2007年12月) | |
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甘寧公園内 | |
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甘寧 |
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湖北省陽新県富池鎮 | ![]() |
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甘寧公園にあるかっこいい甘寧“提督”像。制作費3万元(約40万円)は地元富池人民からの寄付。これこそが富池人民の努力の結晶なのだ! | |
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しっかりした土台にかなり大きい“提督”がそびえたつ。でもなぜ“提督”なのだ?甘寧は本当に地元で愛されているのだろうか?(2000年12月、2007年12月) | |
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甘寧公園内 | |
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甘寧 |
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湖北省陽新県富池鎮 | ![]() |
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甘寧を御神体と崇めるお寺。同じ富池鎮にあるはずの甘寧廟とは違い、歴史は浅い。甘寧公園とともに新たに建てられたと思われる。 | |
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甘寧寺内には三体の像が安置されている。真中の像は甘寧のはずだが、はっきり言って全然似ていない。そして謎なのが、両脇の像。一体誰なのだ?(2000年12月、2007年12月) | |
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甘寧公園内 | |
関連武将 | 甘寧 |
呉王廟(甘寧廟) | ||
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湖北省陽新県富池鎮 | ![]() 【呉王廟】 ![]() 【本殿】 |
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正式には昭勇祠という。(宋の徽宗皇帝によって命名)“呉王”“昭勇”と一見誰の廟だが判別できないが、これぞ超局地的ではあるものの神としてあがめられている甘寧の廟である。(神風を吹かせて船の航行を助けたことから、水路の神として崇められ、宋代に王に封ぜられ廟が建てられた。) 現存の廟は最近再建されたもの。殿内には甘寧と甘寧夫人が祀られている。 |
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呉王廟にはこの地ならではの“廟会”がある。(旧暦三月初三に開かれる。)なんと本殿の甘寧&甘寧夫人の御神体が出動!村人によって担ぎ出され、2kmは離れている聖地甘寧公園まで練り歩くのである。(甘寧寺に当日撮影された写真が貼られているが、甘寧公園が人民の海と化しており、ものすごい熱気を感じ取ることができた。) 甘寧ファンなら富池を訪れることはもはや常識。真の甘寧マニアなら旧暦3.3に訪れて神・甘寧の凄さを感じて欲しい!!(07年12月) |
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富池にバスで到着後、そのまま前進し橋を渡る。すぐ左折し細い橋を渡り前進。約1km。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス下車後徒歩 / 地形:村内 / 見応え:伝統と規模に驚愕 | |
関連武将 | 甘寧 |
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湖北省黄石市東郊外 | |
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280年、呉が晋を迎え撃った最終決戦の地。長江を下って進攻してくる晋軍に対し、呉軍は水中に鎖を張り、鉄錘をたてて応戦。呉軍の抵抗むなしく晋の王濬によって鎖は焼ききられ呉は滅亡に向かう。 | ![]() |
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西塞山自体はちょっとした山。一時間もあれば余裕で山頂まで到達できる。上から見渡す長江の眺めは圧巻!のはず。私が行った時は濃霧であったが…。麓には今でも当時の鉄柱があるとのこと。元々は山中にもあったらしい。(2001年1月) | |
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武漢から黄石までバスで約2時間。黄石市の市内地図に載っている。火車站前からバスが出ている。 | |
関連武将 | 王濬 |