広東省


虞翻祠故址
所在地
広東省広州市光孝路光孝寺 虞翻祠故址
解説
もともとは、前漢南越王の邸宅。孫権が呉王を称した時、虞翻は酒に酔えなかったために、この地に左遷された。以後、虞翻はここで学問を教え、数百人の門下生がいたという。虞翻の死後、虞翻家の者がこの地に寺を作った。虞翻祠も建てられたが、今はない。
現況
今となっては、ただの寺。ただ寺としてのレベルは高く、たくさんの信者でにぎわっている。虞翻が左遷された理由は、孫権の目の前ではだか踊りをしたからと聞いたことがあるけど、真相は?(98年7月)
交通
4路バスで「西門口」下車。ちょっと奥まった所にあり、意外と見つけづらい。
関連武将
虞翻


訶子樹
所在地
広東省広州市光孝路光孝寺内 訶子樹
解説
虞翻がこの地に流された時に自ら植えたとされる樹。虞翻の死後、寺の代々の僧侶が多くの樹を植えたが、今残っているのはこの一本だけ。実には薬の効果もあるといわれている。
現況
境内には似たような樹が何本かある。解説が記された碑が建てられているので、探せばすぐ発見出来る。(2001年5月)
交通
4路バスで「西門口」下車。光孝寺内
関連武将
虞翻


福建省


永興宮(甘寧廟)
所在地
福建省漳州市龍文区藍田鎮東屿村 永興宮
【永興宮】
永興宮正殿
【正殿】
解説
甘寧と唐代の輔順将軍である馬仁の二人を祀った廟。元々この二人は別々の廟に祀られていた。村には若者を中心とした甘寧派と、老人を中心とした馬仁派があり、両派は険悪な関係であったようだが、最終的に同じ廟に共同で祀られることとなった。
また、当地は「現存する最古の甘寧廟」であるらしい。
現況
本殿に甘寧と馬仁の像が並んでいるが、どちらか区別がつかない。左側の壁には甘寧の活躍が描れた画が並んでおり、柱にも甘寧を讃える対聯が刻まれている。但し地元民に甘寧の名前を訊ねても生返事しかかえってこず、ここを甘寧の聖地と認定すべきかは微妙なところである…。(12年4月)
交通
東屿村の北側。(漳華東路のすぐ北)大通りから廟が見える。廟のすぐ近くに市内バスの停留所がある。ちなみに東屿村は南北に長く、我々は南側から入った為、かなり歩く羽目になった。
関連武将
甘寧


東山関帝廟
所在地
福建省漳州市東山県風動石景区内 東山関帝廟山門
【東山関帝廟山門】
正殿
【正殿】
解説
1387年創建。四大関帝廟の一つ。台湾にある数多くの関帝廟は、ここ東山関帝廟より鄭成功親子らにより分霊され伝播したものでり、台湾関帝廟の祖廟と言われている。
現況
四大関帝廟というからどれだけでかいのかと期待したが、意外とこじんまりとしていた。これでは四大の名が泣くぞ!しかしこの重厚な雰囲気こそ四大にふさわしいという意見もあるようだ。(12年4月)
交通
アモイ、州から東山行きのバスに乗り、銅陵下車。(銅陵が終点)風動石景区までは徒歩圏内。
関連武将
関羽


董奉草堂
所在地
福建省福州市長楽市古槐鎮龍田村 董奉草堂
【董奉草堂】
董奉像
【董奉像】
解説
華佗・張仲景とならぶ建安三代医聖の一人、董奉の故郷。董奉は、病人を治療した際に、謝礼金を決して受け取らなかった。その代わりに、裕福な者は5本、貧乏な者は1本の杏を植えさせたという。このため、付近は瞬く間に杏林ができあがったという。後年、飢饉の際に、董奉は杏の木を売って食料を買い求め、多くの民を救ったという。こういった逸話から、中国では徳の高い医師を「杏林」と呼ぶようになった。日本にある「杏林大学」の命名の由来もここからきている。
現況
まず感動するのが、ぼったくり地獄と化している大陸において、入場無料であること!杏林の心が当地人民にも息づいているのはうれしい。中は非常に広い。記念館を中心に、中庭には董奉像が安置され、杏林や亭などが配置されている。記念館は昼休みがあるので注意。 彼が地元民から尊敬の対象となっていることがひしひしと伝わってくる。(12年5月
交通
長楽の南にあるバスターミナルから古槐鎮行きのバスに乗り、龍田村で途中下車。玫瑰山荘のすぐ近くなので、目印にして進もう。草堂は「董奉山」の麓にある。
関連武将
董奉


三清宮(呂蒙故宅)
所在地
福建省建瓯市郊外雲際山中 財神殿
【財神殿】
財神
【財神】
解説
呂蒙の故宅があったとされる場所。その後、呂蒙の末裔がこの地に寺廟を建てた。唐代、明代に拡張され道教寺院の三清宮となり現在に至る。
現況
三清宮は規模が大きく山全体に様々な建築物が点在している。現在、呂蒙故宅は残っていないが、三清宮の財神殿には8人の財神が祀られており、その内3人は呂蒙、魯粛、陸遜であり、呂蒙信仰が根付いているこの地独特の財神と言える。(12年5月)
交通
建瓯の市街から2キロほど。水南大橋まで市内バスで行き、そこから徒歩。雲際山の看板の裏手から登山。あとは脚力次第だが、30〜40分くらいか。
関連武将
呂蒙、魯粛、陸遜


江西省



三国東呉墓
所在地
江西省南昌県小藍郷「桂花村大酒店」内 三国東呉墓
【入り口】
三国東呉墓
【墓室内部】
解説
1979年、林を平地にした際に発見された古墓。小藍郷地区は風水上適地とされ、古来多くの墓がつくられた。
墓室は十字型になっており、盗掘痕が3箇所あったものの、左右の耳室からは23件の副葬品が発見されている。
墓誌銘などは発見されていないものの、墓室の構造・天井壁・墓壁の網銭紋などが湖北鄂州より出土した孫将軍墓と酷似していることから、三国時代の古墓と断定された。
80年代には文物保護単位にも指定され、3度の修繕を経て現在に至る。
現況
村人の話によれば“登記”をしないと見学できないとのことだったので、厳重に封印されているのかと思いきや…。墓室に扉はなくホテルの敷地に入れば誰でも自由に見学できる。
網銭模様の墓壁レンガが妙に墓のリアルさを引き立てており、これまで数多くの墓を目にしてきた遺跡アタッカーをも驚愕させること間違いなし。
以前入り口には鉄門があったらしいが、盗まれたとのこと。墓室が自由に見学できるのは非常にありがたいが、管理の方もしっかりして貴重な遺跡の保護につとめて欲しい。
尚、墓室を満喫するには懐中電灯は必携。(07年2月)
交通
南昌火車站西の「老福山」より239路などに乗り、昌南客運站すぐ南の「泰豪小藍工業園」下車。4つ星「桂花村大酒店(迎賓中大道1089号)」内。
備考
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:郊外バス / 地形:ホテル / 見応え:南昌の宝


呂墓崗
所在地
江西省南昌県麻丘郷広福孫家村南東1.5km
解説
史書に呂蒙墓の場所についての記述はないが、地元ではここが呂蒙墓だと言い伝えられている。いわば伝説的な墓だ。
関羽を捕らえた後、孫権は曹操によって南昌侯に封じられているが、その最大の功労者である呂蒙の墓が南昌にあるのはある意味筋が通っている。
現況
かつては4〜5mの高さを誇ったというが、近くの堤を修復する為にこの呂墓崗の土が削り取られてしまったらしい。
何も知らないとただの堤防のようにも見える。周辺の村人は大抵知っているが、保護を必要とする危機遺跡に認定する必要あり。(07年2月)
呂墓崗
交通
南昌市内、井岡山大道の「江電」から226路バスで終点麻丘へ。後は道なりにひたすら北東方向約3kmにある広福孫家村を目指す。(村内に孫家宗祠がある)村の東端から南東方向に見える。河のすぐそば。
備考
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス+徒歩 / 地形:農村 / 見応え:危機遺跡を救え!
関連武将 呂蒙


孫慮城遺址
所在地
江西省安義県鳳凰山 孫慮城遺址
【孫慮城遺址】
孫慮城遺址
【孫慮城遺址碑】
解説
東呉黄武7年(228年)3月、孫権によって建昌侯に封じられた二子・孫慮が建てた城。優秀だった孫慮は丞相・顧雍などの推挙により半州(九江近辺)に開府している。
城は東西334m、南北393mの規模を誇り、東西南北に四門が備えられていた。
1937年の道路修繕時に多くの兵器が発見されている。省級文物保護単位。
現況
古代の城壁の中ではかなりきれいに土壁が残されている方だ。孫慮は優秀だったそうだが、若くして死去。呉末期の混乱ぶりを見ると実に惜しいが、この遺址が残されている意義は実に大きい。(07年2月)
交通
南昌長途汽車站から安義行きのバス(一部高速を通る)に乗車し、安義から4km手前の鳳凰山で下車。鳳凰山の中心北側に城壁が見える。
南昌洪城客運站⇔安義のバスは高速を通らない。
備考
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:城壁 / 見応え:綺麗な城壁に感動
関連武将 孫慮


感古亭
所在地
江西省靖安県況鐘園林内
解説
予章太守だった、太史慈を記念した亭。あまり知られていないが、太史慈は予章地区(南昌近辺)では、「感古将軍」と呼ばれ、神格化されている。かつては10箇所程度、感古廟があったらしいが、現存するのはこの「感古亭」と、流湖郷にある「感古廟」の2箇所だけと言われる。
現況
色彩豊かな亭が、温泉地の裏庭の一角にひっそりとそびえ立つ。近くには由来を記した碑もあり、太史慈についての説明がある。(15年2月)
交通
南昌長途汽車站から靖安行きのバスに乗車。バス停のすぐ近くにある況鐘園林の敷地に入り、裏手の温泉リゾートへ。リゾートの庭の散策コースの中にある。
関連武将 太史慈


聶公廟
所在地
江西省永修県呉城鎮
解説
呉の武将・聶友を祀った廟。本来は出身地の樟樹市にあったようだが、こちらに移設されたらしい。
現況
町外れに、ピンク色の立派な廟が建っている。聶一族の3人の名人を祀っているとなっていた。(15年2月)
交通
永修県の客運中心から呉城行きのバスに乗車。バス停からは南東の方角に1キロ程度歩く。百度地図で場所が出るので、これを参考にすると良い。
関連武将 聶友


望湖亭(周瑜練兵古址)
所在地
江西省永修県呉城鎮
解説
ハヨウ湖沿いにある亭閣。280年に、晋の天下統一を記念して建立されたのが初めといわれる。また、当地は周瑜の練兵処でもあった。明の皇帝の妃にまつわるエピソードもあるらしい。
現況
町の北端にそびえる、呉城のランドマークといえる亭閣。周瑜の面影はなく、説明版を熟読しないと気付かないかも。(15年2月)
交通
永修県の客運中心から呉城行きのバスに乗車。バス停からは1キロ強か。町の北端なので、迷わず行けるはず。聶公廟同様、百度地図を参照よろしくな感じ。
関連武将 周瑜


煙水亭
所在地
江西省九江市内 煙水亭
解説
周瑜点将台と伝えられる所。
現況
甘棠湖に浮かぶ亭の中には金色に輝く周瑜像や周瑜の活躍を描いた壁画などがある。周瑜関連以外にも程普墓や柴桑城など、周辺遺跡の貴重な資料を閲覧できる。土産物屋の周瑜バッジがおすすめ。(98年8月)
交通
1路バス「煙水亭」下車
関連武将
周瑜


浪井
所在地
江西省九江市内 浪井
解説
又の名を「灌嬰井」、「瑞井」と言う。漢代からある塞がれた井戸を、孫権が柴桑に駐屯した時に掘りかえした。その時に発見された碑の通り、孫権の発見はめでたいものとされ、「瑞井」と呼ばれるようになった。ちなみに“瑞”は“めでたい”と言う意味である。又、長江沿いにあることから、長江に浪が起こる時にこの井戸も浪立つと言うことで、「浪井」とも呼ばれている。
現況
名前の由来の通り長江沿いにあるが、住宅街の中にあり一見発見が困難ともいえる。人民に聞き何とか発見。場所を知っていれば大通りからすぐのところにある。井戸の後ろに立つ碑には「浪井」とあった。ちょうど行った時には春節時ということでものすごい大音響とともに爆竹が炸裂していた…。(2000年2月)
交通
九江フェリー乗り場から徒歩10分以内。とにかく人民に聞いた方が無難。
関連武将
孫権


程普墓
所在地
江西省瑞昌市桂林橋 程普墓
解説
呉の武将程普の墓。程普墓に関する資料はあまりないが、煙水亭内の展示館が参考になる。(ここには以前存在した孫策墓の写真も展示してある。)程普家に伝わる書物が程普墓の重要な資料となっているようだ。
現況
瑞昌というかなり田舎街のさらにはずれにある。程普墓は、98年の長江大洪水時に水没した形跡が見受けられる。墓標の文字がかすれていたし、傷もたくさんついていた。しかし墓ごと流されなかったのは不幸中の幸いか。ちなみに街の水先案内人ボリタク運ちゃんは程普の名前は知らず、“超昔の人の墓ならあるぞ!”と言っていた。呉将・程徳謀地に堕ちたり!(2000年2月)
交通
九江西バス乗り場より瑞昌行きバスがある(こともある)。我々が行った時は途中でバスのエンジンがぶっ壊れ、乗り換える羽目に…。瑞昌バス停からはボリタクもしくは2路のバスで桂林橋まで行ければ見つかるはず。
関連武将
程普


周瑜点将台
所在地
江西省星子県
解説
呉の大都督周瑜が兵を指揮したとされる場所。城門のような建物が残されている。三国時代の柴桑城から近い場所にあり、歴史的に見ても十分に理解できる。同じ星子県にある「落星石」も実は周瑜点将台であることから、ここら辺一体で兵の訓練をしていたのであろう。周瑜点将台の写真は九江の煙水亭で見ることができる。白黒の写真からかなり古いということがわかるが、それは今も変わりはない。 周瑜点将台
現況
古いとはいえしっかりとした建物がいまだに残っている。正直言ってあそこまで保存状態が良いとは思っていなかった。(もう現存しないのではとさえ思っていた。)何度も何度も修建されているはずだ。人民をつかまえて点将台に登ってみようとしたが、失敗。門はかたく閉ざされており見学は外からしか出来ないのが残念。(2000年2月)
交通
九江長距離バス乗り場(市内で一番大きいバスターミナル)から星子行きのバスが出ている。星子に到着後はひたすら進行方向に歩き、鳥居のようなものが見えたら左折。坂を下っていく途中にある。
関連武将
周瑜


落星石
所在地
江西省星子県 落星石
解説
呉の大都督周瑜が指揮をとったとされる、ハヨウ湖に浮かぶ小さな島。兵を鼓舞するにはもってこいのロケーションだが、三国時代と地形に変化がなければ指揮の訓練は到底無理だろう。
現況
湖に浮かぶ岩石の上に建物が建つ。その名も落星寺。そしてなんとここに住職が住んでいる。船がなければ陸には上がれないというのに、おじいさん&子供2人が元気に暮らしている。(果たして学校には通っているのかが最大の疑問。)寺の中には周瑜関連のものはまったくない。仏像が一体安置されていただけであった。(2000年2月)
交通
周瑜点将台から道沿いに南下し、湖に出れば必ず見える。ただ、実際上陸するとなると話は別。我々は人民の漁船をチャーターし、魚にまみれながら到着。その後はひたすら沼状態のところをはいつくばりながら進む。魚まみれ、泥まみれは覚悟されたし!
関連武将
周瑜


湖南省


韓玄墓
所在地
湖南省長沙市内
解説
長沙太守の韓玄は、演義では領民を虐げる領主として描かれ魏延に斬られるが、正史では赤壁の戦い後に劉備に降ったという記載があるのみ。
伝説では劉備軍に斬られた後に、この地に葬られたらしい。いずれにせよ、演義のイメージとは異なり、地元ではそれなりに慕われていた韓玄。以前は墓のみならず祠もあったが、明代に破壊された。
韓玄墓
現況
元々は「漢太守韓玄之墓」という墓碑であったが、後に“太守”の部分が“忠臣”に換えられ今に至る。このことからも、地元長沙では意外にもかなり尊敬されていることがわかる。演義のエピソードからすると墓があること自体が既に奇跡であるのだが…。韓玄、実は領民を救おうとした立派な太守であったという伝説も残っている。(05年12月)
交通
長郡中学内。(歩行者天国の黄興南路西側)
備考
門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:学校 / 見応え:長沙、真の英雄の墓を見逃すな!
関連武将 韓玄


小喬墓
所在地
湖南省岳陽市岳陽楼内 小喬墓
解説
言い伝えによると、この地に周瑜都督府があったと言われている。本物の小喬墓は周瑜墓がある盧江の方であると思われるが、岳陽小喬墓は非常に立派なものである。
現況
この墓は80年代末に修建されたものである。岳陽楼の中(北側)にあり、観光名所としてはいい場所にあると言える。墓の前には廟があり中には小喬像もある。しかし中は土産物屋になっており、しっかり見ないと見落としてしまう可能性も…。(97年3月)
交通
市内バスがいくつも「岳陽楼」に停車する。長江下りの船の港からも歩いていける距離。
関連武将
小喬


魯粛墓
所在地
湖南省岳陽市内 魯粛墓
解説
この墓は明末から清の初めにつくられたもの。このことからも、この墓は本物ではないことがわかる。とは言っても中国にいくつも存在する"魯粛墓"の中で間違いなくこの岳陽のものが最大にして最高だ! "東呉魯太傳之墓"と記された墓碑は失われていたらしいが、現在は復活。
現況
工場裏の住宅街の中にあり、普段は門が閉ざされているようだ。我々は通行人に頼んで、隣に住んでいた管理人のじっちゃん人民を紹介してもらった。そのじっちゃん人民の話では、過去に塀を乗り越えて、しかも入場料(5元≒65円)を払わん日本人がいたらしい。まぁ、やっぱりと言うべきか…。実は我々も遂行直前でようやく管理人をみつけたのだから…。敷地内はちょっとした資料館と魯粛像も存在する。管理人の人民じっちゃんにつかまると世間話でなかなか帰れないので覚悟と時間が必要。(とてもいい人です!)(2000年2月)
交通
岳陽楼から東方面に約1kmの所にある。一応工場の敷地内にあるため、少し探すのに苦労した。発見後も高い壁に阻まれ裏からまわる羽目に…。
関連武将
魯粛


魯粛点将台
所在地
湖南省岳陽楼内 魯粛点将台
解説
岳陽楼は又の名を魯粛閲兵台という。そして岳陽楼が洞庭湖に面する所には現在でも魯粛点将台が存在する。魯粛が水軍を訓練する時に造ったのが、この閲兵台というわけだ。
現況
岳陽門の階段を降りた辺りに魯粛点将台の標識がある。明らかに再建されたものであり、規模も小さいが、洞庭湖の水軍演習をここから眺めれば最高の気分になれそう。(2000年2月)
交通
岳陽楼内。
関連武将
魯粛


張飛巡視耒陽像
所在地
湖南省耒陽市内
解説
劉備の幕僚に加わった龐統は耒陽県の県令に任命されるが、毎日酒びたりで政務を怠っているという報せが入る。怒った劉備により視察に派遣されたのが張飛と孫乾。
このエピソードから2001年に張飛の塑像がつくられた。
張飛巡視耒陽像
現況
龐統・張飛・孫乾の中で耒陽市民に最も受け入れられているのが張飛。地元では張飛酒が今に伝わっている程だ。
塑像は人民の憩いの場・杜甫公園の正面にあり、認知度もかなり高い。像の出来栄えもなかなか。尚、このポーズは張飛お決まりの決めの姿である。(05年12月)
交通
杜甫公園正面。蔡倫記念園から徒歩3分。
備考
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:市内バス / 地形:公園前 / 見応え:張飛像の中で一番かっこいい
関連武将 張飛


古県廷
所在地
湖南省耒陽市内 古県廷大門
【古県廷大門】
士元裁き
【士元裁き】
解説
劉備に任命された龐統が県令として政務を行った場所。当初はその任に不満を感じ酒浸りで職務を怠っていた龐統だが、必殺の“士元裁き”により張飛、孫乾の度肝を抜き、才能を見せつけた。
現在の県廷は2004年に再建されたもの。
現況
龐統が県令をしていた当時の県廷を復元しており、大門、儀門、正堂、二堂などのつくりはかなりしっかりしている。
展示・陳列物も豊富で、耒陽周辺の三国志遺跡や、龐統の人物紹介、歴代耒陽県令の解説、そして幻の張飛馬槽などがある。
一番の見所はやはり“士元裁き”を忠実に再現した塑像群。龐統の威厳、張飛の酒好きっぷりがひしひしと伝わってくる素晴らしい出来だ。(05年12月)
交通
張飛像のある杜甫公園(張飛広場)から2路の路線バスで到達可。位置的には蔡倫記念園から見て真南の金南路上、金南居委会付近と思われる。
備考
門票:あり / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:市内バス / 地形:平地 / 見応え:主役龐統を見逃すな!
関連武将 龐統張飛、孫乾


谷朗墓
所在地
湖南省耒陽市亮源郷睦村虎形山 谷朗墓
解説
九真(現ベトナム・ハノイ)太守を務めた呉将・谷朗の墓。死後、故郷である耒陽に葬られた。1983年に省級文物保護単位に指定。
現況
文物保護単位になっており、資料によればしっかり整備されている印象を受けるが…。そこは呉の超マイナー武将・谷朗がなせる技か、荒れ放題…。斜面にあるので墓の立地条件として最悪なのだが、藪が追い討ちをかけもはや原形を留めていない。しかし左右を飾る石柱や穴が生々しく残されており、感激&驚愕すること間違いなしの素晴らしい墓。
2〜3年前に政府の役人が調査に訪れたらしい。穴はその際に掘られたものか?いずれにせよ、一人で行って落ちたら死の危険もあるので、要注意。(05年12月)
交通
耒陽→亮源のバスはあるが便数が少なく、亮源から谷朗墓までかなり距離がある。おまけにド田舎なのでバイタクはあてにできず、墓は藪がひどい山中にあるので、村人の案内がないと到達は困難。(我々はタクシー&村人チャーター)
備考
門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:気合ダッシュ(?) / 地形:山 / 見応え:これぞリアル墳墓!
関連武将 谷朗

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