安徽省


周瑜墓
所在地
安徽省盧江県 周瑜墓
解説
周瑜は建安15年(210年)故郷のこの地に葬られた。明代・清代に厚い保護を受け今にいたる。
現況
一年半前と比べ周辺の状況がかなり変わったようだ。もしかしたら「三国遺跡テーマパーク五ヵ年計画」の一環として生まれ変わる途中なのかと期待してしまう。(そんなわけないか…。)墓の前には周瑜の黒い石像がある。雰囲気はいいが、大都督周瑜の墓にしてはみすぼらしい。(2000年2月)
交通
合肥から盧江までバスで向かい、盧江バス停からは徒歩10分ほど。街東側の「周瑜路」にある。
関連武将
周瑜


周瑜路
所在地
安徽省盧江県 周瑜路
解説
周瑜墓がある通り。
現況
一年半前にはこの通りに「周瑜墓」とでかでかと標識がたっていたはずなのだが…。(2000年2月)
交通
盧江の街の東側に位置する。
関連武将
周瑜


周瑜城
所在地
安徽省舒城県干cha河鎮 周瑜城
解説
周瑜の出身地は盧江郡舒県。舒城県は有名な周瑜墓がある盧江県の西隣。ここら辺一帯が周瑜ゆかりの地であることは間違いない。
現況
現在開発進行(停滞)中の周瑜城が完成すれば無錫三国城をしのぐ規模になり、周瑜の故郷として一躍有名になるはず。しかしこの地に掲げられている完璧にして非の打ち所のないプラン・完成予定図をどこまで信じていいのやら…。現在あるのは2002年4月に完成したばかりの周瑜像のみ。(2002年8月)
交通
合肥→舒城までバス。ここで曉天行きに乗りかえ、途中の干cha河鎮で下車。鎮中心から南西へ約2Kmの所に「周瑜城」の看板があるので、そこを左折して到着。
関連武将
周瑜


逍遥津
所在地
安徽省合肥市内 逍遥津
解説
建安20年(215年)、孫権が兵を率いて合肥を攻めた時に魏将張遼に撃退された地。泣く子も黙る張遼は呉に最も恐れられた武将である。遼来来!
現況
今は逍遥津公園となっている。そして園内にはちゃちな人形が至る所に飾ってあり、エセディズニーランド状態になっている。このままでは数年のうちに三国時代の重要な古戦場であることさえ忘れ去られてしまうのでは…。公園内にはかっこいい張遼像と張遼衣冠塚がある。(2000年2月)
交通
2路バスで「逍遥津」下車。
関連武将
張遼孫権


合肥華佗像
所在地
安徽省合肥市内 合肥華佗像
解説
80年代につくられた華佗の塑像。でも何故ここ合肥にあるのか?それはここの通りの名前が彼の故郷「亳州路」だからだろう。
現況
ちょっとした公園の中に華佗像はある。そして華佗像前で太極拳をする人民達。おぉ!健康動物体操の創作者・華佗は今も人民に愛されているのだ!合肥では華佗は神医ではなく体操のおじさんと化していた。(2001年5月)
交通
亳州路と環状西路の境にある。市内から見て北西に位置する。逍遥津前からなら、西に向かうバスに乗り「杏花公園」付近で下車。後は徒歩で十分。
関連武将
華佗


合肥新城遺址
所在地
安徽省合肥市西北郊外三十崗郷 魏将塑像
【魏将塑像】
合肥新城大門
【合肥新城大門】
満寵肖像画
【満寵肖像画】
解説
魏の征東将軍満寵が明帝・曹叡に建議し、青龍元年(233年)に老朽化した合肥城にかわって建てられた前線基地。孫呉は233、234、253年など幾度も進攻しているがいずれも撤退を余儀なくされている。(234年には明帝・曹叡が親征して防いでいる。)
1995年に土地の基礎整備が始められ、2003年に公園の基礎施設を建設し、三国新城遺址公園としてオープンした。
安徽省重点文物保護単位。
現況
三国文物陳列館では合肥新城遺址を巡る攻防について非常に詳細な解説・展示がなされており、見ていて楽しい。(ジオラマあり、解説あり、出土物の展示あり。)
広い公園内は本物の遺址を基礎に整備されており、もちろん三国志関連の塑像・彫刻なども満載。まさに三国志テーマパーク。土産物を充実させれば完璧だ。
魏呉の攻防に特化しているのもファンにはうれしいが、普通の人民も憩いの場として楽しめる環境。(06年11月)
交通
逍遥津の西方数kmにある省博物館より、300路で終点一つ手前の陳龍村下車。下車後、バスは右折するが逆方向(左折=南下)に進めば見えてくる。徒歩約10分。本数は少ないが、逍遥津⇔合肥新城の旅遊専用バスもある。
備考
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:バス / 地形:古城 / 見応え:巨大テーマパーク
関連武将 満寵、曹叡、孫権など


李典墓
所在地
安徽省合肥市肥西県紫蓬山 李典墓
解説
合肥防衛戦では、張遼と共に呉を撃退した李典。現在の紫蓬山李典墓は近年になって再建されたもの。碑には1999年10月とある。
ちなみに李典の故郷・山東省鉅野でも墓が発見されている。同じく山東省荷沢の博物館に移設されたとされているが、こちらは発見できず。
現況
紫蓬山は地元ではそれなりに有名な観光地であるが、山の頂上にある為、体力と時間を要する。正直“なんでこんなとこに墓が?”って思うけど、李典本人にしてみれば、静かでなかなか立地条件がよいのかもしれない。(2002年8月)
交通
肥西(合肥市南西)の北端から出ている小廟行きのバスに乗れば、紫蓬山付近まで行ける。小廟方面と紫蓬山方面で分岐する地点で下車し、紫蓬山まではボリタク利用。(合肥市西端⇔紫蓬山のバスもある)
関連武将
李典


八斗曹植墓
所在地
安徽省肥東県八斗鎮
解説
建安33年、曹植は曹操に従軍して南下し、この地に駐留(当時の地名は八字橋)。ひどいかんばつで農民が水不足に悩んでいると知るや、軍の為もあって曹操に上表し井戸を掘らせた。
曹植は彼の地を3度訪れたが、民に慕われていたこともあり、後に八字橋の地名を八斗に改め、曹植のために衣冠塚をつくったと言われる。曹植は才高八斗(才能が非凡なこと)と称されている。
八斗曹植墓
現況
以前の墓は文革で破壊され、清の光緒16年に立てられた「魏陳思王曹公子建之墓」の碑は元県水利局長の手で保管されているらしいが、真相は謎。現在の墓は最近修復されたもので、残念ながら碑はない。理想は清代の碑をもう一度墓前に!
交通
合肥東站から八斗行きバスで約1時間。鎮の中心から定遠方面に向かって左前方(道を5分ほど進む)に八斗中学がある。中学の裏手の畑の中。定遠からバスに乗っても約1時間。
備考
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:鎮の中心より徒歩 / 地形:学校裏 / 見応え:碑を加えた完全体を早く見たい!
関連武将 曹植


朱然墓
所在地
安徽省馬鞍山市雨山区 朱然墓
解説
1984年6月に発掘された朱然の本物の墓。墓の中からは歴史的に見ても非常に貴重な装飾品も多数発掘された。特に漢末時の漆器工芸品は今までに発掘されていなかった。朱然一族の墓も別棟にある。(2000年2月,2015年5月)
現況
歴史的価値が大変高いということで、さすがに中国も保存には力を入れている。今まで見た三国志系の墓の中では、レベルが違うと言っても過言ではない。ただ残念なのは写真撮影が禁止ということ。朱然の棺は是非とも撮りたかった…。
交通
馬鞍山火車駅から13路バスに乗り終点下車。そこから徒歩数分で到着。朱然路にある。
関連武将
朱然


朱然文化公園
所在地
安徽省馬鞍山市雨山区 朱然文化公園入口
【公園入口】
朱然像
【朱然像】
解説
2003年朱然墓の横につくられた公園。敷地面積は8.2万uとかなり広い。朱然像、朱然レリーフ、漢画像石等がみどころ。
現況
全国6,000人の朱然マニアの期待に応えて(?)、2003年につくられたとのこと。三劉が朱然墓を初めて訪れた2000年にはまだなかった。このように遺跡がパワーアップされると、再訪するきっかけになるので大歓迎!(2015年5月)
交通
市内バス2路、8路等で行ける。
備考
門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:市内バス / 地形:公園 / 見応え:全国6,000人の朱然マニア憩いの地。
関連武将 朱然


朱然路
所在地
安徽省馬鞍山市南郊外 朱然路
解説
朱然墓に続く短い道。(2000年2月)
現況
もちろん朱然墓が発見されてから命名された道であろう。それにしても道に三国志武将の名前がついているだけでうれしい。
交通
朱然墓に続く道。
関連武将
朱然


赤烏井
所在地
安徽省馬鞍山市采石公園内 赤烏井
【赤烏井】
文物保護単位碑
【文物保護単位碑】
解説
長江三磯の一つ采石磯にあり、境内で最も古い古跡の一つ。広済寺のすぐ傍にあり、又の名を広済井ともいう。三国呉の赤烏2年(239年)、広済寺が建立された時に掘られた。言い伝えでは、井戸が掘られた際に色彩鮮やかな石が発見され、この石で香炉を造り広済寺の宝として供えられたという。この石がすなわち采石磯の名の由来になっている。
市級重点文物保護単位。
現況
1985年の調査で井戸の深さが20.08mあることが判明。これは全国8,000人の三国井戸マニアも驚愕する深さだ。今では東屋、文物保護単位碑が建てられており、保護環境は非常に良好。(2015年5月)
交通
馬鞍山火車站から游1バスで到達できる。三国マニアなら朱然墓から徒歩で到達すべし。
備考
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり(風景区) / 推奨交通手段:朱然墓から徒歩 / 地形:風景区、山麓 / 見応え:全国8,000人の三国井戸マニア納得の出来。


教弩台
所在地
安徽省合肥市内 教弩台
解説
又の名を「称明教台」、「曹操点将台」という。逍遥津と合肥城に近かったことから、攻めやすく守りやすい地であった。曹操はこの地で兵の訓練をしたのである。(2000年2月)
現況
歴史的に見て、この地で曹操軍が訓練したのは間違いない。しかし現在では名称以外三国時代を思わせるものは一切ない。今では「明教寺」という寺になっている。98年に訪れた時には三国時代関係の展示があったはずなのだが…。
交通
逍遥津公園から徒歩数分。
関連武将
曹操


黄蓋墓
所在地
安徽省蕪湖市南陵県黄墓鎮 黄蓋墓碑
【黄蓋墓碑】
黄蓋墓遠景
【黄蓋墓遠景】
解説
黄蓋はかつて南陵(古称は春谷)を治めており、彼の地にて水軍の訓練や治水を行っていたという。かつて存在した黄蓋墓は惜しくも文革時に破壊された。墓碑には「漢三国東呉大将軍黄公覆之墓」と刻まれていたという。
90年代には当地にて三国時代の墓が発掘され、黄蓋墓と推測されている。地名からも分かる通り、黄蓋がこの地に眠っているのは間違いない。
そして、2013年7月、全国3万人の黄蓋ファンの期待に応える形で県級文物保護単位碑が復活建立された。
現況
2002年、黄蓋墓の情報をゲットした我々は意気揚々と出撃したが、地元民からの聞き込みにより既にほぼ平らになっていることが判明…。昔は“そこにあった。”という情報は得たが、豪雨に見舞われ撤退した。
あれから13年…。何と墓碑が新たに建てられたという超有力情報を得て再出撃。今回も雨の中徒歩で捜索したが、情報のおかげで無事到着。(情報をwebで公開している人民に感謝!)シンプルな墓碑のみで塚はないが、前面の畑と後方の草木が何ともいい感じで墓碑とマッチングしている。(2015年5月)
交通
蕪湖の馬飲客運站から南陵行きのバスに乗り、許鎮下車。東西に走る省道355号を西進約5km。漳河橋手前約100mの地点で左折すると到着。
備考
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:許鎮から徒歩 / 地形:畑 / 見応え:真新しい墓碑が渋い!
関連武将 黄蓋


天子墳(孫休墓)
所在地
安徽省当涂県围屏郷龍華行政村
解説
高さ5m、周囲50m余りと巨大な塚。呉の第三代皇帝孫休の陵墓(景帝定陵)と云われているが、確証はない。地元では天子墳、又は天子墓と呼ばれている。馬鞍山市重点文物保護単位。 天子墳
現況
重点文物保護単位であるにも関わらず、2006年に当地企業の魔の手が伸び無残にも破壊されたとのこと。今までであれば、このまま消滅の途をたどってもおかしくない状況だが、なんと5万元の罰金と陵墓の現状回復が当該企業に課せられたそうだ。
そのおかげで今日も立派な姿を拝むことができるわけだが、工場の敷地内にあり、一般人は立ち入り禁止…。敷地外からかろうじて碑も確認できるが、何ともストレスがたまる遺跡であることか。結局その企業にしてやられている状況である。ちなみに、サルは豪雨の中、企業の門前で2度もたて続きに転倒し、宙を舞った…。(2015年5月)
交通
当涂東站バスターミナルより围屏岔までバス移動。下車後省道314号(天子路)を東に数百m進み、南北に走る長山路を通過したところで北側に見えてくる。
備考
門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:工場敷地内 / 見応え:遠い!
関連武将 孫休


三国ラン勝宮
所在地
安徽省亳州 三国ラン勝宮
解説
中国ではよくある三国志のテーマパーク。“ハイテク”人形を使って三国志の名場面を再現!
現況
ここ2〜3年でつくられたこのテーマパークは曹操一族墓の隣に位置する。明らかに「曹操の街」としての変貌を狙っている。同じくハイテクテーマパークと化した官渡とどっちが上であろうか?(2000年2月)
交通
亳州火車駅から西へ。歩いて約10分で到着。
関連武将
曹操


曹操宗族墓
所在地
安徽省亳州 曹操一族墓
解説
俗に「曹家弧塚」と呼ばれている。周囲5kmの広大な土地に、曹操の祖父曹騰・父の曹嵩らが葬られている。1974年から1977年に渡って発掘調査された本物。装飾品なども発見され、その歴史的価値は高い。
現況
今は人民が集まる公園のようになっている。昔の写真を見るにもっと墓らしかったのだが、今はこぎれいになって雰囲気が崩れてしまったのが残念。塚の周りもちゃんとコンクリートで整備されている。(2000年2月)
交通
亳州火車駅から西へ。三国テーマパークの隣。
関連武将
曹操


曹操運兵道
所在地
安徽省亳州 曹操運兵道
解説
言い伝えでは曹操が軍事目的で使用した地下道とされてきたが、実は宋代末の遺跡である。
現況
人がぎりぎりですれ違うことができるくらいの地下道が、全長約2kmに渡ってはりめぐらされている。実は三国志関連の遺跡ではないとされているが、そんな事は関係なく楽しめる。ただ一日中いると気が狂うかも…。(2000年2月)
交通
街の中心にある人民中路(東西)と人民南路(南北)が交差する所に位置する。
関連武将
曹操


曹操像
所在地
安徽省亳州 曹操像
解説
曹操運兵道を見学した後、偶然発見した曹操の石造。
現況
数年前につくられたと思われる曹操の像。この街は曹操の故郷というだけあって、三国志の街として売り出し中のようである。(2000年2月)
交通
曹操運兵道の西側出入口付近。
関連武将
曹操


華祖庵
所在地
安徽省亳州 華祖庵
解説
別名「華佗庵」。こちらの名称の方がわかりやすい。言い伝えによると、この地に華佗は住居をかまえ、病人の治療に励んだという。唐・宋代には廟として祀われていたが、戦火で燃えてしまった。それを明代末に建てなおしたのが今の華祖庵である。廟の中には2m強の華佗の像があり、記念館では各種薬の資料を見ることができる。
現況
華佗は曹操と同郷であることで有名だ。曹操と同じくらい華佗の知名度は高い。華祖庵の後ろ側には池があり、小休止にはもってこい。(2000年2月)
交通
街の中心からのびる新華路を進み、右手にある永安街を右に曲がる。
関連武将
華佗


華佗像
所在地
安徽省亳州 華佗像
解説
華祖庵から花戯楼に行く途中に発見した華佗の石像。腰からぶら下げているひょうたんが彼のトレードマークだ!
現況
地元のヒーローの座を巡って曹操と華佗は激しい争いを展開している。真のヒーローはどっちだ?(2000年2月)
交通
和平路にある亳州城という城門のような建物の横にある。街の中心から歩いて行ける。
関連武将
華佗


花戯楼
所在地
安徽省亳州 花戯楼
解説
実は花戯楼という名の関帝廟である。ただ岳飛の塑像はあったが、(中国では関岳廟として祖国の英雄二人を一緒に祀ることが多い。)関羽関連のものはほとんどない。中には曹操の父・曹嵩のものと言われる、遺体を覆う装飾品が安置されている。
現況
関羽やら岳飛やら曹嵩やら…、なにやら由来がはっきりしない花戯楼。建物のつくりは古めかしくて雰囲気はある。(2000年2月)
交通
市の中心からみて北側に位置する。かなり細い道を何度も曲がらなければならないが、市中心から歩いていける。姜市街という道を進めば到着。
関連武将
関羽


魏武故里
所在地
安徽省亳州 魏武故里
解説
言い伝えでは曹操が幼い頃に勉強をした場所とされている。
現況
市内地図にも載っているからかなり有名な場所と思いきや、中には知らない地元民もいた。その上住宅街の中にあり、かなり発見には苦戦した…。大きな木の下に新旧の碑が二つあるだけだが、曹操の故里としては趣がある。(2000年2月)
交通
建安中学(漢末の元号)の傍にあるのが特徴か?南北にのびる建安路の東側に位置する。
関連武将
曹操


曹邸銀杏
所在地
安徽省亳州魏武故里横 曹邸銀杏
解説
魏武故里の横にある二株の古銀杏の樹齢は千年以上と言われている。言い伝えでは曹家の者が植えたらしい。
現況
見るからに古めかしいこの木は、魏武故里の雰囲気を一層良いものにしている。大きな木の下に墓を造るパターンがよくあるが、似たような感じか。(2000年2月)
交通
魏武故里横。
関連武将
曹操


曹操像
所在地
安徽省亳州火車駅前 曹操像
解説
この像もまた数年前につくられた。駅前にある巨大な像はまさに「曹操の街」亳州のシンボルにふさわしい。
現況
三国志関連で、ここまで巨大な像は(5mはあるか?)珍しい。夜中に亳州駅に到着した我々は、暗闇にそびえる曹操像に感動の嵐!(2000年2月)
交通
亳州火車駅前。
関連武将
曹操


寿春関帝廟
所在地
安徽省寿県 寿春関帝廟
解説
全国各地に点在する関帝廟の一つ。寿県には孔廟、城隍廟等有名な廟がそろっている。
現況
今となっては全く廟の機能を果たしておらず、印刷所として生まれ変わっている。ただ付近の人民に聞き込みすると、ほとんどの人が関帝廟の存在を知っていた。なるほど、よくよく見ると以前は廟であった建物が残っている。(2001年5月)
交通
寿県南門西徒歩約10分
関連武将
関羽


丁奉像
所在地
安徽省宣城市水陽鎮市街 丁奉像
解説
237-241年に当地で屯田をおこなった総管・丁奉を記念した像。郷土の英雄として像が建立された。
現況
市街のメインストリートの奥、水陽江を背にした場所に凛々しく丁奉像が設置されている。高さ2メートルほどの小さい像であるが、地元民の丁奉への熱い思いを表現している。(06年9月)
交通
タクシーの場合、40キロ程度で相場が80元。宣城市内よりバスが出ている。途中の道が工事中のため、タクシーでも1時間半かかる。市内では、来た道をずっと奥へ進めば、像にたどり着く。
関連武将 丁奉


総管廟(丁奉記念館)
所在地
安徽省宣城市水陽鎮双豊村 丁奉記念館
【丁奉記念館】
丁奉像
【丁奉像】
解説
237-241年に当地で屯田をおこなった総管・丁奉を記念した廟。文革で破壊されたが、1993年に住民のカンパにより修建された。水陽丁奉関連遺跡の本家本元であり、聖地とも言えよう。
現況
建物に「丁奉記念館」の扁額が飾られているが、実質は完全な廟であり、丁奉がご神体として祀られている。かなりの田舎であるが、裏手の水郷の風景などは風情に満ちており、当時を思い起こしてみるのも楽しい。(06年9月)
交通
水陽鎮から数キロ範囲内のはずである。2006年9月時点では、直通の道が(工事により)閉鎖されており、大きく回り道をしての到達となったため、町からタクシーで20分かかった。
関連武将
丁奉


承淵塔
所在地
安徽省宣城市水陽鎮双豊村(総管廟敷地内) 承淵塔
解説
2005年12月に建造された。以前、当地には「龍渓塔」という丁奉関連の塔があったが、火事により消失したため、代わりに建てたと推測される。「承淵」とは言うまでもなく丁奉の字のことである。
現況
この塔があるという情報はなかったため、うれしい発見であった。現在に至るまで細々ではあるが、開発がおこなわれているのは彼が地元住民から慕われている証拠である。登れないのが少々残念。(06年9月)
交通
総管廟参照(敷地内)。
関連武将
丁奉


魯粛広場(魯粛像)
所在地
安徽省定遠県定城鎮
解説
魯粛は臨淮郡東城の人、即ち現在の定遠出身である。
地元の英雄を記念して2002年に「三国奇才」魯粛塑像が立てられた。塑像が立てられている広場の名前はもちろん「魯粛広場」である。
生まれてすぐ父を亡くした魯粛は祖母と住んでいたが、その祖母がなくなった時に曲阿から東城に戻り、この地に埋葬したという。この墓は魯粛本人のものとも言われているようだが…。
魯粛塑像
現況
街の北の入口に立っているので、蚌埠方面から定遠に入るとこの魯粛像が迎えてくれる。広場は小さいが人民の憩いの場になっており、街のシンボル的役割を十分に果たしている。像の台座には魯粛関連の故事がレリーフとして刻まれているので、ファンなら見逃すべからず!
肝心の魯粛祖母墓(魯粛墓)についてはほとんどの人民が知らなかった。唯一知っていた農民の話によると、魯粛像後ろのマンションの辺りにあったが、平らにされてしまったとのこと…。(07年6月)
魯粛塑像
交通
合蚌路と定滁路の交差点(長途汽車站から東へ数百m)から合蚌路を北上約1.5km。
備考 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:広場 / 見応え:“三国奇才”は街のシンボル
関連武将
魯粛


胭脂井
所在地
安徽省潜山県梅城鎮王湾村 胭脂井・文物保護単位碑
【文物保護単位碑】
胭脂井
【胭脂井】
解説
この地は喬公及び娘・二喬(大喬・小喬)の故郷。かつては皖と呼ばれていた地だ。(今では“皖”は安徽省の別称。)井戸の後ろには喬公宅があったとされる。
“胭脂”とは顔に塗る紅のこと。つまり二喬が化粧をした井戸。この井戸には様々な伝説が残されている。化粧紅が流れて井戸の水が赤くなったとか、孫策・孫権に結婚を迫られ、いやがり血の涙を流したので、井戸の水が赤くなったという言い伝えがある。ちなみにもちろん現在の水は赤くはない。
1986年10月全県重点文物保護単位に指定。
現況
三国志ゆかりの井戸は数多くあるが、碑が立てられしっかり保護されているのはさほど多くはない。井戸は深くはないが、一応水がたまっていた。地元民は“見ても面白くないぞ。”と言っていたが、映画「レッドクリフ」効果で大化けするか?
とにかくしっかり保護されているので、消滅の心配はない。(08年12月)
交通
合肥汽車站から潜山行きのバスが出ている。潜山汽車站からは舒州大道を数百m北上。孔雀の塑像があるロータリー(潜陽国際飯店)の一つ北側の道を東へ。数百m行くと川辺に出るので、そこを渡ると前方に住居がある。碑と井戸は住居の横にある。
備考
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:川辺 / 見応え:数ある三国志ゆかりの井戸では最高の見応え!
関連武将 大喬、小喬


左慈煉丹房
所在地
安徽省潜山県天柱山風景区内 「左慈煉丹房」碑
【「左慈煉丹房」碑】
左慈煉丹房
【左慈煉丹房】
解説
天柱山は多くの道家・方士が修練をした地。廬江出身の左慈は地元で修行をしたということである。
この煉丹房は左慈が薬を調合した場所。演義だけではなく、史書にも左慈の不思議な魔術的能力について記載があるが、方士として薬の調合をした地が残されていることは素直に信じていいのではないだろうか。
現況
さすがは左慈が修行をした地、山奥に湖が広がる神秘的な場所に左慈煉丹房はある。我々が訪れた際には霧が深く、恐ろしさすら感じた。
煉丹房がある天柱山は中国でも登り甲斐のある屈指の山。仙人修行にはもってこいの地といえる。(08年12月)
交通
潜山汽車站からバイタク等で天柱山大門まで(約10分)。大門からは天柱山風景区行きのバスが出ている。
備考
門票:あり / 塀:なし / 土産物屋:あり(風景区) / 推奨交通手段:山登り / 地形:山 / 見応え:見学ついでに仙人修行を!
関連武将 左慈


陳武墓
所在地
安徽省宿松県陳漢郷三合村(釣魚台月山橋頭) 陳武墓・文物保護単位
【文物保護単位碑】
陳武墓全景
【陳武墓全景】
解説
215年合肥の戦いで戦死した陳武は、故郷のこの地に葬られた。(陳武は盧江郡松滋の人。)陳漢一帯は陳姓の人が今でも多く、陳氏代々の墓にもなっている。
2002年11月13日に第四批県級文物保護単位に指定。尚、碑には陳武墓ではなく陳漢墓と刻まれている。(陳漢は明代の人物でこの地に居住していた為、地名となって残された。)
現況
碑が陳武墓と刻まれていないのは非常に残念だが、地元民には陳武墓として知られている。我々は陳漢に行く乗り合いミニワゴン(面的)の運転手に聞き込み、知り合いの恐らく“陳さん”に電話をしてくれて詳細住所を知ることができた。但し、墓がある村に辿り着くまではほぼ100%の人民がその存在を知らなかった。
清代の一族墓碑もそばにあり、一族合葬墓になっている。墓の規模はかなり大きい。(08年12月)
交通
宿松北站から陳漢行きのミニワゴン(面的)が出ている。下車後、月山橋頭まではダム沿いに歩いて約5km。月山橋頭到着後、前方左に分かれる小道を数百m進み、右手の開けた場所へ下りると到着。(小山の下。)
備考
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:面的、徒歩 / 地形:山麓 / 見応え:碑の文字を陳武墓へ変えよう!
関連武将 陳武

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