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上海市 | ![]() |
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三国時代赤烏5年(242年)創建の上海で一番古い寺である。元々は孫権が建立したといわれている。文革で他の三国遺跡同様破壊されたが、その後再建された。 | |
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はっきり言って、現在三国時代を想わせるものは全く残っていない。境内(寺の対面)には立派な塔があるが、残念ながら登ることはできない。一応呉関連の遺跡と思いながら参観した。(96年9月) | |
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地下鉄で行くのが一番便利。新龍華という駅があるが、他の駅からも簡単に行ける。バスなら44・104路がお勧め。 | |
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孫権 |
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上海市朱家角 人文芸術館 | ![]() |
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上海から郊外バスで気軽にアクセスできる水郷古鎮・朱家角。実は、この地には甘寧が駐軍していたという民間伝承がある。それによると、甘寧は、魏との戦いで奮戦するも、討ち死にし、この朱家角に埋葬されたらしい。1930年代に、甘寧墓が発見されたという話も残っている。付近の別の場所にも、甘寧墓伝説がある(何も残っていなかったが)ので、意外と関係があるのかもしれない。 | |
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そういうわけで、伝説の甘寧墓は跡形もないが、「人文芸術館」という、ご当地にちなんだ芸術作品等を展示している美術館がある。そして、甘寧がゆかりの人物として、塑像を作られ、展示されているというわけだ。像は荒削りな感じだが、なかなか凛々しくて好印象。(2014年11月) | |
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地下鉄2号線の終点、徐径東から、朱家角へいく郊外バスが出ている。小一時間で到着、古鎮の中にあるので、探すのは簡単である。 | |
備考 | 門票:20元 / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス /地形:美術館 / 見応え:甘寧墓伝説もチェックしておくとさらに趣が。 | |
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孫権 |
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江蘇省蘇州市人民路 | ![]() |
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孫権の母を住まわすために建てられた寺は、三国時代赤烏年間の創建。当初は"通玄寺"と呼ばれていた。塔は梁代に建てられたが、現在残っている塔は南宋・紹興23(1153)年の重健。高さは76m、8階からは蘇州の街なみを一望できる。 | |
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中国に3つしかないはずの九龍壁が、ここにもある。(かなり小さいけど。)約850年前に造られた塔(もちろん補強はされているだろうけど。)は見た目でもかなりボロボロだとわかる。もし蘇州大地震か台風18号でも着たら一っ飛びといった感じ。(2000年8月) | |
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蘇州火車駅から徒歩約10分。人民路沿いにある。 | |
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孫権 |
廉石 | ||
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江蘇省蘇州市文廟内 | |
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鬱林(現在の広西)太守を務めていた陸績。通常、鬱林太守は離任時に多くの宝物等を持ち帰ったが、清廉な陸績は帰郷(陸績は呉=蘇州の人)する時にほとんど荷物がなかった。しかし、船が軽すぎて強風大波に遭った時に沈没する恐れがあると船頭が慌てた為、この石を積み込ませたという。 陸績の清廉さをあらわすこの故事より、この石は廉石と呼ばれている。 |
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特に説明書きがない為、由来を知らないと何の石だがわからないが、陸績の故事を知っていると一つの石でも面白さが広がる。中国では三国志でよりも二十四孝子の一人として有名。(05年1月) | |
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蘇州火車站から南約5km。人民路上の文廟内。 | |
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門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス /地形:廟 / 見応え:石ころ一つと思うなかれ! | |
関連武将 | 陸績 |
顧雍墓 | |||
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江蘇省蘇州市蔵書鎮小王山南中腹 | 【顧雍墓碑】 |
【顧雍墓】 |
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呉の第二代丞相・顧雍の墓。顧雍は呉郡呉県の人、つまり蘇州の出身である。 1928年、陝西省長の李根源先生が「呉県木読志」で顧雍墓の存在を確認し、この地を捜索。風雨にさらされボロボロになり、苔にまみれた碑と墓を発見したと言う。その後、李先生の手によって顧雍墓は修復された。 |
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顧雍墓は李根源先生亡き後も地元でしっかり保護されている。しかし、その存在を知る村人は少なく、我々三劉も二度目の捜索でようやく到達。文物保護単位の墓とは異なる雰囲気を放っており、個人で顧雍墓の復旧と保護を推進した李根源先生にただただ敬服する。 顧元歎丞相万歳!李根源先生万歳!(09年1月) |
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蘇州汽車北站から64路に乗り、「蔵書」下車後朱買臣路を南へ。すぐに大きな門が現れるので、これをくぐる。そのまま南へ2〜3km行くと金鶏山公墓の看板があるので、ここを西へ数百mで李根源墓(小王山東麓)に出る。顧雍墓は南麓にある。 | ||
備考 | 門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 / 地形:山麓 / 見応え:李先生の魂の叫びを聞け! | ||
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顧雍 |
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江蘇省鎮江市東北北固山上 | ![]() |
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孫権が劉備を北固山に招き、曹操を討つために秘策を練ったといわれている。孫権の時代には、まだ甘露寺は建立されていなかった。 | |
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甘露寺は呉の末帝孫皓の創建であるが、その後破壊と再建を繰り返して、今日に至る。甘露寺の境内に魯粛墓・太史慈墓・試験石がある。その他に、鉄塔、阿倍仲麻呂碑、天下第一江山石刻、多景楼などがある。中国ではおなじみの、ちゃちな人形館“三国城”もある。(97年3月) | |
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4路バスに乗り、「甘露寺」で下車。4路バスは駅から出ている。 | |
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孫権、劉備 |
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江蘇省鎮江市東北北固山上 | ![]() |
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中国にいくつもある魯粛墓の一つ。隣にある太史慈墓とは違い、こちらは本物の墓ではない。 | |
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鎮江には二つ魯粛の墓がある。もう一つの墓も市内地図に載っているが、少しわかりにくいところにある。当時、私は素通りしてしまったが、“一中”という中学校の中にある。(97年3月) | |
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4路バスに乗り、「甘露寺」で下車。4路バスは駅から出ている。甘露寺の東に位置する。(同じ境内にある。) | |
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魯粛 |
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江蘇省鎮江市東北北固山上 | ![]() |
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清の同治九年(1870年)、鎮江城壁を修繕する時に発見された。つまり本物の墓である。発見後保護されてきたが、現在の墓は見るからに新しい。さすがに造りはお隣さんの魯粛墓と似ている。 | |
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ここにくれば魯粛と太史慈の墓参りを一挙にできるというのはおいしい。太史慈と一騎打ちした孫策の墓が失われてしまったのは無念なり!(97年3月) | |
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4路バスに乗り、「甘露寺」で下車。4路バスは駅から出ている。甘露寺の東に位置する。(同じ境内にあり、魯粛墓の隣。) | |
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太史慈 |
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江蘇省鎮江市東北北固山上 | ![]() |
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三国演義の有名なエピソードに由来する古跡。と言ってももちろん本物ではないが…。 | |
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孫権と劉備の剣が石を見事に真っ二つにしている。「そんなわけないだろ。」とか思わないように。(97年3月) | |
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4路バスに乗り、「甘露寺」で下車。4路バスは駅から出ている。甘露寺境内の入り口すぐ。 | |
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孫権、劉備 |
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江蘇省鎮江市第一中学内 | |
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この地には解放後まで、"後漢東呉魯大夫墓"が存在した。それが碑も墓もなくなってしまったのは、やはり文革の影響なのだろう。93年に北固山内に墓が移され、この地には墓があったことを示す碑が建てられたのである。 | ![]() |
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中学の管理人に中に入れてくれるよう頼むと、『碑があるだけだぞ。めんどくせぇなぁ。』とぶつくさ文句を言われた。やはりこういう遺跡は普通の人にはただの石ころらしい。特に塚があるわけでもなく碑があるだけだが、私にとっては“宝石”なのである。なにせ一度捜索に失敗したのだから…。(2000年8月) | |
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一中までは鎮江南門長距離バスターミナルから歩いていける。 | |
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魯粛 |
高陵 | ||
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江蘇省丹陽市司徒鎮大墳村北 | ![]() 【高陵遠景】 ![]() 【高陵石碑】 |
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「高陵」、すなわち呉の孫権が皇帝になってから武烈皇帝と諡された孫堅の墓である。正史や呉録などの史書によれば、孫堅は死後曲阿の高陵に葬られ、呉夫人も合葬されたという。 規模は陵墓と言うにふさわしく(高さ15m以上)、三国志武将随一の墓であり、“大きな墳墓”という名前がそのまま村の名前となっている程である。 |
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正直ここまで素晴らしく、しかも超大物・孫堅の墓があるとは驚きだ。これまではその存在があまり世に知られていなかったようであるが、99年には鎮江市の文物保護単位に指定されており、これからのメジャーデビューに期待がかかる。(04年12月) | |
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丹陽火車站より司徒鎮行きのバスが出ている。(司徒鎮は丹陽市内から西約5km)譚巷で下車後ひたすら北上(2〜3km)すれば到着。高陵の手前に同じくらいの規模の塚(小山)があるので要注意。本物には碑がある。また村の名前も捜索の手がかりとなる。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:丹陽火車站よりバス(徒歩も可) / 地形:平地 / 見応え:号泣必至 | |
関連武将 | 孫堅 |
蒙園 | ||
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江蘇省丹陽市呂城鎮 | ![]() ![]() |
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呂蒙がこの地に築城したことが「呂城」の地名の由来となっている。 | |
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2010年に呂蒙を記念して、市内に公園が作られた。入り口にある石碑にちょっとした呂蒙肖像が彫られ、由来が記載されている。その他で呂蒙を感じさせるものは残念ながらない。(14年9月) | |
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常州−丹陽のバスで呂城で下車するか、丹陽−呂城南のバスで呂城南で下車するかで、呂城へ行く。蒙園は呂城南からすぐ近く。呂蒙南路にあるチャイナテレコム(中国電信)の南側の道を西に入るとすぐ。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス / 地形:平地 / 見応え:ほっと一息 | |
関連武将 | 呂蒙 |
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江蘇省南京市鐘山南麓 | ![]() ![]() |
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孫権の墓。又の名を蒋陵、呉王墳、梅花山と言う。孫権と皇后の歩夫人が埋葬されている。明の朱元璋が自らの陵墓(明孝陵)をこの地に建造するときに、神道を曲げてまでも孫権の墓を残した。朱元璋曰く「好漢孫権の墓を壊してしまうのはあまりにも惜しい!」 | |
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別称梅花山と言うだけあって、梅が咲く時期は景観が美しい。近くに明孝陵、中山陵があるので、三国志関連以外の観光名所としても十分に楽しめる。(97年3月) 長い間、「三国の一角を担う割にはいまひとつ」との評価に甘んじていたが、ついに大型投資がなされ、「呉大帝孫権記念館」が建立された!!内部の展示も、孫権の経歴や当時の貿易や文化など幅広く充実している。ついに、呉関連遺跡の「聖地」を担えるまでに成長してきたか・・・?(2015年1月) |
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漢中門から出ている9路バスに乗り、「中山陵]の一つ手前「海底世界」で下車。明孝陵景区の中にある。 | |
備考 | 孫権墓・徹底解剖レポート → サル甘寧Ver / わたわたVer | |
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孫権 |
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江蘇省南京市烏龍潭公園内 | ![]() |
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諸葛亮が劉備・孫権を連合させようと呉を訪れた時に、駐車ならぬ駐馬した場所。諸葛亮はここから見える山々を見て「まさに帝王が住む地だ!」と感嘆したという。 | |
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初め地図で“諸葛”という文字を発見し、由来もわからず訪れた。新しい碑が一つあるだけで実際にたどり着いても“これだけ?”という感じ。昔は公園内に武侯祠もあったらしい(地図にも載っている。)が、残念ながら今は人民の住宅の中に消滅した。(2000年2月) | |
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29路などのバスで「漢中門」下車。後は徒歩数分で到着。 | |
関連武将 | 諸葛亮 |
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江蘇省南京市中山門外清涼山 | ![]() |
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又の名を「称石城」と言う。孫権が建安16年(211年)に建業に遷都した後建てた城。城の周囲3km。呉の重要拠点であり、食料庫やのろし台もあった。 | |
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石頭城は今も地名として残っており、南北にのびる道に沿って城壁を眺めることができる。ところどころ修建された個所を確認できるが、今にも崩れ落ちそうな城壁である。(2000年2月) | |
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29路などのバスで「漢中門」下車。徒歩数分。 | |
関連武将 | 孫権 |
周処読書台 | ||
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江蘇省南京市江寧路老虎頭44号 | |
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荒くれ者であった周処が改心して陸機・陸雲(陸遜の孫)兄弟に師事し勉学に励んだ場所、もしくは周処が東呉の東観左丞相を務めていた時の執務室と言われる。 非常に歴史的価値の高い遺跡。 |
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歴史的価値とは裏腹に現在旅行者レベルで確認することが出来るのは「周処読書台」と刻まれた大門のみである。思いっきり住宅地に溶け込んでいるので、知らない人にとってはただの人民の家。この独特な雰囲気を嗅ぎ分けられれば、超絶呉マニア(もしくは晋マニア)の資格あり。(04年12月) | |
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南京市内地図にも記載されており、一見アクセスは簡単に見えるが、これほど苦労した遺跡も珍しい…。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 /地形:住宅地 / 見応え:独特な雰囲気が漂う | |
関連武将 | 周処 |
馬場山三国村 | ||
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江蘇省南京市江寧区土橋村 | |
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周瑜がここで馬の調教をしたことから馬場山という地名となった。2014年6月に、当地に三国志テーマパーク「三国村」がオープン!周辺にも周瑜ゆかりの遺跡が点在する。 | ![]() ![]() |
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入り口には、城門と周瑜点将像が我々を迎える。中は自然村のようになっていてそれなりに広いが、三国遺跡という意味での見所はあまり多くない。馬場山だけあって乗馬アトラクションあり。あと、バルーンに乗って坂を滑り降りる「小喬スライダー」あり(別料金)。 また、風景区の入り口にある群馬像には周瑜に関連した由来が書いてある。(14年8月) |
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南京東南にある「土橋総站」から、東土線のバスに乗る。周廊橋駅で「周郎橋」を見てから、3キロほど南へ歩くのが遺跡超人コースだが、「土橋総站」から直通バスも出ている模様だった。豊かになった南京市民は、週末マイカーでのドライブで訪れている模様。 | |
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門票:20元 / 塀:あり / 土産物屋:あり / 推奨交通手段:バス /地形:山地 | |
関連武将 | 周瑜 |
周郎橋 | ||
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江蘇省南京市江寧区土橋村 | |
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周瑜が24歳の頃、この地を通過するのに橋がなかったため架けさせた。橋はわずか1日で完成し、そこに周瑜の馬印を残した事から、周郎橋という名前となった。 | ![]() |
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なんて事のない橋だが、地元に周瑜の逸話や地名が残っていることは嬉しい。また、このブロックのほかの遺跡よりも到達難易度が低く、かつ納得感が高いのでおすすめ。(14年8月) | |
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南京東南にある「土橋総站」から、東土線のバスに乗る。「周廊橋駅」下車。バス停の北東すぐの道を北へ行くと2分ほどで橋が見える。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス /地形:はし | |
関連武将 | 周瑜 |
姉妹橋 | ||
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江蘇省南京市江寧区土橋村 | |
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周瑜が新婚の頃、橋の名前をどうしましょうか?とたずねられた際に、2つあるから、2橋と2喬とかけて、大喬、小喬と名づけたことが由来。頭の中新妻でいっぱいだったんかい・・・。 また、姉妹の姉の字は、正しくは日本のフォントでは出ない字である。 |
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バス停からはすぐ近くだが、もうぼろぼろで何がなにやら。片方だけなんとか見つけましたが、もう片方は判別不能でした。(14年8月) | |
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南京東南にある「土橋総站」から、東土線のバスに乗る。「姉妹橋駅」下車。バス停の北側の沼地にある。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス /地形:はし | |
関連武将 | 周瑜 |
凌統墓石柱 | |||
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江蘇省江陰市青陽鎮悟空村 | ||
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凌統の墓。清代の記録では墓碑もあったそうだが、今では7mの石柱が2本残るのみ。 | ||
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今ではかつてここに墓があった証として石柱2本が立っているのみ。由来を知らないと何の石柱か全く分からないが、絶対に消滅して欲しくない遺跡。霞客大道をつくる時に撤去されなかったので、当面は安心か。霞客大道を作る前の様子を写真で確認したが、墓としての雰囲気は以前の方が断然よい。(08年12月) | ||
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無錫高墩橋車站から青陽経由江陰行きバスが出ている。(火車站横のバスターミナルからは高速利用の江陰行きしかない。)青陽鎮の中心(人民路)から南数kmの所に悟空寺3,300mの看板が出ている。(看板は北向きなので、無錫から行くと見えにくい。)看板がある交差点を東へ約3km進むと霞客大道に出るので、そこを南へ数百mで到達。大道の東側。近くに悟空寺があるので、目印になる。 江陰から行く場合、江陰西門站の南すぐの所に青陽行き、もしくは無錫(青陽経由)行きが出ている。(西門站にも青陽を通るバスがあるが、本数は多くない。) |
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凌統 |
国山碑 | ||
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江蘇省宜興市張渚鎮祝陵村(善巻洞西南国山頂上) | |
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呉の末期276年に立てられた石碑。当時発生した地震を吉兆とみた呉の孫晧が国の山、すなわち国山に封じ、(もともとは離墨山という)併せて石碑を立てた。 封禅の儀をとりしきった司徒・董朝(周魴の息子・周処も参加したとも言われる。)にちなみ董碑ともよばれるこの碑は、高さ2.35m、文は篆書で刻まれている。 内容は当時起こった3つの怪現象について触れており、江南地方で発生した地震の最も古い記録でもある。 全国重点文物保護単位(2001年) |
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碑が一つだけとは言えさすがは“全国”重点文物保護単位に指定されているだけのことはある。国山碑院という建物の中に保管されており、立派な門構えをようする。 これで管理人がいれば申し分ないのだが、門は閉ざされ開放されていない模様。しかし諦めてはいけない。後方に柵が壊れている部分があり、何とか侵入できる。むやみに塀をよじ登ったり、碑を傷つけたりしないように!孫晧の怒りを買うか?(2005.1.1) |
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宜興から張渚行きバスに乗り「善巻洞」下車。国山は善巻洞から西南方向に見える距離にある。 | |
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門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:善巻洞から徒歩 /地形:山 / 見応え:歴史的価値有り | |
関連武将 | 孫晧、董朝、周処 |
周処像 | ||
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江蘇省宜興市内 | ![]() |
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三国志ではあまりなじみのない周処だが、宜興はもとより江南地方では非常に有名で人気がある。それを証明するのがこの周処像。その出来栄えは「陽羨第一人物」の称号に恥じない完成度を誇る。 | |
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あまりに完成度が高すぎて(一部西洋風の像)初めは三国時代の人物とは思わずバスで通過した程。(後で周王廟内の展示写真で存在を確認。)この像は周処が「荊渓の蛟」を退治している様子をとらえたもの。(2004.12) | |
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宜興市内。荊渓路の南端ロータリー。1路バスなどが通過する。 | |
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門票:なし / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:徒歩 /地形:ロータリー / 見応え:芸術性高し | |
関連武将 | 周処 |
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江蘇省徐州市中医院内 | ![]() |
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華佗の死後中国各地に華佗廟が建てられ、徐州にも華佗廟と衣冠塚が建立された。この像は華佗廟があるとされる彭城路近くにある病院内のもの。華佗廟が現存しないとしたら、壊される時に像だけ記念として残したのかも知れない。(“中医”とは中国医療のことで、中国では“西医”=西洋医療と区別される。) | |
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有名な徐州華佗廟を目指したが、見つからず聞きこみをするも何も成果無し。それでも諦めきれず、何かあるかもと思って侵入した病院の中にやはり華佗先生がいた!(2001年5月) | |
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彭城路と中山路の間にある市中医院内。市内地図に載っており、火車站からでも徒歩で十分に行ける距離。 | |
関連武将 | 華佗 |
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江蘇省徐州市沛県文化館内 | ![]() |
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木製の六角やぐらの中に“射戟台”と記された額と碑、そして射戟台が存在する。言い伝えによると呂布が劉備と紀霊を停戦させるために弓を射た地とされる。三国演義で有名なワンシーンだ。 | |
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ちょっとした娯楽施設でビリヤードも楽しめる“沛県文化館”の敷地内に呂布射戟台はある。やぐら内の説明によれば、この円形の台に乗って呂布が弓を射たとのこと。ここに三国随一の猛将呂布の塑像があれば…。(2001年5月) | |
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沛県東鳳路上にある文化館内。火車站、長距離バス停の両方から徒歩で行ける距離。 | |
関連武将 | 呂布、紀霊 |
土山関帝廟 | ||
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江蘇省邳州市土山鎮 | ![]() 【大門】 ![]() 【関羽塑像】 ![]() 【関羽・張遼塑像】 |
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関羽が曹操軍の包囲を受け、3つの条件を提示し降伏した地。(三国演義第25回) 明の天順3年(1460年)、山頂付近に関帝廟が建てられた。江蘇省で最大規模を誇る関帝廟だ。 抗日戦争時には日本軍も侵攻しており、抗日義勇軍が結成された場所でもある。 |
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現在対外開放されている関帝廟は05年5月に修復に着手。山頂ではなく鎮の外れにあるので、場所をかえてリニューアルしたということかもしれない。 管理人に聞いたところ、ここはもともと小学校で、関羽の馬蹄印が残された「馬迹亭」があった場所とのこと。その馬迹亭は現在大殿の後方に再建中で1ヶ月後には完成するらしい。 大殿、鐘楼、鼓楼、劇台は真新しく素晴らしい。、関羽・関平・周倉はもちろん、張遼・関興・関羽夫人・関羽の娘の塑像まであり、他の関帝廟とは違う特色が見受けられる。(07年3月) |
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邳州市の建設南路と京杭運河が接する辺り(高架の下)から占城行きのバスが出ている。途中土山鎮の入り口で下車。すぐ南に巨大な関帝廟の看板が立っている。ここから真っ直ぐ西へ1kmで到着。 |
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門票:10元 / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス /地形:平地 / 見応え:御神体の関公像を見逃すな! | |
関連武将 | 関羽、張遼 |
麋竺墓 | ||
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江蘇省連雲港市海州区 |
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麋竺は東海郡 彼の一生を記した記念碑によれば、死後海州の石棚山に移され葬られたとあり、墓碑には“安漢将軍麋公墓”と刻まれている。 |
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石棚山は90年代後半に観光地として整備されたらしく、麋竺墓もその際に再建されたか新たにつくられたのだろう。 碑に刻まれた文字は見えにくいが、変に色をつけるよりずっと趣がある。墓としての豪華さはなかなかのもので、麋竺ファンなら墓参りのしがいもあるというもの。(04年3月) |
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連雲港(新浦)火車站から1路バスで古城付近まで行ける。下車後、東に徒歩15分もあるけば石棚山遊覧区に到着。 麋竺墓は境内を入ってから左手の小山にある。間違っても正面の山に登り1時間半も時間をロスしないように! (景色はいいんだけど。) |
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門票:10元 / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス /地形:小山 / 見応え:満足 | |
関連武将 | 麋竺 |
劉備試剣石 | ||
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江蘇省連雲港市海州区 |
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劉備が徐州で敗北をきっして海州に落ちのびた際に、富豪の麋竺が彼には漢王室を復興させる力があると信じ、劉備を助ける決心をする。これを知った劉備は感激して、この石を真っ二つに叩き斬ったといわれている。 | |
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こっ、これはすごい!鎮江の孫権&劉備によるコラボレーション試剣石をはるかに凌いでいる。この切れ味は21世紀の工作機械に勝るとも劣らない。(というか機械で斬っただろ!)この石をいとも簡単に斬った男・劉玄徳…。なんと恐ろしい男であろうか…。(04年3月) | |
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麋竺墓と同じく石棚山遊覧区内。 | |
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門票:10元 / 塀:なし / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス /地形:小山 / 見応え:何? | |
関連武将 | 劉備 |
王朗墓亀趺 | ||
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江蘇省連雲港市花果山風景区内 | |
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東海の王朗は死後故郷に葬られた。元々は弥陀庵という廟に王朗墓があったが、現在彼の地は郷政府になっている。墓誌を支えていたこの亀趺も、20年程前までは郷政府に置かれていたが、花果山風景区に移設された。 | |
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一見ただの亀だが、これぞ知る人ぞ知る王朗墓の墓誌を支えていたスーパー亀、即ち王朗墓亀趺なのだ。今では役目を変更し、“九龍橋”碑を背負っている。(07年6月) | |
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連雲港(新浦)の龍河広場から10路バスで花果山風景区へ。風景区内の九龍橋にある。 王朗墓があった花果山郷政府へは10路バスで大村下車。花果山の麓。 |
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門票:100元(花果山) / 塀:なし / 土産物屋:なし(風景区の記念品はあり) / 推奨交通手段:バス /地形:山(風景区) / 見応え:かわいい | |
関連武将 | 王朗 |
麋竺井 | ||
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江蘇省連雲港市海州区雲台区関里村 | ![]() |
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麋竺の故郷が現在の連雲港市海州区雲台区関里村。関里村の俗称は麋竺院。 今の関里中心小学がかつて麋竺の邸宅“益州院”があった場所。一説では劉備が麋夫人と結婚した場所とも言われている。 |
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中華民国時代に寺院が建てられたが、現在は小学校になっている。見たところ、麋竺井は現役で活躍しているようだ。近くには「麋竺泉純浄水廠」もある。(07年6月) | |
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連雲港(新浦)の歩行街から26路で前関村下車。下車後対面の道をまっすぐ100m。関里中心小学内。 | |
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門票:なし / 塀:あり / 土産物屋:なし / 推奨交通手段:バス下車後、全力ダッシュ /地形:小学校内 / 見応え:ナイス井戸! | |
関連武将 | 麋竺 |