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四川省成都市内 | |
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元々は劉備の墓。武侯祠は通称らしいが、孔明人気のため武侯祠として世に知られ、劉備は影が薄い。 | |
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こここそまさに三国志の総本山!!孔明の殿に続く廊下には文官、武官の塑像が並んでいる。最近新しく劉備三兄弟関連の建物が増設された。規模、内容、知名度、そして土産物の品揃えにいたるまで全てが超絶級。入場料は30元。(1997年2月) | |
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成都市内で有名なので簡単に行けるはず。1路などのバス停「武侯祠」下車。 | |
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諸葛亮、劉備 |
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四川省成都市武侯祠内 | |
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まぎれもなく、我らがヒーロー劉玄徳の墓。劉備と共に甘皇后・穆皇后も合葬されている。唐・宋・元・明・清の各時代に手厚い保護をうけ今に至る。昔と比べ、多少塚の高さなど規模は小さくなったが、今でも立派な墓であることに変わりはない。 | |
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魏・呉・蜀の君主の中で最も立派な墓である。つまり三国一の墓の持ち主、劉玄徳なのだ!でも諸葛亮の方が有名になり、人民にも『武侯祠』として定着してしまったのは、自然の流れとはいえ残念…。(1997年2月) | |
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成都武侯祠内 | |
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劉備 |
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四川省成都市金牛区菅門口郷黄忠村 | |
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清の時代に建てられたもので、元々は墓と祠があり、祠内には黄忠の像があったという。ここら辺一帯は今も黄忠村と呼ばれているだけあって黄忠との関わりは確実にあった地だといえるだろう。(黄忠幼稚園なんてのもあった。) | |
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実はこの黄忠祠は、97年2月に一度トライして失敗している。あの時はジモティ運ちゃんを同行させ、はっきり言って完璧であったはずなのに…。衝撃の事実を知ったのは失敗直後。なんと黄忠祠は文革時に破壊され今はないというではないか!あきらめきれずに情報収集をした結果、遺址として残っていることが判明。歩き回って聞き込みをし、「文革時代に自ら黄忠祠をぶっ壊したんじゃないの?」と思わせるおばちゃんの案内で無事到着。しかし廃屋と化した黄忠祠内に、当時を思わせるものが一切なかったのが残念。(2000年3月) | |
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44路バス終点「黄忠小区」下車。後は人に聞くしかない。場所を知っていればバス停から5分ほどで行ける距離。 | |
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黄忠 |
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四川省眉山市彭山県牧馬郷蓮花村 | 【皇墳石碑】 【劉備墓】 |
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「蓮花ba皇墓」又は「皇墳」として以前より認定されていた遺跡。近年になって劉備墓ではないか?との議論が巻き起こり、一躍表舞台に登場するに至る。 正史では“劉備の遺体は成都に戻され恵陵に葬られた。”とあるものの、恵陵は劉備の衣冠塚という見方もある。 |
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村人に言わせると“まだ開放されてないのに、行ってどうするんだい?”とのことだが、「蓮花ba皇墓」と「皇墳」の石碑が立てられている。「劉備墓」としての整備はこれからだが、鎮をまたいだ黄龍渓の村人もほぼ全員「劉備墓」を知っており、彼の偉大さと注目度には敬服させられた。 黄龍渓古鎮の古龍寺には劉備像が祀られていたらしく、(確認しに行ったが今はただの仏像)四川での劉備人気は圧倒的である。(05年2月) |
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成都(新南門)→黄龍渓のバスに乗り、黄龍渓古鎮手前約5km(「劉備墓」の看板がある場所)で下車後右折。3kmほど突き進めば到着。古鎮から徒歩だと所要1時間以上。 | ||||
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩orボリタク / 地形:小山 / 見応え:号泣 | ||||
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劉備 |
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四川省綿陽市内西山上 | |
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蒋琬は諸葛亮の後をうけ、魏征伐に備え現在の綿陽に駐留していたが、246年に病に倒れこの地に葬られた。現在の墓は1849年に修建されたものであるが、本物の墓である。(何度も盗掘にあっているらしいが…)“漢大司馬蒋恭侯墓”の碑が建てられている。 | |
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地元では有名な観光名所「子雲亭」と同じ敷地内にある。敷地規模はそれほど大きくないが、かなり立派な墓だ。一見「龐統墓」の形状に似ており、八角形の墓はセンスがいい。西山の後ろから入場した我々は蒋琬墓も後ろから拝み、感動が半減…。(2001年8月) | |
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綿陽市内では有名なので簡単に行けるはず。火車站からみて北北東に位置する。(徒歩約30分)西山(子雲亭)敷地内。 | |
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蒋琬 |
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四川省綿陽市内西山上 | |
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“恭侯”は蒋琬の死後の謚。この祠は墓と1セットと言ってよいだろう。近年修復された建物はシンプルだが、なかなか立派である。 | |
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祠は通常故人を奉るものであって、像があったり、壇があったりするが、この蒋恭侯祠の中は何もない。門も閉ざされ、中に入れないし。これじゃ、祠の趣も雰囲気もあったもんじゃないな…。(2001年8月) | |
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蒋琬墓の東隣。 | |
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蒋琬 |
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四川省綿陽市内西山上 | |
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蒋恭侯祠の前に建つ蒋琬の像。近年つくられた。 | |
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なかなか渋い蒋琬の像。諸葛亮の後継者にしては特徴がなく、彼のイメージは確立されていない。そんな中、この像の出来は素晴らしい。これこそ蒋琬なのだ、と思ってしまった。(2001年8月) | |
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蒋恭侯祠前 | |
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蒋琬 |
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四川省綿陽市内西山上 | |
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かつて姜維、蒋琬、諸葛瞻が駐屯した場所。蒋琬は死の直前に漢中から交通・軍事の要所であるフ(綿陽)に引き返し駐留していた。諸葛瞻もケ艾を綿竹で迎え撃つ前にこの地で駐屯している。地形からみても軍を駐留させるのに絶好の場所であったのだろう。 ちなみに“営盤”とは「兵営」、“嘴”は「張り出した地形」のこと。 |
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子雲亭の敷地内端にぽつんと碑が立っているのみ。由来など全く知らないと、100%通過してしまうだろう。(2001年8月) | |
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子雲亭敷地内 | |
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姜維、蒋琬、諸葛瞻 |
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四川省綿陽市城東4km | |
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劉備が入蜀した時に、益州の牧劉璋が宴を開き迎えた場所。劉備はこの地の富を感じ、楽しきこと限りなしと嘆じたことから「富楽山」と名付けられた。 | |
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今では富楽山風景区としてとても有名な観光地となっており、地元境内には富楽堂、フ城会館等三国志関連の遺跡がたくさんある。(2001年8月) | |
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綿陽市の東側に位置し、(市内地図にも載っている範囲)かなりの気合があれば、市の中心から徒歩でも行ける。火車站からは3路のバスですぐ近くまで行ける。 | |
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劉備、劉璋 |
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四川省綿陽市城東4km | |
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富楽山風景区のシンボル的建造物。五層からなるいわゆる五重塔だ。 | |
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塔の上からは今日も発展中の綿陽の街並みを一望できる。塔内では三国志関連の土産物も売っている。また三国演技の名場面を人形で再現した展示物も見ることができる。(2001年8月) | |
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富楽山風景区内 | |
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劉備、劉璋 |
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四川省綿陽市城東4km | |
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第二の“鴻門の会”=“フ城の会”の舞台。劉備をもてなした劉璋であったが、この宴は二人の君主の知らぬ内に一触即発の展開を迎える。 | |
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館内にはフ城の会を再現した人形が並べられている。説明書きがあるが、劉備軍と劉璋軍の位置関係が逆になっているので、自分の目で確かめよう!(2001年8月) | |
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富楽山風景区内 | |
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劉備、劉璋 |
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四川省綿陽市城東4km | |
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近年作られた蜀・五虎将の塑像。富楽山風景区はいわば三国志テーマパーク化しており、作られるべきして作られたと言っていいだろう。 | |
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左から黄忠、趙雲、関羽、張飛、馬超と並ぶ。当陽のブラック趙雲像、宜昌の張飛像に迫るカッコよさ!特にここまで完成度の高い黄忠の像は珍しいのではないだろうか。(2001年8月) | |
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富楽山風景区内 | |
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関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲 |
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四川省綿陽市城東4km | |
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富楽山風景区内にある劉備(左)と龐統(右)の塑像。軍師が主君に献策する姿を像にしている。 | |
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主君と軍師ときたらまず浮かぶのが、劉備と諸葛亮。ではなぜ龐統なのか?それはもちろんここで開かれたフ城の会に龐統が参列していたからだ。ちなみに私が最もお気に入りの主君&軍師のコンビは曹操と郭嘉。(2001年8月) | |
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富楽山風景区内 | |
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劉備、龐統 |
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四川省綿陽市城東4km | |
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闕とは墓前に建てられる石碑でつくった門のようなもの。遺跡名だけでこれが李福墓とわかる人はまずいないだろう。李福は生前平陽亭侯に封ぜられている。 | |
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漢平陽府君って誰?李福って誰?彼こそは大軍師諸葛亮より死後の後継者(蒋エン・費イ)を聞き出した男なのだ!五丈原諸葛亮廟にも彼の画が飾られている。 闕自体は現在敷地内を工事中で見ることはできなかった。写真の建物は建築中の綿陽博物館。(2001年8月) |
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富楽山風景区北 | |
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李福 |
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四川省綿陽市城東4km | |
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富楽山風景区の入り口に、近年建てられた劉備・関羽・張飛のブラック像。「桃園の誓い」を像にしている。 | |
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さすがは三国志テーマパーク化が進む富楽山。三兄弟の像が我々を迎えてくれる。でも関羽って四川とは関係ないんだよね。(2001年8月) | |
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富楽山風景区入り口 | |
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劉備、関羽、張飛 |
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四川省梓潼県七曲山南 | |
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四川省では有名な七曲山大廟内にある関帝廟。大廟の前身は唐代に建てられた晋の張亜子=文昌帝をまつる文昌宮。張亜子は関羽と同じように後世神格化された人物であり、晩年この地に定住して住民の病を治したという。 ちなみにここの関帝廟は世界で唯一顔が金色の関羽像が御神体。本来顔が赤いはずの関羽がなぜ?それは、文昌帝にあわせたから。ちなみに香港の文武廟も関羽と文昌帝のコンビ。関羽は他にも孔子や岳飛とコンビを組むけど、これって最強!? |
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七曲山は関帝廟よりも大廟そのものが見所。坂に建てられた廟のロケーションが好!ここは張飛柏で有名な翠雲廊の入り口でもある。(2001年8月) | |
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梓潼の市街地から1路のバスで終点下車。ちなみに1路の始発は李厳故居があるとされる付近。 | |
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関羽 |
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四川省梓潼県七曲山〜剣閣、ロウ中 | |
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梓潼・七曲山から剣閣、ロウ中に至るまでの道を“翠雲廊”と言う。現在の川陝公路と古蜀道の両側に、張飛が柏を植えて道としたと言われている。 中でも演武にある巨大な“張飛柏”は有名で、4人でやっと抱えることができるほど。 |
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写真は七曲山にある翠雲廊の入り口。張飛柏は梓潼から剣閣まで延びる川陝公路の途中にある。 翠雲廊が一つの地点を指すのではなく、道であることを理解してはじめてなるほどと思える。(2001年8月) |
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七曲山大廟隣 | |
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張飛 |
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四川省平武県南ba鎮 | 【江油関】 【ケ艾、江油関侵攻図】 |
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江油関は1つの河(フ水)と3つの山(牛心山、鳳翹山など)に囲まれた古陽平道上の天然要塞。四川と甘粛をつなぐのどもとと言うべき地。 諸葛亮が古陽平道の守備の為、この地に守備隊を派遣しており、まさに蜀漢最後の砦であった。 しかし、命がけで摩天嶺の断崖を越えたケ艾軍わずか2,000の侵攻を受け、守将・馬バクは戦わずして降参。妻・李氏のみ降らず、首をつって自害。ケ艾は彼女を手厚く葬ったという。 江油関が落ちてから、郤正の進言により諸葛瞻が起用されたが、後の祭りであった。 |
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修復された関と道路を挟んで“江油関”を示す石碑がある。関の壁にはケ艾の侵攻と李氏が自殺する様子が描かれている。 大々的な三国志旅遊点にする為、平武県南ba鎮が大型投資することを決めたようだが、(計画頓挫中?それともこれで完了?)正直現状ではこれ以上の拡張は望めそうもない。(05年2月) |
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江油→平武のバスに乗り、南ba鎮下車。南ba鎮から江油方面にちょっと戻った所にある。徒歩数分。 | ||
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:山間道 / 見応え:ちょっと寂しい… | ||
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ケ艾、馬バク、李氏 |
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四川省徳陽市郊外羅江鹿頭山 | |
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蜀の軍師・龐統の廟。龐統はこの付近で流れ矢に当たり戦死した。 | |
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龐統祠がある。中は広く公園のようにもなっている。正殿には龐統の像があり、その裏手が墓となっている。碑がたくさんあるコーナーも。(97年2月) | |
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徳陽からタクシー利用。途中道が悪くなり、下車。輪タクころがしの兄ちゃんに案内され、道なき道を行く。とにかく付近の住民に聞き込みが大切。 | |
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龐統 |
馬岱墓碑 | ||
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四川省広漢市向陽鎮陳列室 | |
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かつて向陽鎮の筲箕坡に馬岱墓があった。それは素晴らしい塚・碑・八角亭があるパーフェクトな姿であったという。惜しくも大開墾政策により破壊されたのが1959年。当時の人民にとっては墓より作物…、惜しむべき遺跡がまた一つ消えたのであった。 |
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現在陳列室で拝める墓碑は、光緒三十二年の碑を向陽鎮人民政府が1997年に復元したもの(と思われる)。碑には「漢平北将軍陳昌侯馬公諱岱之墓」と刻まれている。 墓碑は陳列室の入り口外に置かれているのですぐに確認できるが、春節時に訪れた為陳列室の敷地の門を管理人が閉めようとしているところであった。(05年2月) |
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陳列室は向陽鎮の中心近くにある。広漢→向陽のバスが出ているがあまり多くはない。国道108号沿いにあるので、向陽を通過するバスに乗り、途中下車するのがベスト。 | |
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門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:国道より徒歩 / 地形:陳列室 / 見応え:碑のみだが渋い |
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関連武将 | 馬岱 |
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四川省剣閣県北廟郷孤玉山下 | |
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ケ艾は蜀に侵攻し成都を陥落させた後、蜀で自立を計った鐘会の策により息子ケ忠と共に捕まり、洛陽に送られる途中殺された。ケ艾の部下達は殺された主君の遺体を洛陽に運ぼうとしたが、力尽きこの地に埋葬した。文革時には人民によって墓は掘りかえされ、父子ともに棺桶が発見されている。 | |
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弧玉山の麓、小さな池の前に魏の名将ケ艾の墓はある。かつてあったとされる“魏大将軍ケ艾之墓”という碑はなく(もしくは倒れていたのか?)、シンプルな“ケ艾墓”という碑を残すのみ。敵地で、しかも殺されたとあって、他の墓とは明らかに形態が異なる。塚はなく、山に埋め込まれた形だ。現在でもケ艾・ケ忠父子の棺桶が入っていた穴を碑の後方に見ることができる。(2001年8月) | |
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剣閣長距離バスターミナルの南隣に近距離バスターミナルがある。そこから2時間に1本(あくまでも推測)は北廟行きのバスが出ている。県内のボリタクは遠いためか、道が悪いためか行ってくれない。到着後左手に見える山を登り、墓は山中の北廟小学校の裏手にある。ちなみに剣閣から北廟まで約9Kmなので、気合があれば徒歩でも可能か。但し道はかなり悪いので要注意。 | |
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ケ艾 |
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四川省剣閣県北廟郷孤玉山下 | |
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“彰順王”とはすなわちケ艾のこと。五代前蜀の王建(成都に墓がある)によって追封された謚である。ケ艾が葬られたこの地に廟が建てられたのは当然のことであるが…。 | |
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残念なことに彰順王廟は文革時代に破壊された。ケ艾は以前の中国では神として崇められており廟もいくつかあったという。但し神は神でも疫病神。まぁ、文革で真っ先に狙われるのも無理はない。かつては廟内にケ艾・ケ忠父子の塑像があったというが、現在は完全な廃墟と化していた。成都黄忠廟と同じ運命を辿ったが、文革以前は素晴らしい廟であったらしい面影のみを見ることができる。(2001年8月) | |
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ケ艾墓の表側。北廟小学校内 | |
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ケ艾 |
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四川省剣閣県剣門関 | |
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蜀将姜維がかつて魏将鐘会と蜀滅亡まで戦った剣閣に、後世の人々が記念として衣冠塚として建立した。この地には姜維関連の遺跡が多数あったが、今ではほとんどが破壊されてしまった。かつては姜維祠もあり、中には姜維像が安置されていたそうだ。碑には「漢大将軍姜維之墓」とあるが、姜維は成都で死んでおり、やはり衣冠塚というのが正しいのである。 | |
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ここは絶対落とせないと思えるほどの絶壁・剣門関の傍にある。ちなみに後ろにもう一つ碑があるが、共産党関連のもの。期待したのに…。国道の傍にあると看板にも出ているが、草むらに隠れており、探すのに多少苦労した。以前あったという他の姜維関連遺跡を捜索中、地元のカップル&牛くんのデート現場に遭遇。お邪魔な私はその時点で捜索終了。おなじみ中国製使い捨てカメラ「ガラクタ」で撮った最後の一枚は、ちょうど碑の部分で切れてしまった。1年半後、再度チャレンジした時は体調不良のため断念…、そして遂に三度目の正直で2001年8月に悲願達成。(98年8月) | |
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広元から剣閣行きのバスに乗り、剣門関で途中下車。ものすごいグネグネ道で地元の女の子が車内で吐いていた。剣門関を通り過ぎて坂を下ったところにある。 | |
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姜維 |
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四川省剣閣県剣門関 | |
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蜀の姜維が立てこもり、魏の鐘会の進撃を食い止めた天然の要塞。姜維は最後まで鐘会の攻撃を防ぎきったが、別ルートを選択したケ艾によって蜀は滅ぼされた。 清代まで修築が繰り返されたが、川陝公路の補修によって姜維廟等の遺跡は破壊された。 中国共産党もここを越えている。 |
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鐘会ではなく曹操が大軍を従えて来ても、剣門関を守る姜維は敗れなかったと思える程の天然要塞。今ではケーブルカー等もあり、素晴らしい景観を堪能できる。三国遺跡を越えて有名な観光地となっている。 ここの名物は剣門豆腐と地元民でも車酔いするほどの中国版いろは坂。(1998年8月) |
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広元から剣閣行きのバスに乗り、剣門関で途中下車。広元と剣閣の中間に位置する。 | |
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姜維、鐘会 |
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四川省剣閣県剣門関 | |
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昔の剣門関を復元した関の中に姜維の像が置かれている。人民が言うには、脇を固めるのは王平と廖化なのだそうだ。 | |
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一見、五丈原三国城の恐怖人形を連想させるつくりだが、実は出来がいい。像が安置されている場所は薄暗く、これまた五丈原三国城(別名:恐怖城)と同じではないか!(1998年8月) | |
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広元から剣閣行きのバスに乗り、剣門関で途中下車。広元と剣閣の中間に位置する。 | |
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姜維、王平、廖化 |
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四川省広元市昭化古城牛頭山東北麓 | |
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すなわち今の昭化古城。昭化は四川で最も早く県が置かれた地であり、秦代に葭萌県が置かれ蜀漢時には漢寿と改称された。蜀の喉元であるこの地に、かつて(213年)劉備も駐屯している。(劉備は213年、蜀攻略を開始)演義では張飛・馬超の一騎打ちの戦場として有名だ。 | |
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この地には三国遺跡が数多くあり、有名な場所であるが、交通の便はかなり悪い。昭化自体それなりの街と思いきや、川陝公路からそれているのが痛い。川陝公路沿いの街「宝輪」からはボリタク利用となるが、道は悪く雨が降ってるとさらに痛い。 “悪い”“痛い”を乗り越えると、そこには静寂に包まれた三国志の街がある。(2001年8月) |
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昭化古城は広元と剣門関の中間に位置する宝輪より南東に約15km。(宝輪の市街地北側よりボリタクで約20分) | |
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劉備、張飛、馬超 |
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四川省広元市昭化古城牛頭山東北麓 | |
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すなわち葭萌関のこと。 | |
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写真は古城の門。この門が現在の昭化のシンボル的存在であり、門をくぐれば古い街並みが広がる。(2001年8月) | |
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昭化古城は広元と剣門関の中間に位置する宝輪より南東に約15km。 | |
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劉備、張飛、馬超 |
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四川省広元市昭化古城西門外 | |
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魏の降将・郭循に宴会中に刺し殺された費イの墓がこの地にある。清代には費公祠もあったという。墓前の碑は光緒33年(1907年)昭化県知事によって建てられた。 | |
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とても小さな街、昭化にあるこの墓はとてもみすぼらしく、倒れたままの碑もちらほら。(1857年の洪水で壊れた武侯祠を記念した碑もこの中にあるかも。)塚もくずれ今となっては墓らしくない。諸葛亮・蒋エンの後継者は、死後も先人に及ばないのか…。(2001年8月) | |
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昭化古城は広元と剣門関の中間に位置する宝輪より南東に約15km。(宝輪の市街地北側よりボリタクで約20分)費イ墓は昭化古城西門を出て約50m。 | |
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費イ |
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四川省広元市昭化古城西門外荀家坪 | |
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張飛・馬超の一騎打ちの戦場。二人の戦いはなかなか決着がつかず、張飛がたいまつを燃やし夜戦に持ち込む。結局両者決定打なく勝負は引き分け。 | |
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張飛対馬超の一騎打ちの場所に今も碑が残っている。碑の後ろは現代的な普通の民家。このままでは碑がなくなってしまうのではないかと、少し心配。(2001年8月) | |
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昭化古城西門を出て費イ墓を通過しまっすぐ行くと到着。(約2km) | |
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張飛、馬超 |
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四川省広元市昭化区曲回郷鴨浮村 | |
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鮑三娘は伝説の武将・関索(関羽の息子)の妻と言われており、死後この地に葬られた。1914年にフランス人によって発掘調査が行われ、漢代の絵などが発見された。 | |
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関索も伝説なら、その妻鮑三娘ももちろん伝説か?まぁ、確実にいない人(周倉・貂蝉)の墓があるんだから、驚きはないけど。 (2001年8月) | |
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宝輪と昭化古城の中間に位置する。(宝輪⇔昭化古城をつなぐ道沿いにある。)昭化古城からは約7km。我々は墓から宝輪まで歩いたが、ボリタク利用が便利か。 | |
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鮑三娘 |
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四川省広元市朝天鎮南2km | 【蜀古桟道】 【明月峡】 |
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明月峡、朝天峡といわゆる険しい峡谷なのだが、有名な「蜀の桟道」と説明するとわかりやすい。 諸葛亮の北伐時にはこの桟道を整備して出撃・補給路として活用した。また安史の乱にも登場し、杜甫・李白・陸遊らの詩人が数々の詩を残している。 |
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誰もが思い描く桟道が眼前に広がる。峡谷の崖に組まれた桟道は圧巻。たとえ近年復元されたものだとしてもだ。(当時の桟道の跡としては崖にうがった穴が今でも残されている。) その完成度の高さは、かの中国中央電視台「三国演義」のドラマで使われたことが証明している。 「老虎口」と言って、車が通る道も崖を削ってつくられている。こちらもお見逃しなく。(05年2月) |
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広元(火車站から南方、橋を渡ってすぐのバス停)から朝天行きのバスに乗り途中下車。 | ||
備考 | 門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:峡谷 / 見応え:素晴らしい景観! | ||
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諸葛亮 |
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四川省ロウ中市 | |
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ロウ中市内に最近立てられた巨大張飛像。 | |
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張飛の街・ロウ中のシンボル的存在。運城の関羽か、当陽の趙雲か、それともここロウ中の張飛か。(05年2月) | |
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ロウ中長距離バス停より南数百メートルのロータリー。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バスターミナルよりダッシュ / 地形:平地 / 見応え:満足 |
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関連武将 | 張飛 |
漢張桓侯祠 | ||
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四川省ロウ中市西街 | |
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ロウ中は巴西太守・張飛が拠点としていた地。“桓侯”は張飛の謚。関羽の弔い合戦へ参加する途中、范彊・張達に殺害された張飛。胴体がこの地に埋葬され廟が建てられた。ちなみに首は雲陽に葬られたとされ、ロウ中・雲陽は張飛の聖地となっている。 元々の廟は火災に遭い、現存する廟は明清代に幾度も修建されたもの。大殿の張飛像は清の時代に桓侯大帝に追封された皇帝バージョン。蛇矛の展示もあり、関公の関林にタメをはっている。「全国重点文物保護単位」 |
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春節に行った為か、ものすごい人だかりで、成都武侯祠よりも観光客が多かった。これも張飛の人気がなせる技。 祠横にはかの有名な“張飛牛肉”の専門店がある。張飛ファンならずとも欲しい(食らいたい)一品。(05年2月) |
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ロウ中市内(西街)にあり、バスターミナルからダッシュで15分で到着。 | |
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門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:バスターミナルよりダッシュ /地形:平地 / 見応え:張飛ファンの聖地 | |
関連武将 | 張飛 |
張飛墓 | ||
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四川省ロウ中市西街 | |
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范彊・張達により無念の死を遂げた張飛の胴が埋葬されている。漢桓侯祠の境内、一番奥にあり整備度は抜群。墓前には墓碑ではなく墓亭と張飛像が立てられており、他武将の墓とは一味違うつくりになっている。 | |
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墓亭と張飛像は素晴らしいのだが、墓らしさの象徴である墓碑がないのが残念…。さらには墓亭がある為、墓を前から見ることができずきれいな形の墓塚を写真におさめることは困難。 まぁ、素晴らしい墓であることに間違いはなく、張飛ファンならずとも訪れたい地だ。(05年2月) |
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ロウ中市内(西街)にあり、バスターミナルからダッシュで15分で到着。漢桓侯祠内。 | |
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門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:バスターミナルよりダッシュ /地形:平地 / 見応え:墓碑なくとも墓亭あり! | |
関連武将 | 張飛 |
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四川省大邑県内東1km | |
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本来、錦屏山麓の地に趙雲の墓はあった。清代に修建され、今に伝わるが…。やはりというべきか、文革の影響で墓前にあった子龍廟もろとも墓は破壊された。 | |
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子龍墓に関してはあまり調査せずに向かったため、惜しいところで廃屋と化した廟内に入ることはできなかった。学校の敷地内にあるため、簡単に入ることはできない。近くに子龍祠があることを学校の門番に聞かされ、目的地を変更してしまったのが敗因。(2000年3月) | |
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成都からバスで大邑まで。街の東側の錦屏山山麓に位置する。学校の敷地内。 | |
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趙雲 |
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四川省大邑県静恵山公園内 | |
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同じ大邑にある子龍廟・子龍墓が実際に趙雲が葬られていた場所。ここ静恵山は趙雲が兵を駐屯させていた地である。この辺一帯には趙雲に由来する遺跡が数多く見られる。 | |
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子龍祠には白髪の趙雲像がまつられており、写真のように祠を守るじっちゃん人民つきだ。この写真を撮った後に、このじっちゃんに何やら金払えだとか言われた気がするが、まぁ気のせいということにして帰ってきた。それにしてもほとんど情報を持たずに子龍祠捜索をしたのだが、なまりが強い四川の地でこういうことはやめたほうがいいかも。(2000年3月) | |
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成都からバスで大邑まで。街の北に位置する静恵山公園までは徒歩で十分に行ける距離。 | |
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趙雲 |
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四川省大邑県静恵山公園内 | |
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趙雲は晩年この地に駐屯し、敵を防ぐために土城を築いた。静恵山公園は山に続いており、土城を造るのには適当な場所と言える。 | |
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現在ある"台"は当然修繕したもの。趙雲がここに大掛かりな城を建てたというより、この地にたてこもったということなのだろう。ちなみに趙雲は病死後、隣の錦屏山麓に埋葬されている。こっちも山なのに…。(2000年3月) | |
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成都からバスで大邑まで。街の北に位置する静恵山公園までは徒歩で十分に行ける距離。趙雲祠の横に位置する。 | |
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趙雲 |
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四川省大邑県子龍廟側 | |
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子龍廟(子龍祠ではない。)から南方にのびる道。もちろん趙雲から名前をつけた道である。 | |
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まぁ、普通の道。ただ、『子龍街』という標識が誇らしげに掲げられている。(2000年3月) | |
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成都からのバスが到着するターミナルから北方約1kmの所に子龍廟はある。 | |
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趙雲 |
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四川省成都市区南 | |
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又の名を"万里橋"といい、戦国時代には"長星橋"と呼ばれていた。諸葛亮が費イを呉に遣わした時に、ここで宴会を開き見送ったという。費イは"万里の路はこの橋より始まる"と詠んだ。 | |
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まぁ、普通の橋。1996年に再建される前の橋は清代(1711年)のもの。(2000年3月) | |
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成都随一のホテル錦江ホテルよりまっすぐ南に歩いて約5分で到着。 | |
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諸葛亮、費イ |
王平墓(白塔公園) | ||
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四川省南充市高坪区西鶴鳴山上白塔公園内 | |
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北宋の建隆年間に建てられた歴史ある白塔。この白塔公園内にある王平墓は、永安郷鳳凰山から移設されて近年作られたと思われる。(鳳凰山の王平墓も現存) ちなみに王平の故郷は南充から約100km東の渠県。 |
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諸葛亮の北伐を支えた名将王平。彼の墓を南充の街中で拝めるのは非常にありがたい。墓の形・規模とも申し分なく南充では有名な公園内にあるので、破壊される心配もない。 但し移設された由来や王平に関する説明を記した碑が一切なく、人民にイマイチ溶け込んでいないのが気になるところ。(05年2月) |
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南充市内中心から東に延びる嘉陵江大橋を渡ってすぐ。火車站から直通バスあり。 | |
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門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス /地形:公園(丘) / 見応え:王平ファンの旅はこの地より始まる! | |
関連武将 | 王平 |
王平墓(永安) | ||
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四川省南充市高坪区永安鎮臨江村鳳凰山 | |
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白塔公園内の王平墓は由来がイマイチわからないが、こちら永安郷の王平墓は古い書物にも登場する。清の光緒年間に立てられた碑は1959年の道路工事で破壊されたらしいが、現在は塚も碑もしっかり保護されている。(墓碑は1981年立。南充市文物保護単位。) | |
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まずは公路沿いに立てられた碑が我々を出迎えてくれる。破壊されたと聞いていたのでこの状態はある意味納得であったのだが、地元おばあちゃん人民のゼスチャー誘導により、山の中の塚つき王平墓も拝むことができた。(05年2月) | |
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高坪区の長距離バス停より青居鎮方面のバスに乗り込む。永安鎮を通過して、山側(左)への上りと右側の下りの二股に分かれる地点で下車。そこから少し戻ると山側公路沿いに墓碑が見える。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス /地形:山麓 / 見応え:うれしさのあまり白塔公園からダッシュ到達もあり? | |
関連武将 | 王平 |
芦山姜維墓 | ||
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四川省芦山県龍尾山 | |
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“姜維は死後腹を割かれ、胆の大きさ一升ますほどの大きさがあった。”と正史に記述がある。伝説では姜維の死後、彼の部下がこの胆を成都からかつての駐屯地・芦山に持ち帰り埋葬したとされる。そこで姜維の「胆墓」とも言われている。 碑は計3つ。「漢大将軍平襄侯姜諱維墓」、「漢大将軍姜侯伯約之墓」(ともに清代)、「姜維墓」(1985年立)。芦山県文物保護単位に指定されている。 |
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大きい塚に碑が3つ。写真では伝わりにくいがかなり巨大な墓である。胆一つにこの巨大さとはさすがに姜維と言うべきか。(06年5月) | |
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芦山長距離バスターミナルから橋を渡り右折。(姜慶楼はここで左折)少し進むと道の右手側に畑と小高い山が見える。(道から右に少しはずれないと見えにくい。実はバスターミナル付近からもこの山は確認できる。)姜維墓はこの山頂の施設内にある。番犬に注意。道を知っていればバスターミナルよりダッシュ5分の距離。 | |
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門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 /地形:山 / 見応え:「斗胆到芦陽」伝説をここに確認! | |
関連武将 | 姜維 |
芦山姜維像 | ||
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四川省芦山県内 | |
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05年5月に新たにつくられた姜維像。姜維はここ芦山に築城・駐屯しており、地元の英雄である。姜維像の後ろには姜城を模した建物も建てられており、芦山ならではの姜維像になっている。 | |
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芦山名物“姜維マントウ”が彼が本当に地元に愛されていることを示している。この像は県の中心にあり、芦山の新しいシンボル的存在としてふさわしい。近くには姜維路もある。(06年5月) | |
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芦山長距離バスターミナルからみて南に位置する。大通り上にあるのですぐ分かる。(バスターミナルから橋とは逆方向に進み、右折後徒歩約10分。) | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 /地形:広場 / 見応え:姜城から眺める後ろ姿が凛々しい | |
関連武将 | 姜維 |
厳顔墓碑 | ||
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四川省巴中市 | |
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巴中(当時は巴西)は厳顔の領地。この地にはかつて墓と廟があったが、今では墓碑が残るのみ。 | |
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将軍賓館隣のトイレに碑が裏返しに立てられている。付近は工事中で下から数mの高所に上らないと碑が確認できない。工事終了とともに碑が撤去されてしまう可能性が高い。(最新情報を求む!)(07年5月) | |
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街の中心・巴人広場から南下し巴州大橋を渡ると浜河路のすぐ南に地図上では“厳公廟街”と記された道があるので左折(東進)。数百m進むと西城街に入り、将軍賓館の横に碑が放置されている。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 /地形:工事現場 / 見応え:消滅させるか! | |
関連武将 | 厳顔 |
徐公亭 | |||
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四川省万源市馱山公園 | ||
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徐庶は万源の花萼山に隠居し、民の病を治し、“花萼老祖”と呼ばれていたという言い伝えがある。かつて花萼山上に徐庶祠があったが、1950年に破壊されてしまった。 現在の徐公亭は場所を移してつくられたもので、徐庶像も祀られている。 |
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徐庶は登場が鮮烈だったが、活躍した期間が極めて短く、その後の具体的記述があまりない。その為、隠居生活の伝説が各地に残る。 普通に考えると四川のこの地に徐庶が隠居したことには大いに疑問が残るが、徐庶はもはや仙人の域に達していたのではあるまいか? ちなみに徐公亭の徐庶像は仙人というより、仏様仕様になっている。(07年5月) |
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馱山公園内。万源は狭い街なのですぐにわかる。 | ||
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:山 / 見応え:仏バージョンの徐庶に願い事をしよう。 | ||
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徐庶 |
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重慶雲陽県飛鳳山麓 | |
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言い伝えによると、張飛の首がこの地に埋葬され廟が建てられた。(殺害された張飛の首は長江に投げ込まれたとされる。)これによれば廟の始まりは蜀漢末となるが、唐代とする資料もある。 | |
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長江沿いにあり、三峡下りのコース上にある。ダムの工事に伴って水没してしまうため、移転するという。そこそこの規模を誇り、張飛の一生をたどった人形の展示がある。(督郵を鞭打つ張飛像や三兄弟桃園の誓いバージョン等がある。)土産物では、大小の張飛人形が注目。(97年3月) | |
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三峡下りをした時に立ち寄った。重慶などから船で行くのがいいと思われる。 | |
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張飛 |
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重慶雲陽県盤石鎮龍安村 | |
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三峡ダム建設によって、長江の水位が上昇(2期工事で135mまで上昇。廟は一番低い所で130m)することに伴い、三国遺跡の至宝・張桓公廟が移転されることになった。(西上流約20kmの所に移転。) 旧廟は1700年以上もの歴史に幕を降ろし、02年10月8日に閉館。03年7月1日開館に向けて移転・改修作業が急ピッチで行われた。 歴史ある石刻等はそのまま切り取られて運ばれたが、有名な「江上風清」の額や、泥人形塑像等は新しいものに取り替えられてしまった。(昔の額は“文革”で壊されており、歴史的価値なしとして作りかえられた。) |
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中国発展の象徴である三峡ダム。このダム建設の裏には大きな犠牲があることを忘れてはいけない。多くの遺跡・自然、そして街さえ沈む。(雲陽・奉節に出現した三峡ならではの街“新県”にはいろんな意味で戸惑った。) が、実際に三峡ダムの工事現場を見たからというわけではないが、ここまできたら、“人民よ、頑張って完成させてくれい!”という思いが強い。 張飛廟はエジプトのアブシンベル神殿のように“そのままそっくり移転方式”を取ることができず、かなり作り直した部分があるようだ。(世界遺産のアブシンベルにはかなわないか…。)それでも殿の配置等は旧廟をそのまま再現している。 03年7月に開館したが、実は今だ工事中。拡張部分もあるようなのでこれからが楽しみ。(03年10月) |
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雲陽(新県)の船着場から廟まで2元の船渡しが出ている。 | |
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張飛 |
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重慶市奉節県城東、長江北岸白帝城山上 | 【白帝廟門】 【托孤堂】 |
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夷陵の戦いに敗れた劉備がここに逃げ込んだ。劉備は敗戦のショックから病にかかり、そのまま成都に戻ることなく白帝城で病没した。(劉備が諸葛亮に後事を托す場面は托孤堂で再現されている。) 白帝とは前漢の公孫述のこと。この地で王を自称し、後に公孫述祠が建てられた。 劉備・諸葛亮が祀られ始めたのは、明の嘉靖年間のこと。清代には白帝廟と改称されている。 |
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非常に有名な観光名所として、多くの客でにぎわっている。劉備、諸葛亮、関羽、張飛を祭った明良殿や托孤堂、孔明が星をみた観星亭、碑林や庭園などがある。土産はそこそこ。(サル甘寧/98年7月) 三国遺跡三大聖地にして、劉備関連遺跡の三大聖地でもある。劉備ファンは必ず行くべしだが、普通の観光地としても見所満載。三峡の入り口にあたる為、山上からの長江の眺めは抜群。ちなみに三峡ダム完成後は長江の水位が上昇し、白帝山は小島に変貌を遂げる。(わた/03年10月) |
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三峡下りの遊覧船で行くのが一番簡単な方法。奉節市内からは少し遠く、行くには町外れのバスターミナルへ行き「白帝城へ行きたい」といえば途中でおろしてくれる。こちらは結構しんどい。(サル/98年7月) 現在は三峡ダム建設に伴い奉節の街が新城に移されたので、多少アクセスが面倒になった。新城から直接徒歩で行こうとしたが、途中で断念。(17〜18km)旧(老)城からボリタクに乗るのがベスト。(わた/03年10月) |
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備考 | 門票:50元 / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:ボリタク / 地形:山城 / 見応え:超満足 | ||
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劉備、諸葛亮 |
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重慶市奉節 | |
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劉備がここで後事を託して死んだ所とされる。 | |
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学校の中にあり、校舎との怪しげな融合っぷりが見もの。お布施を入れるとしゅばっと水の出る小便小僧あり。八陣図という名前の庭園のようなものも。とにかくいかさまくさい・・…。(98年7月) | |
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三峡下りのツアーで行くことはできないので奉節で下船して向かう。船着場からはそんなに遠くない。師範学校の中。周囲の道が細い。 | |
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劉備 |
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重慶市博物館内 | |
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中国で唯一の髯なし関羽の像。中国でというより、世界でたった一つといっても過言ではない。「美髯公」と呼ばれる関羽に髯は必要不可欠だが、この像は清代に想像のみで造られたもの。それにしても関羽からまず連想するのが“髯”だというのに…。 | |
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「無髯公」の像は重慶市博物館の門外に置かれている。重慶市博物館は、主に兵器を中心に巴蜀文化の出土品が展示されている。(97年3月) | |
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2・5路バスに乗り「文化宮」下車。博物館は小さい山を登ったところにある。 | |
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関羽 |
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長江三峡巫峡 | |
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三峡の巫峡にいかにも不自然なくぼみがある。ここには諸葛亮が文字を刻んだといわれる碑がある。しかし現在では文字が確認できる状態ではない。 | |
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う〜ん、はっきり言って確認しづらい遺跡だ。三峡を下る船の上からなんとかカメラにおさめることができた。でもあんな危険な場所に孔明が本当に文字を書けたなら、彼こそ本当の化け物だ。(1997年3月) | |
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三峡下りの船から確認出来る。 | |
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諸葛亮 |
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重慶万州龍宝区甘寧郷 | |
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西陵太守甘寧は益州巴郡の人。今の万州甘寧郷がまさしく甘寧の故郷にあたる。 この像は青龍瀑布の観光開発に伴い、2002年12月に制作された。 |
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“亜州第一”を謳う青龍瀑布の敷地内にある。滝も見応えがあるが、三国志ファンにとってはそれ以上に甘寧像の存在が光る。 湖北の陽新甘寧像にひけをとらない完成度を誇り、地元の気合がうかがえる。但し、こちらは陽新と違って金をかけて滝とセットで観光地化を狙っている。 いずれにせよ、万州・陽新は甘寧二大聖地であることに異論はないだろう。(2003年10月) |
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万州近距離バスターミナルから青龍瀑布・甘寧郷行きのバスで到着。青龍瀑布内。 | |
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甘寧 |
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重慶万州龍宝区甘寧郷 | |
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現地の解説によると、夷陵の戦いで戦死した後に、故郷であるこの地に葬られたとある。しかし、夷陵の戦いでの戦死は演義の話であって、実際は病死しているわけで、現地解説は信憑性に欠ける。しかも当時ここ(巴郡)は蜀の領土であったわけで、普通に考えると呉の将軍が葬られるはずもない。 しかし、1800年経っても村の名前として“甘寧”が残っており、衣冠塚・塑像も造られたことに意義がある。彼の性格からは考えにくいが、実は人民に慕われている呉将ベスト3に入るのでは。 |
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像・墓とも新しいが、村の名前に“甘寧”が残っているだけあって甘寧故里としては以前から知られていたようだ。 墓の規模は陽新の墓より若干小さいが立派な墓碑が光る。碑には「西陵太守折衝将軍甘寧之墓」と刻まれている。(2003年10月) |
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万州近距離バスターミナルから青龍瀑布・甘寧郷行きのバスで到着。青龍瀑布内。 | |
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甘寧 |
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雲南省保山市太保山上 | 【武侯祠正殿】 【諸葛亮像】 |
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ここ保山は諸葛亮軍が南征時に立ち寄った地。保山には元々3つの武侯祠があったが、現存するのはここ太保山の武侯祠のみ。明の嘉靖年間に建てられ、幾度の修建・再建を経て1988年に市文物保護単位に指定された。(今では五大武侯祠の一角を担う。)西南地方第二の武侯祠である。(第一は言うまでもなく、成都武侯祠) 正殿内には諸葛亮をはじめ、当地の英雄である呂凱と王伉の塑像も祀られている。 |
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規模では他のメジャー武侯祠には敵わないが、特色ある武侯祠と言える。太保山上は非常に環境・雰囲気がよく、散歩コース上にあるので訪れる人(地元民がほとんどだが)もかなりいる。 祀られている武将もお馴染みの姜維や蒋琬等ではなく、雲南の英雄・呂凱と王伉が選ばれているのも面白い。(05年10月) |
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長途汽車站付近から西方面へ。太保山上。徒歩で到達可。 | |
備考 | 門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:山 / 見応え:五大武侯祠制覇! | |
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諸葛亮、呂凱、王伉 |
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雲南省保山市金鶏村 | |
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呂凱は永昌郡不韋県の人。秦の呂不韋の後裔が、漢の武帝の時代に移住させられた地である。(呂凱も呂不韋の後裔) 金鶏村の入り口に、「漢陽遷亭侯雲南太守呂季平先生故里」の碑が立てられている。 |
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呂凱の故里は現在の金鶏村だが、古鎮として有名な場所で温泉もあるらしい。街を歩いていても、大通りには露店商がたくさんいて、かなり楽しい。 村内には点将台の他にも呂凱関連の遺跡・史跡が数多くあるとのことで、次回の再訪を誓った。(05年10月) |
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保山(長途汽車站付近)から金鶏村までミニバスが出ている。故里碑は村の入り口・鳳尾橋の側ら。 | |
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:平地(台) / 見応え:渋い | |
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呂凱 |
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雲南省保山市金鶏村 | |
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呂凱が建てたといわれる点将台。幅は約15m。 点将台の上にはガジュマルとオウレンボクの2本の木がある。向かって左のガジュマルは、呂凱の馬の鞭が木になったという伝説がある。呂凱の汗から鋭気をもらい、故に青々と茂っているのだそうだ。右のオウレンボクは、呂凱の馬をつないでいたため、引っ張られて枯れてしまったと言う。 |
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数ある三国武将の中でもこの点将台は最大規模を誇る。特に碑などなく特別に保護などされていないが、その存在感は圧倒的と言える。金鶏村に数ある呂凱関連遺跡のうち、もっとも見応えがある。(05年10月) | |
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金鶏村の入り口(橋がある場所)付近。橋を渡る手前、左側に位置する。保山(長途汽車站付近)から金鶏村まではミニバスが出ている。 | |
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:村内は徒歩 / 地形:平地(台) / 見応え:圧巻 | |
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呂凱 |
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雲南省曲靖市内 | |
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曲靖は孟穫の主要な活動拠点と考えられ、いわゆる「孟穫故里」とされる地。このレリーフは“七檎七縦”後の和解の様子を表現している。1987年完成、長さ60m、高さ4m。 尚、曲靖は彫刻の街として有名であり、当地にまつわる歴史的故事等を題材にした彫刻・塑像などが数多くある。ちなみに中国語でレリーフは“浮彫(fudiao)”と言い、この“浮彫”のタイトルは「諸葛亮与孟穫」(“与”は&の意味)。 |
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レリーフがあまりにも長い為、かなり斜めから撮影しないと全体像をカメラにおさめることができない。中国通なら九龍壁の撮影に頭を悩ませたことが二度や三度はあるはずだが、このレリーフはその比ではない。広角レンズ持参は必至!(05年10月) | |
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市の中心“麒麟仙女”像あたりから麒麟北路を北上するバスに乗り「白石江」下車。南に徒歩5分ほど戻れば到達 | |
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バスor徒歩 / 地形:緩い坂 / 見応え:長い! | |
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孟獲、諸葛亮 |